
自宅で
若松孝二・監督の『
キャタピラー』(2002年)を鑑賞する。
ついでに、途中まで観て、放ったらかしにしていた
『
ゆけゆけ二度目の処女』(1969年)も通しで観た。
(昔、観た『
処女ゲバゲバ』とよく似た手法の作品だったなあ)
よくよく政治的な主張が突出しがちな若松監督ではあるけれども、
“戦争”や“死刑”制度……つまりは国家的なもの、体制に対する
あの世代特有(?)の激しい怒りをぼくは決して否定できないし、
そういった集団、組織に対して、
個人的な暴力を前面に持ち出して見せた
『
水のないプール』(1982年)なんて、大好きな作品のひとつだ。
まあ、あれは
内田裕也の半端じゃない存在感が凄いのだけれど。
(時折、役者としての
ビートたけしの空気感に、
内田裕也の系譜を感じる)
本題の『キャタピラー』は、
江戸川乱歩の原作。
乱歩、というより、戦前の探偵小説愛好家としてのぼくは元々、興味津々。
戦時下に原作が発表された当時も、原作に対して
これは「反戦小説」ではないか?との嫌疑をかけられて、
社会的な意識に疎かった(戦前の)乱歩が冷や汗をかいたという話も笑える。
確かに、そういった要素をも含む原作『
芋虫』ではあったけれども、
その(作者としては無意識的でもあった)政治的な要素を選って拾い上げ、
一点集中攻撃をかけ、アジテートすると、『キャタピラー』の出来上がりだ。
メッセージはわかり易い。直球ど真ん中のストレートで、ぐいぐい。
でも、(あくまで別ジャンルの作品を比較した場合のことだけれど)
原作に流れていた
淫靡なセクシュアリティの秘密や
軍神・黒川久蔵の最期の哀切さは消え失せてしまうんだよなあ。
ちなみに、毛虫や芋虫を英語で「キャタピラー(
caterpillar)」。
戦車のキャタピラの動きと毛虫などの蠕動を頭の中で重ね合わせて、
なるほど!と英単語を暗記していた中学生時のぼくが、感動していたかも。