goo blog サービス終了のお知らせ 

こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

安倍政権誕生に政治を思う

2006年09月30日 | オピニオン
 安倍政権がスタートしました。すでに、いろいろな形での懸念が表されています。それらの懸念は私も共有しており、特に、外交、教育、男女共同参画という面では期待できないどころか、さらに破壊的な方向に進みうると思います。日本の政治は今、暗雲に包まれていると言っても良いかもしれません。戦後の民主主義への努力が、すべて白紙に戻されてしまうかもしれないのです。

 この安倍政権に対して、どういう心の姿勢をとったら良いのか、ということを考えてきました。

 まず、安倍政権の誕生ですが、私にとっては何の驚きもありませんでした。昨年の総選挙の結果が出た時点から十分予想されていたことであり、「来るべきものが来た」という気持ちです。今回「大変だ」と言っている人の中には、昨年の総選挙で民主党を強く批判し小泉支持を表明していた人もいます。自らの言動が安倍政権につながる可能性を全く考えていなかったとしたら、やはりあれは熱病のような選挙だったと言えるのかもしれません。

さて、私にとっては驚きのない安倍政権ですが、だからと言って簡単に受け入れられるものでもありません。ただ、明らかに「怖れ」が原動力になっている安倍政権に対して、怖れをもって対抗することほど効果のないことはないと思います。ですから、攻撃をしたり、馬鹿にしたり、絶望的になったり、というアプローチはいずれも望ましいものではないと言えます。

そもそも、安倍政権はこの日本に突然変異で生まれた政権ではありません。どんな政権も、突然変異で生まれるということはないと思います。小泉政権ですら、そうでした。私は自分自身が選挙で選ばれるという体験を通して、政治というのは実に国民の「身の丈」を表すものであり、選挙というのは大雑把だけれども有権者の意思を案外正確に表すものだということを痛感してきました。利権政治ですらそうなのです。戦後の日本で、お金を稼ぐことに最大の価値が置かれてきたことは否定しがたい事実だからです。小泉政権は、「この希望のない、不公平な世相を突破するために、とにかく破壊したい」という人々の願望を反映して誕生しました。小泉さんはそういう願望を増幅しましたが、創造したわけではありません。

 安倍政権は、ここのところの「なんとなく右傾化」という傾向を反映して生まれてきたのだと思います。筋金入りの右翼でもない。そもそも、自分の言動が「右」に分類されるなどという認識もない。でも、「そりゃあ、自虐はよくないだろう。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、美しい国は大切だろう。誰が美しくない国に住みたいだろう。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、教育改革は大切だ。安倍さんの言うとおりだ」「そりゃあ、過激な性教育はよくないだろう。安倍さんの言うとおりだ」という具合に、自分の目で確かめず、あまり深く考えずに「なんとなく右傾化」なのです。

こういう傾向はここのところかなり顕著になってきており、いつか直視されなければならないものになってきていました。安倍政権に価値があるとすれば、それを検証する機会を与えてくれるということなのでしょう。これは、日本が前に進むためにはどうしても踏まなければならないプロセスです。「なんとなく右傾化」の人がこんなにたくさんいる中で、これ以上の民主主義の成熟は望めないと思うからです。

私たちにできることは、この「安倍的なるもの」の検証作業が前進のために必要なものであって、長い目で見れば私たちは前に進んでいるという認識を持つこと、つまり、絶望的にならないことだと思います(絶望的になると何もできなくなってしまいます)。そして、「なんとなく右傾化」の人たちの怖れをさらに刺激することなく、怖れをできるだけ手放してもらえるようなアプローチを考えていきたいと思います。「こんなこともわからないの?」という姿勢だけは、くれぐれもとってはいけないと思います。以前、同期の男性議員が、男女共同参画に詳しい女性議員の議論を聞いて「男女共同参画を専門的に勉強したわけでもない自分の劣等感を刺激される」とぼやいていましたが、「保守的」と言われる人たちの一面には、そんな気持ちもあると思います。

怖れを認めて手放してもらうための重要な柱として、現在アティテューディナル・ヒーリング活動を通してやっている、「一人一人が自分の心の姿勢の選択に責任を持つ」という意識を広められるだけ広めたいと思っています。

