こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

Attitudinal Healing(AH)の国際会議に出席しました

2005年10月30日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
10月20日~28日、渡米してきました。
国会を離れたら是非やってみたいと思っていた活動を始めるためです。

それは、Attitudinal Healing (AH)という手法を日本に定着させるということです。

Attitudinal Healing (AH)というのは、日本語では「対人姿勢による癒し」とか「生き方を変えるヒーリング」などと訳されているようですが、いずれもピンとこないので、ピンとくる言葉を思いつくまでは、原語のままAttitudinal Healing(日本語読みすると、アティテューディナル・ヒーリング)、あるいは略語としてAHという表記にすることをお許しください。

今後、もっと詳しく説明していきますが、一言でいえば、ものごとに対する姿勢(Attitude)を変えることによって心の安らぎを得る、というやり方です。恐怖や不安、罪悪感という感情にとらわれて「敵」のいる人生を過ごしていくのか、それとも、こういった感情を手放して他者とのつながりを感じながら生きるのか、という選択は、個人の力で自由にできるという信念がその根底にあります。

AHは、1975年に、精神科医であるジェラルド・ジャンポルスキー博士と4名のボランティアによって、その活動がスタートしました。致命的な病を持つ子どもたちのサポートグループが、その始まりでした。

精神科医が創始者であり、末期がんの子どものサポートなどから始まって現在でも医療と深い関係があることから、一人の精神科医としても大変関心のある手法ですが、同時に、政治家としても高い関心を持っています。特に現在は、ブッシュ政権にしても小泉政権にしても、人の心に潜んでいる恐怖や不安を煽って皆が不幸になる方向に社会を導く、という「不安の政治」が幅を利かせているわけですから、政治を変えるためにも、新たな「姿勢」が必要だと思っています。

致命的な病気を持つ子どもたちのサポートグループとしてスタートしたAHは、その後、そういった子どもたちの親やきょうだい、それ以外のさまざまな立場にある子どもや大人たちへと、その対象を広げてきました。現在では、病気と関係のある人たちだけでなく、教育現場、刑務所など、さまざまな領域へと活動が広がっています。
この活動が評価されて、今年は、創始者のジェラルド・ジャンポルスキー博士に対して、アメリカ医師会の栄誉賞が贈られています。

1977年に、カリフォルニア州ティブロンに設立されたAHセンターは、その後、より広い敷地を求めて同州のサウサリートに移りましたが、現在に至るまで、すべての人が無償でセンターを利用できるという環境を維持してきています。もちろんその裏には、いろいろな形でセンターに寄付をしたりボランティアをしてくれる多くの人たちがいます。大きなところで言えば、ドイツのルフトハンザ航空なども大口寄付者です。

現在では、AHは約30カ国に拠点を持ち、その活動は全世界に広がっています。

今回の訪米の主目的は、10月21日~23日に開かれたAHの国際会議に参加することでしたが、この国際会議でも、各国の状況を聞くことができました。

さらに私は、国際会議終了後には、AHの創始者であるジェラルド・ジャンポルスキー博士のご自宅に家族でお招きいただき、政治とAHについてなど、幅広く親しく懇談することができました。
また、センターを訪問し、親と死別した子どもたちのグループ、転移がんを持つ女性たちのグループ、介護をしている人たちのグループに参加することもできました。

この後、再び訪米し、国会議員時代にはどうしても不可能だったセンターでの研修兼ボランティアを半年ほどする予定です。

しばらくの間の私の活動の中心になりますので、皆さまには、また追って詳しく報告させていただきます。


国会議員の仕事と子育ての両立問題

2005年10月14日 | オピニオン
 今回の選挙もまた、私にとってはデマとの戦いでした。今回も、膨大な量のデマが流され、今頃になってもまだ、「そんなデマも流れていたのか」と驚かされる毎日です。

 圧倒的なデマにまだまだ負けてしまうのは、それを信じてしまう人たちの問題でもありますが、それ以上に、長年築き上げられてきた自民党ネットワークが地域のネットワークと一体化しているということだと思います。
 
 今回もまた、デマの多くは荒唐無稽で笑ってしまうしかないような内容でしたが、一つだけ、論評に値するものがありましたので、少々書かせていただきたいと思います。

 それは、デマの主役であった、「水島は宇都宮に住んでいない」というものでした。「あの人はもともと東京の人で、家族も東京に帰ってしまって、本人も宇都宮には住んでいない」というデマは、選挙区の隅々まで見事に浸透していました。

 もちろんこれは基本的には嘘であり、私の自宅は宇都宮にありましたし、国会で議員宿舎にいるとき以外はもちろん自宅で生活しておりました。
 ただ、このデマにはそれなりの根拠があって、それは、子どもの学校問題なのです。

 このデマを加速させた背景には、私の長女が宇都宮の学校に行っていない、ということがありました。「もともと東京の人だから宇都宮の教育レベルに満足していないのではないか」などと言っていた人が多かったようですが、もちろんそんなことではありません。ことの本質は、「国会議員の仕事と子育ての両立問題」にありました。

 国会で、フルに立法活動をしようとすると、どうしても開会日は議員宿舎に泊まる必要が出てきます。国会での仕事をきちんとしている多くの議員が、平日は議員宿舎暮らしをしています。

