こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

アメリカ報告10 ――「許し」、アティテューディナル・ヒーリングの原則6――

2006年03月25日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 さて、今日はアティテューディナル・ヒーリングの原則の6「私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる」をご紹介するのですが、いよいよ「許し」がテーマになります。
「許し」という言葉は、どちらかというとキリスト教文化でよく聞かれる言葉で、日本人にはあまりピンとこないかもしれません。また、なんとなくうさんくさげに感じる方もいらっしゃるかもしれません。

でも、アティテューディナル・ヒーリング流に「許し」を考えると、実はこれこそ心の健康の中核であることがわかります。特に、虐待や性暴力やいじめなどのトラウマ被害についてはとても重要な概念です。
これを読んで、「え? 虐待を許すの?」と思われた方も多いかもしれません。私も最初はそんな違和感を抱いていました。でも、もちろんそういう意味ではありません。

 被虐待経験のある人で、未だに心が癒されていない人は、往々にして、「許し」を終えていません。加害者に対しても、そして、被害者である自分に対しても、です。自尊心に問題を抱えているというのは、まさにその証拠です。虐待の事実を思い出すと今でも辛くなり、過去を消せない限り自分は幸せになれないと感じたり「親に愛されなかった自分には何か根本的な問題があるのだ」というふうに感じたり、特に性的虐待の被害者などで「自分は汚れた存在になってしまった。もう誰からも愛される資格はない」と感じたりするのです。

 ここで「許す」ということがどういうことかというと、過去の出来事にともなうネガティブな感情を手放すということです。過去を忘れるということでもありません。また、出来事を正当化したり「仕方がなかった」と認めたりすることでもありません(ただ、虐待の場合など、「許し」を経て、親が置かれていた状況を同情的に見ることができるようになることはあります)。そうではなく、過去の出来事にとらわれている限り自分の心に平和が訪れないということを知り、とらわれを手放す、ということなのです。

 その結果、過去の出来事は記憶しているけれども、それが自分の価値を下げるようなものではなかったということを理解できるようになります。単に自分に起こった不幸な出来事だったというふうに位置づけられるようになります。さらに踏み込んで、相手側の問題だったのだと理解できるようにもなります。過去へのとらわれを手放さなければ、いつまでも過去の出来事によって自分を苦しめ続けるということが理解できるようになるのです。

 アティテューディナル・ヒーリング・センターのグループには、すでに「許し」を終えた人と、「絶対に許すものか」という状態の人が、一緒に参加しています。「許し」を終えた人の自由で明るい様子を見て、まだ許す気になれない人は、「私は絶対に許さない。許したら私の人生の意味がなくなる」と言いながらも、「でも、許さないでいることが私の気持ちを苦しめていることはよくわかる」と話すようになります。以前「怒り」のところでお伝えしましたが、許さないでいることによって相手を苦しめているつもりが、実際のところは自分自身に毒を盛っているということがわかるようになるのです。

 センターのグループではもちろん「早く許した方が良いですよ」などというアドバイスはしません。安全な環境で気持ちを分かち合えるようになると、いずれ、人は許しに達することができるという基本的な信頼が根底にあります。

 繰り返しになりますが、「許し」というのは決して自分に傷を与えた相手の行為を「大目に見る」ことではありません。いじめの被害者が「いじめられた自分にも非があった」などと自虐的になることでも全くありません。いじめられたという事実を忘れ去るということでもありません。いじめという行為が加害者の「怖れ」によって起こされるということを理解すると共に、いじめという経験を経てもなお、自分には心の平和を選択する力があるということを認識する、というイメージでしょうか。ですから、虐待の被害者が、自らの被虐待体験を「許す」と共に、虐待をなくすための活動を続ける、ということは十分に可能な話です。わかりにくいかもしれませんので、ぜひご質問ください。

 では、以下に、この箇所について、パッツィの本の翻訳をご紹介します。

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6 私たちは裁くのではなく許すことによって、自分や他人を愛することができるようになる。