アメリカ人のコミュニケーション(補足)

2006年05月29日 | オピニオン
 前回、「アメリカ人のコミュニケーション」について書かせていただきましたが、「北カリフォルニア」と地域を限定するのを忘れてしまったので、自分の経験は違ったというような声をいくつかいただきました。失礼いたしました。

 私が暮らしている北カリフォルニア、特にサンフランシスコを中心としたベイエリアは、アメリカの「良さ」が強く現れている地域だと思います。多様性を尊重する土地柄のため、ゲイのメッカでもあります。また、アメリカの中では最もスピリチュアルな場所のひとつだと言われています。
 
 こちらでは、カープール(相乗り)という制度があります。車に3人以上乗っていると、橋の通行料が無料になり、高速道路でカープール車線という優先車線を走ることができます。渋滞のときには本当に助かります。個人にとっても橋の通行料やガソリン代などが節約できるありがたい制度ですが、環境政策としても、相乗りを促進して車の数を減らす効果があります。もちろん、渋滞解消効果もあります。日本と違って駐車するスペースがたくさんありますので、家から車で出てきて、途中で他人の車かバスに乗り換えて通勤する人はたくさんいます。サンフランシスコ市内の駐車事情は悪いので、私も普段はバス停の近くに車を駐車して、バスでサンフランシスコに行きます。

 先日、サンフランシスコまで車で行かなければならなかったときに、ゴールデン・ゲート・ブリッジの通行料5ドル節約のため、男性を一人乗せました。話しているうちに、サンフランシスコ市役所で働く弁護士だということがわかったのですが、東海岸出身だという彼は、「ここに初めて来たときには驚いた。スーパーに入ったら、皆が私を助けようとしてくれるのだから。ニューヨークやワシントンDCでは、なぜあなたを助けなければならないのという雰囲気だった」と言っていました。そして、「マリン郡は確かにお金持ちの多い地域だけれども、ここではいくらお金持ちになっても相変わらずブルージーンズをはいて、全く偉ぶらないところも特徴」と言っていました。彼に言わせると、ベイエリア以外では、シアトルとオレゴンのポートランドが似たような雰囲気だそうです。

 日本から来た私と、東海岸から来た彼が、同じようなところに目をつけていることが大変おもしろかったです。
 そもそも、考えてみれば、こうして気軽に他人を車に乗せて、おしゃべりを楽しみながら道を行く、というのも、日本の都会では考えられないぜいたくな体験です。

 最後に、前回のメルマガを読んで、共感のメールを送ってくださった、北カリフォルニア在住のSabrina Hiroko Okadaさんのメールを一部ご紹介します(ご本人の了解を得て、日本の読者にわかりやすいように、文意を変えずに一部を変更してあります)。

=============
私はバスとバート(高速交通システム)に乗ってサンフランシスコまで行き、そこから成田に飛びます。この国にいる限りは、いろんな人が声をかけてくれて、スーツケースをもってくれたり、バスの運転手が声をかけてくれたりしますが、成田に着くと同時に、逆カルチャーショックをいつも受けます。私がどんなに重い荷物をもっていても、ぶつかっていくのになんの言葉もかけない人はたくさんいるどころか、長い長い階段を荷物を持って上がったりするのに、「手伝いましょうか」と声をかけられたことは一度もありません。

言いたいことは本人の前ではっきりと言い、あとくされはほとんどなし!という人付き合いの仕方も非常に心地よいです。
=============

 もちろんアメリカにも医療や人種問題など困った問題はたくさんありますし、「アメリカは良くて日本は悪い」と言うつもりは全くありません。でも、少なくともこのベイエリアの人々の暮らし方からは多くを学ぶことができると思っています。多様性を尊重することで、社会全体に寛容と活気が生まれること。また、それぞれが他人に微笑みかけ、援助の手を伸ばすことで、自分も気持ちよく暮らせるし、困ったときにも助けられること。スーパーのレジを待っている列の中でも会話が始まるので、退屈する時間が少ないこと。

また、私の住むマリン郡では、全面積の40%を自然のままに保存してあり、サンフランシスコから車で20分程度という便利な土地柄でありながら、自然に包まれて暮らせるというのも、住民運動の大きな成果です。