 議員が子育て中の場合、子どもはどこにいるのかと言うと、これは人それぞれですが、親の滞在時間の長い議員宿舎近くの学校に行っているというケース、子どもは地元の学校に行っているというケースに分かれ、印象としては前者の方が多いのではないかと思います。

 どちらも一長一短がありますが、親子の時間を多く持とうとすると、やはり子どもの学校は議員宿舎の近くにした方が良いということになります。

 私の場合は、子どもとの時間を最大限に確保することと、「落下傘候補」として地元での時間をできる限り確保すること、という二つの大きな課題がありましたし、また、落下傘候補ですから地元に実家があるわけでもなく、夫と二人で子育てを全て担っていましたので、他の議員よりもさらに工夫が必要でした。

これは私しかやっていなかったパターンではないかと思いますが、金曜の夜に家族そろって宇都宮の自宅に戻り、また、週末を終えると家族そろって東京に出てくる、ということを続けていたわけです。子どもが保育園のときには、無認可保育所を活用して、水・木・金は東京の保育所、月・火・土は宇都宮の保育園、という二重保育をしていましたが、さすがに学校は2か所というわけにはいきませんから、議員宿舎近くの公立小学校に子どもを入学させ、土・日は親子そろって宇都宮で生活する、ということを続けてきたのです。

 今回、「宇都宮に住んでいない」というデマがこれほど浸透したことは、家族に負担をかけながらも二重生活を続けてきた身としては残念の一言に尽きますが、国会での仕事に重きを置く議員が増えてきたこと、子育て世代の議員が増えてきたこと、を考えると、実はこれからの大きなテーマがそこにあるのではないかと思っています。

 国会は男女共同参画が最も遅れている領域の一つですから、今頃になってようやく「仕事と子育ての両立」がテーマになってきたということだと思いますが、国会議員こそ、自分の子育てには責任を果たす必要があると私は思っていますので、両立の文化がきちんと作られていくことを期待しています。

民主党の子ども政策会議に呼ばれました

2005年10月14日 | 活動報告
 10月13日(木)、民主党の子ども政策会議に呼ばれ、今まで取り組んできた政策についての報告をしました。選挙以来、男女共同参画委員長としての引き継ぎなど、ちょこちょこと国会には行っていますが、13日には国会内で落選議員に次々と会って、お互いに笑ってしまいました。不要ダムの阻止など、大きなプロジェクトに取り組んでいた人たちが落選してしまったため、いずれも引き継ぎが大変で、落選議員たちがせっせと国会に呼ばれているようです。

 私が13日に報告したのは、「育ち☆育む応援プラン(民主党の未来世代応援政策は、最終的にこういう名前に落ち着きました)」、「子ども家庭省設置計画」、「特定暴力情報からの子どもの保護に関する法律案(かつて「子ども有害情報からの子どもの保護に関する法律案」と名づけていた法案ですが、「子ども有害情報」という言葉が抽象的なので、暴力と性暴力などに限定した「特定暴力情報」という呼び名に変えました)」です。

 「育ち☆育む応援プラン」は、「未来世代応援基本法」を中心に、「テマとヒマ」「お金」「個別のニーズ」という3本柱からなる応援政策です。これを統括するのが子ども家庭省ということになります。

 また、「特定暴力情報からの子どもの保護に関する法律案」は、私にとっては特に思い出の多い法案です。初当選後すぐに着手し、私が初めて自分で作った議員立法になりました。暴力や性暴力の情報が、住み分けられることなく子どもたちに垂れ流されている現状には多くの人たちが疑問を感じながらも、憲法の規定する「表現の自由」に抵触しうる、という理由で、ずっと手をつけられずにきたものです。

 もちろん、表現の自由は、民主主義社会の根幹として何にも増して堅持しなければなりません。でも、だからと言って、有害な情報から守られるという子どもの権利が犠牲になって良いということでもないのです。ですから、私は、「情報の住み分け」と「メディアリテラシー教育」の2本柱からなる法案を作りました。

 それでも、こういう「規制」(私の法案は規制ではないと思いますが)にアレルギーのある方たちからは、散々な攻撃を受けました。2001年の初頭には、つわりに苦しみながら、シンポジウムなどで一生懸命説明していたのを懐かしく思い出します。あのときの議論のおかげで、立法者としてはずいぶん鍛えていただき、また、度胸もついたと思います。

 この法案も、その後、少しずつ手を加え、先の通常国会で「特定暴力情報からの子どもの保護に関する法律案」と名前を変え、また、子どもの意見表明権も明記したところです。

 こうやって考えてみると、まるでこの時期に国会を離れることがわかっていたかのように、全ての作業が通常国会で一段落しています。解散が半年前だったら、「育ち☆育む応援プラン」をまとめることもできていませんでしたし、子ども家庭省の設置計画も作れていませんでしたし、「特定暴力情報」も「子ども有害情報」の名前のままだったわけです。
 13日の会議で、今までの経過を報告しながら、あの時期の解散で良かったと、改めてほっとしました。

 それと同時に感じたのは、やはり、取り組んでいる人が少ない領域では、一人の落選が非常に痛いということ。私にしか報告できないものがこんなにあるということは、私自身が責任者のポストにあったということだけでなく、やはりその政策に関わっていた人がそれだけ少なかったということでもあります。

 とりあえず、国会を離れても手伝えることは手伝おうということで、「育ち☆育む応援プラン」も、選挙前には要約版しか印刷できませんでしたが、本体を印刷する上でコラムの部分は私が書かせていただくことになりました。