 私たちは他人を裁くときにはいつも、自分自身のことも裁いているものです。アティテューディナル・ヒーリングでいう意味での許しは、他人の行動を大目に見たり賛成したりすることを意味するのではありませんし、その人が悪いことをしたと感じる自分自身をとりあえず脇において相手を許すことを選ぶという意味でもありません。単に、許しというのは私たちの誤ったものの受け止め方を明らかにするための手段だという意味なのです。

 単純に言うと、「許しとは手放すこと」、つまり、心を乱す原因となる信念へのしがみつきをやめるという選択です。自分について言えば、苦しむのをやめて自分を充実させるために、まずは責任をもって自分自身を十分に愛する必要があります。

 「攻撃」を例に挙げてみましょう。A Course In Miracles(奇跡のコース)には、他人を見る際に役立つ考えが記されています。それは、その人は私たちを攻撃しているのではなくて、助けを求めているか愛を必要としているのだという見方をするというものです。人間関係においては、これは最も難しい原則であることが多いものです。なぜかというと、私たちのエゴは、「攻撃されている」と言うからです。でも、本当のところは、それは真実ではなく、私たちがそう受け止めているだけなのです。

 受け止め方というのは、意欲を持って集中すれば、自分で変えることができるものです。自分は愛でできているとみなすことができるようになれば、自分を防衛する必要もなくなり、他人を違う形で見ることができるようになります。このことに気づき始めれば、何かしら自信がなかったり足りないと思ったりするところにおいてだけ、私たちは「ボタンを押す」ことができるのです。

 自分はこれで良いのだと思えるときは、他人のふるまいについてもあまり問題にならなくなるものです。もう一度言いますが、自分は攻撃されていると感じるのは、自分自身の受け止め方に過ぎないのです。自分自身を防衛する必要すらなくなるように、強力な愛のエネルギーで満たされることを選ぶことができます。
 
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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)



民主党の男女共同参画オンブッド会議報告とテニス

2006年03月17日 | オピニオン
 私が民主党の男女共同参画委員長になって新規企画として立ち上げた男女共同参画オンブッド会議ですが、この難局を乗り越えて、報告書がようやく形になって3月13日に代表に手渡された、というお知らせを西村ちなみ衆議院議員からいただきました。

 今の民主党の状況を見ると、代表に手渡されたからどうなるのだろう、という気がしないでもないのですが、日本の政党として自らを男女共同参画という観点から第三者評価してもらったというのは初めてのことですから、価値のある記念すべきことだと思います。また、この報告書の結果を踏まえて民主党が何をしたかということを検証しながら、このオンブッド会議がこれからも続くことを強く期待します。

 私が心をこめて人選させていただいた有識者の方たちによる報告書ですので、皆さまもぜひご一読ください。
 民主党ホームページで読むことができます。
 http://www.dpj.or.jp/danjo/report/060313.html

 このページのタイトル右下「>>オンブッド会議報告書(PDF2.83MB)はこちら」というところから報告書に入れます。(直接報告書に入りたい方は       http://www.dpj.or.jp/danjo/report/060313.pdf へどうぞ)

 私自身も西村議員からお知らせいただかなければ民主党がそんな催しをやったことは気づかずに過ごしていたと思います。まあ、今は海外にいますので、情報という意味ではもちろんハンディキャップがあるのですが、それでも、インターネット時代ですから、主要なニュースは簡単に入ってきます。

 現職議員時代から、いろいろと努力しているのに、どうしてメディアは取り上げてくれないのだろう、という気持ちを抱いてきました。
メディアは明らかに異常です。先日、日本に一時帰国したときにそれを痛感しました。私が日本にいたのは2月23日午後から26日午後まででしたが、その間の報道は民主党メール問題と荒川選手の金メダル一色でした。これでは日本人の価値観が一食に染まるのも仕方がないと思いました。