アメリカ報告18 ――アメリカ人のコミュニケーション

2006年05月22日 | オピニオン
 今週はいろいろと変わったことがあり、また日米の比較をしたくなりましたので、少々ご報告させていただきます。社会正義とアティテューディナル・ヒーリング(その3)は、次回にします。

 5月19日には、Noetic Sciencesという、スピリチュアリティと科学の関係を研究している団体の講演会に誘われて出かけて行ったのですが、その講演の演者として招かれていたのが村上和雄先生でした。村上先生は現在筑波大学の名誉教授ですが、DNA解明の世界的権威で、高血圧の黒幕である酵素「レニン」の遺伝子解読に成功したことで有名です。ノーベル賞に最も近い日本人とも言われています。村上先生の著書「サムシング・グレート」などは、スピリチュアルな本として、科学が苦手な人でも楽しく読めるのではないでしょうか。

 村上先生とは以前漢方関係のシンポジウムでご一緒させていただいたことがありますが、まさか北カリフォルニアの、日本人がほとんどいないところで再会できるとは思いませんでした。改めて親しくお話しさせていただき、すっかり意気投合いたしました。

 そして夜の10時ごろに上機嫌で帰途に着いたのですが、最近怪しげだった車がいよいよ本格的にオーバーヒートしてしまいました。嫌な予感がして高速を途中で降りたところ、降りてすぐにエンジンが止まり、ブレーキもロックされてしまいました。あそこで高速を降りる判断をしていなかったら、と思うと、ちょっとゾッとします。

 無事に車を止め、自ら修理を試みたのですが、ラジエーターに穴があいているようで、どうにもなりません。仕方なく保険会社に電話をかけて心細く到着を待っている間に、親切な巡査部長に発見していただきました。最終的には、巡査部長が牽引会社に催促してくださり、牽引車が来るまで付き添っていただいたので、安心できました。また、「なんでこんな古い車に乗っているんだ」などと価値観を押しつけるようなことは一切言わず、お説教もせず、ユーモアすらもって、親身になって事態に対処してくださったので、新鮮な体験でした。(もちろん、すべての警察官がこういう人だというわけではないようで、私はかなり運がよかったようです)

 巡査部長に発見していただく前には、遅い時間であるにもかかわらず、いろいろな車が止まって「何か手伝いましょうか」と声をかけてくれました。アメリカでは、本当にこうした人の善意をありがたく感じることが多いです。

 声をかけると言えば、アメリカ人は、本当に平気で人に声をかけます。例えば、郵便局で列に並んでいなかった人(アメリカ人はよくカードや手紙を送るということもあるのですが、アメリカではパスポートの発行も郵便局で行っており、地域の拠点として機能している郵便局は、とにかく込んでいることが多いのです。もちろん、郵便局は国営です)が窓口に先に行ってしまったように見えたとき。私も「?」と思いながら見ていると、必ず誰かが「あの人は前からいたの?」と問題提起します。「彼は最初から、ドアのところにいたよ」などと証言が出てきて、本人も「自分は誰よりも先に来ていた」と主張し、「それなら良い」ということになるのですが、以前、問題提起をした女性が「だって、あの人がもしも外国人でここのルールを知らない人だったら、教えてあげなければ不親切でしょう」と言っていました。確かにその通りです。

 また、バスに乗っていたとき、バスの止まった場所が悪くて歩行者用の信号が見えなかった、と運転手に苦情を怒鳴ってきた人がいました。運転手も負けてはおらず「だって、ここから左に曲がってすぐに右に曲がらなければならないのに、これ以外にどういうルートがあるんだ」と言い返します。歩行者は「もっと信号の手前で止まればいいじゃないか」。運転手は「ここに来たとき、信号は青だったんだ。途中で信号が変わったんだから仕方ないじゃないか」。こうしてしばらく怒鳴りあって、あとはさっぱりと出かけていきます。

