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2013-03-10 23:07:00 | Weblog

ルマン「90年代の一台」にマツダ車 ファン投票で(朝日新聞) - goo ニュース

今年90周年を迎える耐久レースの最高峰、フランスでの「ルマン24時間」の1990年代のベストマシンに、マツダ787Bが選ばれた。91年に独自のロータリーエンジンで初優勝。日本車として唯一、欧米の名だたるメーカーとともに、「伝説」として名を連ねた。
ベストマシンは、20年代~2010年代の計11台。ルマンを主催するフランス西部自動車クラブ(ACO)が90周年を記念してアンケートを企画。初開催の1923年から現在に至るまで、数百台のマシンの中から10年ごとに区切ってインターネットによりファン投票を実施した。
約2万人の投票をもとに、ACO幹部や著名なエンジニア、過去の優勝ドライバーが1台に絞り込んだ。マツダ787Bが選ばれた90年代は、「甲乙つけがたい」として、地元フランス勢で92、93年と連覇したプジョー905も同時に選出された。

80年代末期のロードスターの爆発的ヒットを受けて、マツダは軽自動車から普通乗用車までフルラインアップを4つのチャンネルで販売した。またフォードにプラットフォームを提供するなど世界メーカーとなっていた。

787B。前年の787の改良型で最大の特徴は直線番長だったマシンをワインディング重視に換えた点だった。エンジンは787と同じくR26B4ローターエンジンだが、弱点だった可変吸気バルブとテレメタリシステムを改善していた。ドライバーはF1からジョニー・ハーバート(ロータス)、ベルトラン・ガショー(ジョーダン)、国内F3000選手権に参加していたウォルカー・ヴァイドラー。またオブザーバーとしてル・マン最多優勝のジャッキー・イクスが参加した。

当時のル・マンはSWC選手権シリーズの一戦だった。この年、SWCのレギュレーションは前年のF1に倣い「3.5リッターノンアスピレーションエンジンで最低重量は750kg」に変更された。しかし従来のマシンも重量ハンデを背負い参加OKとされた。しかしワークス勢のトヨタはWRCに専念すると参加を辞退。日産も揉めた挙句に主催者が参加資格を取り消した。プライベートチームのポルシェ962Cは最低重量1tだったため、「レースにならない」と抵抗し950kgにされた。マツダはノーマークだったため830kgだった。それでもポルシェの新企画エンジン供給が間に合わず、出走台数は過去最低となった。新企画マシンを持ち込んだのはザウバー・メルセデス、ジャガー、プジョーだったが、ザウバーC211は持ち込んだだけで走らず、ジャガーのXJR-14は1台のみ予選を走行し通過したが、本戦前にリタイアだった。

レースの目玉は5リッターV8ターボの「シルバーアロー」メルセデスC11対7.4リッターV12の「重戦車」ジャガーXJR12だった。プジョーの新企画マシン905は実戦耐久テストで完走など考えてもいなかった。(一説には目玉がないレースだったので主催者がプジョーに頼み込んで参加させた)

実際にレースが始まるとC11が先行しジャガーが追いかける展開となった。燃費の悪いC11がピットインする間にXJR12が差を詰めるが、ピットアウトするとまた差が広がるを繰り返しながら夜になっていった。両チームは「ロータリーは燃費が悪い。夜が明ければ消えている」と予想していたが、夜明けになると787BはXJR12と同等タイムで追走。ジャガーが気づいた時はもう遅かった。12時間経過頃から787Bのペースが上がったが、XJR12は燃料の問題があり追撃出来なかった。ジャガーの脱落を見たメルセデスのトップ2台はペースを上げたため、787Bはまた差を広げられた。

ところが2位の31号車のトランスミッションがブローしピットイン。交換に20分かかった。これにより787Bは2位となった。トップの1号車はペースを上げたが55号車は喰らいついた。メルセデスは残燃料を睨みながらのレースとなった。そして21時間経過した頃にオーバーヒートとトランスミッショントラブルを起こした。787Bのボディーブローで1号車がついに倒れた。55号車はトップになった。30分でピットアウトし猛追にかかったが、直後にガスケットが吹き抜けた。何とかピットに戻ったが、修理はほぼ不可能でリタイアとなった。生き残った5位の31号車もペースを上げられなかった。2-4位のXJR12もゴールまで燃料がギリギリだった。ロータリー最後のル・マンでマツダは悲願を達成した。なお31号車のドライバーにはカール・ヴェンドリンガーとミハイル・シューマッハーがいた。

マツダは新規格となった92年もMXR-01でル・マンに参戦した。TWRの協力でXJR14をベースにしたマシンでエンジンはF1やF3000のサプライヤーで有名だったジャッドのGVをベースにマツダが開発したものだった。決勝は悪天候だったが、MXR-01はテール・トゥ・ノーズのウォータースクリーンバトルを展開したが、空調システムの故障でペースが落ちて4位だった。初参戦のトヨタTS010が2位だった。経営悪化でマツダは92年を最後にル・マンから撤退した。

F1ではホンダが新開発のV12エンジンを搭載したマクラーレンMP4/6のセナが開幕4連勝で始まったが、ルノーV10エンジンのウィリアムズFW14のマンセルが猛追。ドライバーとコンストラクターのタイトル争いは鈴鹿までもつれた。レースは逃げるセナを追撃したいマンセルを2位のベルガーが抑え込む展開となった。焦れたマンセルが1コーナーでコースアウトしてリタイア。セナの2年連続3度目のチャンピオンとコンストラクター4連覇が決まった。最終ラップでセナはコース観客に手を振るなどペースを落とし、最終コーナーで追いついたベルガーに1位を譲った。

翌92年にはホンダエンジンのパワーをマイチェンのボディでは受け切れずバランスを崩しており、ウィリアムズ・ルノーに追いつけなかった。ホンダも経営悪化を理由にF1から撤退した。

91年は自動車競技で世界を席捲したJAPANパワーの神話が終わった年でもあった。

 


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