 こうしたメディアの問題は確かにあるのですが、それと同時に、メディアの責任だけに帰するべき問題でもないだろうと思ってきました。

 男女共同参画政策や子ども関連の政策では明らかに民主党のほうが質は良いと思いますが、政治と特に深いかかわりのある方でなければそれを知りません。つまり党としてのイメージになっていないのです。「男女共同参画といえば民主党」という雰囲気になれば、オンブッド会議のことももっと注目されるでしょう。

 西村議員にメールの返事を書きながらふと思い出したのが、自分の大学時代です。私は医学部の体育会で硬式テニスをしていたのですが、基礎体力のためのトレーニングばかりしていて、結局テニスは上手になりませんでした。その代わり、体力だけはやたらとついたので、選挙の時にはいくら走っても平気でしたが・・・。

 テニスの試合に強くなるためには、基礎体力は絶対に必要です。一見器用に球を操る人でも、走りこんでいないと、本格的なシングルスには勝てません。でも、基礎体力だけではテニスの試合に勝てないことも事実です。つまり、必要条件だけれども十分条件ではないということです。

 政党にとっての個別政策も基礎体力と同じで、必要条件だけれども十分条件ではないということなのだと思います。
でも自民党には政策などないのでは? と思われるかもしれませんが、自民党に政策はなくても、官僚組織には(質の良し悪しはさておき)政策がありますので、土俵には乗ってくるのです。

 なぜテニスのことなど思いついたのかよくわかりませんが、「基礎体力さえつけていればいつか試合に勝てる日がくるはず」という幻想を捨てて、基礎体力をさらに充実させながら、もう一つの次元に挑戦していかないと、「男女共同参画といえば民主党」「生活者重視といえば民主党」「子どもの味方といえば民主党」というふうにはならないだろうなとしみじみ思いました。そして、この問題意識を持ち続けないと、基礎体力トレーニングが単なる自己満足に陥ってしまうことを危惧します。

アメリカ報告9 ――怒りについて、アティテューディナル・ヒーリングの原則5――

2006年03月12日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 前回のバイロン・ケイティの「ワーク」については好意的な反応をたくさんいただき、ありがとうございました。また折を見て、ワークについては続編を書きたいと思います。

 「怒り」について少々補足しておきたいのですが、このワークは怒りから目を背けることを目的としたものではありません。あくまでも、怒りによって自分が損なわれないようにするためのものです。

 アティテューディナル・ヒーリングの創始者であるジェラルド・ジャンポスルキー博士がどこかに書いていたと思いますが、私たちは、食べ物などについては有害なものを摂取しないようにとても気を遣うのに、どうして自分の心の中に抱く感情については有害なものを平気で選んでしまうのだろうか、ということなのです。健康を損なうという意味では、食べ物と同じか、それ以上の意味を持つと思います。

 「許し」についてはいずれ改めて取り上げますが、たとえば、ある人を許せないとします。その人への怒りを抱き続けることで、その人を呪い殺したい、というような気持ちになることもあります。でも、その結果、健康を損なうのは相手ではなく自分自身であるということが往々にして起こるのです。相手に毒を盛ったつもりが、自分自身が毎日せっせと毒を食べていた、ということなのです。

 このことについては、精神神経免疫学が発達して、ネガティブな感情を持って自らを抑え込むことが免疫能に悪影響を与えることが科学的にも証明されてきました。うつ病になると風邪をひきやすくなることも示されています。

ポイントは怒りを否定することではないのだいということは、前々回にご紹介したパッツィ・ロビンソンの翻訳の中にも、次のように書かれています。

 怒りは当たり前の気持ちで、「悪い」というレッテルを貼る必要もないのですから、怒りを否定することはありません。怒りを否定してしまうと、それに対処するために別の気持ち、つまり罪悪感が生まれてきます。本当に自分の怒りを知ることができて初めて、変えることができるようになるのです。これは実は一瞬でできることです。長い時間をかける必要はありません。「なぜ」「どのように」を知る必要がないときもあるくらいです。これらの言葉は、私たちの人生をますますグチャグチャにすることが多いものです。心の平和がただ一つの目標になれば、怒りにしがみついていると心の平和は得られないのだということを認識できるようになります。