 人前で注意をするとそのときは言い返しもしないけれど、後で待ち伏せしていて仕返しをする、という、日本でよく見られるやり方よりははるかに気持ちが良いです。

 アメリカ人と結婚してずっとアメリカに住んでいる日本人に、「日本ではアメリカ人は自分勝手で公共心がないと思っている人が多い」と言ったら、「反対じゃないの?」ととてもびっくりしていました。「だって、日本人は、人にぶつかっても謝らないじゃないの」と。NPOのときにも書きましたが、公共心はアメリカのほうがはるかに強いと思います(もちろん例外もありますが)。

 また、何といっても見習うべきはコミュニケーション能力です。自分の意見はしっかり主張するけれども相手の意見も尊重する、というのは、例えば、人が話している間は口をはさまない、というマナーにも現れていると思います。日本で、ガチャガチャと、結局声の大きい人が会話を支配する、というような文化に慣れてしまっていると、アメリカの会話は最初はストレスがたまるのですが、相手が話さずに待っているので、できるだけ相手にとって価値のある話をしようという気にもなります。

 また、私のセンターでも、よほどの急用でない限り、他の人たちが話をしているところに駆け込んで自分の用事をすませる、というのはご法度です。上下関係が緩やかなセンターだからということもあるのでしょうが、上司が部下に何かを伝えたいときも、よほど差し迫っているのでなければ、「手が空いたら私の部屋に来てください」というメッセージだけ残して、そこにいる人たちの会話を尊重します。

 今週は、ひょんなことから、アメリカに来て5年という日本人のお宅にお招きをいただき、行ってきました。会社員であるお父さんが言っていたことが印象的でした。「アメリカに来て、これほど子どものことに関わるようになるとは思ってもいなかった。日本にいたときは、仕事ばかりで、家庭での存在感は全くなかったと思う。こちらに来たら、あらゆることに親の参加を求められるので、自分はすっかり変わった。こちらの学校では、平日の昼間の行事でも、両親そろって参加している人が多い」と言っていました。8歳でアメリカに来たという中学生の息子さんに、日本にいたときのお父さんとアメリカでのお父さんの違いを尋ねてみたのですが、「日本にいたときのお父さんはよく覚えていない」とのことでした。

 日本でもアメリカでも、「家族」というものが政治的に重要なキーワードになっている昨今ですが、少なくとも、「家族を大切に」というスローガンは、アメリカのほうが実態を伴っているようです。

 余談ですが、そのお宅に招かれたときに、もう一組、日本人の家族が来ていたのですが、そこの男性は、ついに私の職業すら聞きませんでした(私の夫には尋ねて、いろいろと仕事の話をしていました)。個人が尊重されるアメリカでは、まずあり得ないことです。「夫の仕事は・・・」と女性が言ったとしても、「それであなたは何をしているの?」と聞くのが当たり前です。久しぶりに日本を体験した気がしました。


新聞の書き方

2006年04月30日 | オピニオン
 アメリカで新聞を読んでいて、ちょっと気づいたことがあります。それは、一言で言うと、記事に血が通っていて読むのが面白いということです。

 例えば、4月28日のサンフランシスコ・クロニクルの地域版(ベイエリア+カリフォルニア版)には、サンフランシスコの自動車事故が大々的に取り上げられています。

 ビュイックが赤信号に突っ込んで、駐車場に入ろうとしていたBMWにぶつかった、という事故です。この事故の結果、BMWの運転手が死亡し、8台の車が燃えました。大変な事故だったようです。

 この記事を読んでいくと、こんな箇所が出てきます。

 近くのバーにいたマイケル・ガンブルは、慌てて外に飛び出したが、デインという名前しかわからないホームレスがBMWに飛び込んで運転手を引っ張り出そうとしているのを見た。バーや周りの店から半ダースの人が出てきて、助けようとした。
「私たちは火を避けようとして消火器を持って出てきた」とガンブルは言った。「ガソリンが道中に広がっているとは知らなかった・・・デインは(BMWの運転手を)半分引っ張り出したが、そこで私たちはもっと消火器を持ってこなければならなくなった。私たちは運転手を引っ張り出して、わき道に寝かせた。目の前で人が死んでいくんだよ。人が死ぬところを見たい人がいるかい?」
 その頃には、最初の消防車が到着した。非番の消防士が蘇生をしようとしたが、(BMWの)運転手はその場で死亡した。(後略)

