
通勤しながら、考えた。
徒歩の際は、自分で歩くペースなどを決められるけれど、
一旦、電車(や飛行機)などに乗ってしまった以上は、
路線が決まっているし、どんなふうに気持ちが動こうと
到着時間などは、自分でどうこう決められるものではない。
(ハイジャックやら何やら、非合法的な手段もあるにはあるが……)
泰然自若と構えるか、肯定的にも否定的にも「諦める」か。
☆
「格差社会」という問題の把握の仕方も、それと似ているように思った。
格差があるのは自然だ、当たり前だ――と訳知り顔な人らは流すのだが、
格差が世代間にわたり固定化されてしまうことが、本質的な問題なのだ。
予めレールに乗っていると保証されたつもりになれたり、あるいは、
金輪際そんなレールとは無縁だと絶望し、自暴自棄になる連中には関係ない。
でも、未来の“人間”であっても、まずは無知なる「子供」という形で立ち現れる。
彼らに枷を与えるのか? 彼らの自由を束縛するのか?という話なのだろう。
☆
安っぽいヒューマニズムや人道主義を説かれても、醒めるだけだろうし、
単に感傷癖、ぼくの個人的な趣味なのかもしれないけれど、
“現実”とやらを見て、知って、なおかつ、それらから目を背けて、
(堕落以前の)無知に引き籠もることが出来るのかねえ、と。
政治、経済……雑多な情報がひっきりなしに押し寄せてくる
ように見えるけど、本当に知りたかったことには滅多に行き当たらない。
自分の足で、こちらから出向いて行くしかないのだろう。