 つまり、怒りを感じることが問題なのではなく、それにとらわれ、しがみつくことが問題だということなのです。

 でも、怒りを抱き続けることこそが、変化に向けてのエネルギーなのでは? と思う方もいらっしゃるでしょう。歴史を見ても、何らかの進歩の影には大衆の怒りがあったのだ、と。

 自分が理不尽な状況に置かれているということを客観的に認識することは必要だと私は思います。前回の「ワーク」の説明でも、それまで正当化することはないのだ、ということを強調させていただきました。必要なことは、自分が理不尽な状況に置かれているということを客観的に認識し、変化に向けての現実的なステップを踏んでいくということであり、怒りにとらわれて自らの健康まで損なうということではないはずです。理不尽な状況に置かれていることを客観的に認識することと、それに対して怒りを抱き続けることは、決して一体化したものではないのです。理不尽な状況に置かれていることを客観的に認識してもなお、怒りを手放すという選択があるのです。

 また、変化を起こすには、多くの人の共感を得る必要があります。怒りにとらわれて、他人から自らを切り離してしまうと、とても目標は達成できません。ガンジーがなぜ非暴力独立を実現できたかというと、怒りにとらわれていなかったからです。イギリスに侵略されていることが理不尽であることを彼は十分認識していましたが、そのイギリス人の心に訴えかける力すら持っていたのですから。

 一方、カンボジアにおけるポルポトの悲惨な歴史を見ても、怖れや疑心暗鬼に基づいた「改革」ほど怖ろしいものはないと思います。また、ここのところ日本で起こっている「バッシング」も、非生産的な怒りの好例だと思います。

 怒りについては、「許し」を述べるときに、もっと書かせてください。

 さて、中断していたアティテューディナル・ヒーリングの原則に戻りますが、例の翻訳が「難しい」とあまり評判が芳しくないので、翻訳は毎回1項目のみ紹介させていただき、私の解釈やセンターでの体験を補足させていただきたいと思います。

 ちなみに、先日、ジェラルド・ジャンポルスキー博士の強い勧めでパッツィ・ロビンソンに会ってきましたが、本当にすてきな人でした。慢性的な呼吸器疾患で酸素吸入をしていましたが、「すべてのことには理由があるのだから、私のこの健康状態にも必ず理由があると思っている」と前向きにとらえ、何かを学ぼうとしていました。
 また、私に対して「あなたの光は世界で明るく輝いている」と書いてくれました。部屋に入ってきたときにそう感じたから、と言っていました。光栄です。

 今日は原則5「あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある」の翻訳をご紹介します。「あるのは今このときだけ」というのは、パワフルな原則です。そして、「今この瞬間」にとどまる、ということは、センターでの大きなテーマです。考えが過去や未来に飛んでしまって、今いっしょにいる人の話に集中できない、という経験は誰もがしていると思います。その結果、「今この瞬間」の質が損なわれ、それが満足できない過去を作り、未来への不安をさらに膨らませる、ということになると思います。「今この瞬間」に、どれだけ与えられるか、ということが人生の質を決めると言っても過言ではないでしょう。

 「未来を手放す」ことも重要です。これは、子育てなどではよくある話ですが、「子どもの未来のために」と、「今」を犠牲にしてしまいがちです。子どもの未来のためにお金をためておこうと、親が働きづめで、親ともっとコミュニケーションしたい子どもの「今」が犠牲になる。あるいは、「こういう子になってくれないと将来困る」と子どもに理想の姿ばかり押しつけて、「今」の子どもを見てあげられない。寂しい子どもは薬物に走ったりして、結局、子どもの未来すらだめにしてしまうのです。