 この箇所を読んだだけでも、警察発表だけではなくきちんと取材していることがわかりますが、ホームレスをはじめとした人々の善意が読み取れ、悲惨な事故の記事であるにもかかわらず、絶望だけが残らないようになっています。

 日本でもこういう記事を読んだことがないわけではないのですが、それは善意に焦点を当てた記事であることが多いものです。「ホームレスがBMWの運転手を救助」などというタイトルがつくのでしょう。こちらの記事はあくまでも事故の報道で、タイトルは「衝突で運転手が死亡、カストロ地区が火の海に」というものです。
 
 メディアのあり方については過去にも取り上げたことがありますが、このような記事を読むと、単なる事故記事であっても責任を持って書かれているということを感じます。そして、社会の雰囲気作りに確かに一役買っていると思いながら新聞を読んでいます。
 

アメリカのNPO

2006年04月25日 | オピニオン
 今回は、アメリカのNPOについて書きたいと思います。アメリカに来て、やはりその格差や未だに根強い人種差別など、社会構造の問題を感じることも確かに多いのですが、その一方で、以前もご紹介したような多様性の尊重など、日本社会にはない活力を感じることも多々あります。その一つが、何といってもNPOです。
 
 アティテューディナル・ヒーリング・センターもNPOですが、とにかくアメリカのNPOの層の厚さには驚かされます。福祉分野はもちろんのこと、矯正プログラムのきめ細かさなど、このNPOの層の厚さなくしては語れません。アメリカ社会の最後のセーフティ・ネットがNPOだと言っても過言ではないと私は思っています。

 NPO先進国であるアメリカでは、総雇用に占めるNPOの割合は10%近くに達し、それ自体が、巨大な雇用市場を形成しています。センターのスタッフに聞いても、採用時の条件として「NPOでの経験」を重視することが多いそうで、営利企業とは異なる独特なキャリアとして確立しているということでしょう。地域に根づいた小さなNPOもたくさんある一方で、いくつかのNPOは大企業並の財力・運営力・人材力を兼ね備え、国内外に大きな影響力を持っています。

 「官から民へ」というときに、絶対に忘れてはならないのがこの「公」たるNPOです。NPOなくしては、「小さな政府」などあり得ません。そもそも市民社会からスタートしているアメリカでは、政府に多くの仕事をさせることを「税金の無駄遣い」「単なる依存」と考える人が多いわけですが、その意識を支えているのは、日本でしばしば報道されるような単なる「自己責任論」ではなく、伝統的な共助の精神です。つまり、「官」と「民」だけではなく、その間に存在する「公」を担うのが自分たちだという意識がしっかりしているのです。
 
 この意識は、個人のボランティア精神にも現れますし、税制にも現れます。社会人たるもの、何らかのボランティアをしているのは当たり前、という感覚は確かにあります。税制では、個人や企業が寄付をしたときの控除は大きな支えです。また、アティテューディナル・ヒーリング・センターでも、財団助成金は収入の大きな割合を占めますが、大きな財産を持つ人が税制上の恩恵も受けながら社会に還元する仕組みがきちんと活用されています。もちろん、これは指をくわえていれば自然と入ってくる収入ではありません。毎年、各財団に申請書をきちんと出すこと、助成金を受けた財団には、利用者の詳細など統計をきちんと報告すること、などが、センターのスタッフの大きな仕事になります。この統計のために、毎日のグループ利用者のデータも、しっかりしたデータベースで管理しています。

 なお、アティテューディナル・ヒーリング・センターは、すべてのグループや家庭・病院訪問を無料で行っているところに大きな特徴があります(トレーニングはかなりしっかりとしたお金をとります)。30年の歴史を持つNPOで、未だに無料でサービスを提供しているところはなかなか例を見ないようです(当然、その分財政は厳しくなります)。

 もちろん、アメリカにも拝金主義のような人はいますが、華々しいキャリアの途中で非営利活動に転身する人もいますし、どこかの時点で「社会へのお返し」を考え始める人も少なくないようです。

 私の娘が通うチャータースクール(保護者が作る公立学校)では、多忙なエンジニアである父親が、学校の理事として、校庭の設計に汗をかいています。「官から民へ」を叫んでいる方たちに、そこまでの覚悟があるのでしょうか。