Masayukiの独り言・・・

老いの手習い日記です。

登呂博物館に行く

2018-04-04 20:24:59 | Weblog

 静岡市には登呂遺跡をはじめたくさんの遺跡が点在している。それは全部で20数か所あると専門誌にあった。これは静岡市は安倍川の三角州の上にあり、温暖な気候が農耕に適していたことや、海も近く魚介類も取れたことによるものと思う。そして登呂遺跡を中心に半径1.0kmほどの範囲に有東遺跡、鷹ノ道遺跡があり、この発掘により新しいことが分かってきた。3月21日~6月10日まで、登呂博物館で「ウトウ、トロ、タカノミチ」というタイトルで3つの遺跡のつながりを解説し展示が行われている。

 このポスターがユニークで、カタカナで3つの遺跡を表し、描かれた絵は得体のしれないものが描かれていた。見方によっては白いカエルのように見えた。そこで4月4日登呂博物館に行った。平日であり小学生や幼児を連れた10組ほどの方がいたが閑散としていた。一階は弥生時代の登呂の様子が分かる展示物や、子供さんが体験できる昔の器具があった。それを見てから2階にある3つの遺跡の展示物のところに行った。

 有東遺跡が登呂遺跡の東北方面にあり規模としては一番大きいようだ。鷹ノ道遺跡は、登呂遺跡の北側にあり谷をはさんだところにあった。現在は幾度かの洪水などで谷は確認できなかった。登呂遺跡の断面地層から何度かの洪水に見舞われそのたびに、同じ場所に田畑や家屋を復元し生活していたようであった。しかし弥生時代の末期、大きな洪水で壊滅的被害が出たようで、そこから標高の高い小黒遺跡や谷津山遺跡に移動したようである。規模が大きい有東遺跡には方形周溝墓が居住地から離れたところにあり、有力者の埋葬が行われていたようだ。同様に登呂遺跡や鷹ノ道遺跡にも墓があったものと思うが、規模も小さく未だに発見はされていない。多分この3遺跡は、互いに隣り合っていて共同に近い生活があったものと思う。しかし弥生後期になると、耕作地と住居地はっきり区分されるようになり、耕作地の規模も大きくなっていった。鷹ノ道遺跡からは畦に人の足と思われる跡が確認されていたが、これも貴重な発見であり、それがポスターのあるカエルのようなものであった。

 登呂遺跡に代表される弥生時代遺跡の発見は、敗戦によって打ちひしがれていた日本人の心に、2000年の昔から営々として築き上げた文明があったことを知った。これは当時の人に希望を蘇らせたものであった。昭和22年から始まった遺跡の発掘には全国から多くの学生や学者が勤労奉仕という形で多数集まった。食べるものもない時期であったが、みんなの気持ちは晴れ晴れとした。その様子を当時の新聞や参加者の声をビデオで聞くことが出来た。いま三内丸山遺跡や吉野ケ里遺跡等大規模な遺跡が発見されたが登呂遺跡群の発見も光り輝いていると云える。