☆☆☆

5 あるのは今このときだけ。すべての瞬間は与えるためにある。

 この原則は、私たちが今のこの瞬間にとどまれるようにと作られたものです。私たちはすぐに、過去のことを考えたり将来への不安を膨らませたりしてしまうものです。こうなってしまうと、私たちの心は往々にして平和でなくなります。これが認識できれば、自分の気持ちの焦点を、平和を経験できる現在へと戻すことができます。私たちが現在にとどまっていれば、全ての出来事に一番良い形で対応することができます。現在でないところにいると、ものごとを決めることができません。本質的には、あるのは今このときだけなのです。愛のエネルギーが私たちからあふれ出すのも「今」です。私たちが決めつけることなく何が起こっているかをはっきりと見ることができるのも「今」です。

 私たちは外で起こっていることをコントロールすることができません。それをやろうとすると決して平和な気持ちにはなれません。でも、私たちは自分の考えをコントロールすることならできます。受け取ろうとする気持ちから与えようとする気持ちへと変えていくと、外で起こることについても明らかな変化が起こることに気づくようになります。

 私の今までの経験の中で、起こり得ることの例として最も深いものは、「平和の教師としての子どもたち」というグループ、そしてその創設者であるジャンポルスキー博士と共にモスクワに行ったときのことです。私たちはソ連の青年組織の代表とともに、記者会見をしていました。その青年代表は、45分間にわたって、米ソの関係が良くならないのはどれほどアメリカの責任であるかということなどを演説しました。私たちは皆彼の話を聞きました。そして、彼が子どもたちに質問はないかと尋ねたところ、子どもたちはその青年が考えもしなかったやり方で応えたのです。子どもたちは一人ずつ、ロシア人がいかに私たちに対して親切だったかを青年に伝えました。今回の旅でロシア人から受けた親切なもてなしの話をアメリカ人が聞いたら、戦争はなくなるだろうと言ったのです。さらに、子どもたちそれぞれがチェルノブイリ災害への寄付を申し出ました。

 それぞれの子どもが心から話をすると、その青年は美しい変化をとげました。彼の顔は柔らかくなり、色鮮やかになりました。目はうるみました。とても警戒した状態から、とても共感しやすい状態になりました。私はミーティングが終わった後で彼のところに行って話しました。彼は、来てくれて本当にありがとうと言い、部屋に入ってきたときとは違う人間であることが私の目には明らかでした。私も、また、違う人間になっていました。私はとても感動していました。どれほどの障害があるように見えても、平和な関係を持つことは実際にできるのだということを心の底から感じたからです。

☆☆☆

(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の定義」の邦訳)


アメリカ報告8 ――米国の刑務所で「ワーク」をやってきました――

2006年03月07日 | 活動報告
 3月6日、カリフォルニア州のサン・クエンティン刑務所(男子刑務所)に行きました。「ワーク」というグループのためです。
これは、アティテューディナル・ヒーリングそのものではないのですが、アティテューディナル・ヒーリングで長い間中核的な役割を果たしてきたキャシーという女性が橋渡しをしてくれているものです。

 「ワーク」を考えたのは、バイロン・ケイティという女性です。彼女は、自らがうつで悲惨な状態に陥っていたときに、突然、真実に目覚めた人です。真実というのは何かというと、自分を苦しめているのは現実そのものではなく、現実に逆らおうとする自分の思考だということです。現実がいかに望ましくないものであっても、現実は現実なのですから、「こうあるべきではない」という思考にとらわれてしまうと、自分が苦しむという単純な理屈です。そして、その思考を問い直すための「ワーク」を、世界中に広めています。彼女の最初の著書Loving What Isは名著ですが、日本語にも翻訳されているようです。(人生を変える4つの質問(アーティストハウスパブリッシャーズ))

 私自身も、定期的に「ワーク」のグループに参加して学んでいますので、皆さんのご関心があればもっとご紹介する機会を作りたいと思います。単純ですが、とてもパワフルな手法だと思っています。

