旧字で「壽寶寺」と書けば厳めしいけど、町中にある普通のお寺「寿宝寺」。
肩肘張らず気さくな雰囲気なのだけれど、大寺院でないためか、
拝観させてもらおうと思ったらば、電話予約が必要なのですね。
大御堂観音寺から三山木駅(JRおよび近鉄)まで下りて、5分ばかり東進。
勢いで出掛けたぼくだったから、そのまま入り込んでしまい、
お寺の方に気を遣わせ(本当にありがとうございました!)、
お目にかかりたかったご本尊さま「十一面千手千眼観世音菩薩立像」に
会わせていただいたのです。庫裏の中には、降三世明王や金剛夜叉明王も列席。
☆
こちらの千手観音の凄さは何か?と一言で言えば、
律儀に、馬鹿正直に、千本の手を取り付けてしまったという造形です。
元々、ヒトに2本の腕しかないのは、進化論や機能主義を踏まえての
生物学的なデザインの制約を受けてのもの。それに対して、
奔放な想像力の赴くままに、千本の手を付けてやるんだ!
と思いついたところで、やはりデザイン的に苦しくなってしまう。
そんな訳で、カウントの仕方を変え、42本=「千手」と見なして
(1本の手で25の世界を救う――という儀矩からだったかな?)
無難に収めるのが大抵の仏師なのですが、寿宝寺の千手観音では
「いや、千手と言ったら、ちゃんと千本作るの!」なんて
頑張っちゃったのですね(同じ作例は、葛井寺や唐招提寺にも)。
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葛井寺の千手観音の千手が技術的に巧緻で、感心させられるのに反し、
寿宝寺の千手観音の千手は、とにかく、勢いです。
熱い想いに任せて、つい、やっちまったぜ!みたいな。
潔いです。気持ちいいです。
……ところが、その意匠とは別個に、面差しの優美さ。
お寺の人がわざわざ庫裏の照明を変えて、
月光の中での尊顔、日中の光の中での尊顔――といったふうに、
千手観音の顔の表情がいかに変化するかを実演してくれました。
ぼくは、(月光を模した)白色蛍光灯の下で見る
哀しげに目を伏せたようなまなざしに 心を魅かれたのです。