 バイロン・ケイティの直弟子(?)にあたるキャシーが、毎週月曜日に刑務所で「ワーク」をやっているというので、私も連れて行ってもらいました。

 刑務所の様子は日本と大差なく、こちらでも過剰収容の問題を抱えているようです。ただ、お国柄か、日本よりはそれぞれが伸び伸びと過ごしているような印象を受けましたし、受刑者が私たちに気軽に声をかけたり挨拶をしたりしてきます。
グループに参加できるのは、開放房(200人以上が巨大なドームに寝泊りしている)に入っている人たちだけだそうですが、そこに参加者を呼びに行くと、「「ワーク」っていうのは、何のワークだ」と、興味津々で近づいてくる人も結構いました。

 グループに参加して、私も一参加者として一緒に作業をしたのですが、なかなか感動的なグループでした。

 「ワーク」の代表的なやり方は、こんなふうです。
 まず、自分が頭に来ていることや不快に思っていることを文章にします。
「・・・なので、私は○○に腹を立てている」という具合です。
それから、この「・・・」の部分だけを抜き出して、「入れ替え」をするのです。

 たとえば、受刑者の一人が、
「私たちを意味もなくロックダウンしているので、管理者に腹が立つ」という文章を作ります。ロックダウン(封じ込め)というのは、私も今日はじめて知ったシステムですが、刑務所では、何かしらの暴動が起きると、それを起こした「人種」が、一定期間グループへの参加などを許可されなくなるのです。人種単位でのこんな懲罰がなぜ許されるのか理解できませんが、暴動にかかわりのない人も、同じ人種であるというだけの理由でロックダウンの対象になります。ちなみに、今日はヒスパニックの人たちがロックダウン中で、グループには白人と黒人しかいませんでした。

 自分には何の落ち度もないことで懲罰を受けるというのはいかにも理不尽なことで、これに腹が立つというのはいかにも正当な怒りです。
 でも、「ワーク」では、こんなふうに考えます。まず、「・・・」として抜き出されるのは「管理者は私たちを意味もなくロックダウンしている」になります。

 「ワーク」で要求される「入れ替え」は、4通りあります。
(1) 自分と相手との入れ替え
(2) 自分自身に向けて
(3) 正反対への入れ替え
(4) 「自分の思考」との入れ替え

 まず、一番簡単な(3)からやってみます。正反対にすると、「管理者は私たちを意味もなくロックダウンしていない」というふうになります。この文章を作ってから、3つの根拠を考えてみます。たとえば、「ロックダウンはさらなる暴力の発生を防ぐので、意味がないわけではない」「彼らは単に決められたことをやっているだけであり、意味なくやっているわけではない」「暴動は確かに人種単位で起こることが多いので、安全の確保という観点からはまったく無意味でもないかもしれない」・・・という具合にです。
 
 ここで重要なのは、何もロックダウンを正当化する必要はないということです。「完全に無意味」というよりは多少ましな根拠を思いつけば、それで上等です。

 次に(4)ですが、「私たちの思考は私たちを意味もなくロックダウンしている」というふうになります。この根拠になるのは、管理者への怒りにとらわれてしまうと、不快なエンドレス・テープを聞かされているようなもので、他の健康な活動ができなくなります。ですから、自らの思考が自らを封じ込めてしまう、というのはその通りだということになります。ここでも管理者を正当化する必要はありません。でも、「管理者が理不尽なことをしたら私たちは怒らなければならない」という思考に取りつかれてしまうと、私たちの自由が奪われるということです。
 (2)は「私たちは私たち自身を意味もなくロックダウンしている」というふうになり、これは(4)とほとんど同じです。

 そして(1)は「私たちは管理者を意味もなくロックダウンしている」となります。一瞬戸惑いますが、これにもまた真実があり、私たちが怒りにとらわれてしまうと、管理者とのやり取りの選択肢が狭まりますし、管理者が私たちに対してできることの可能性を減らしてしまうことにもなるのです。
 
 この「入れ替え」の作業を、バイロン・ケイティは、「轍にはまったタイヤを前後に動かしてみる作業」と呼びます。ただ読み流していると「そんな簡単なことで自分の気持ちは変わらない」と思うかもしれませんが、実際に自分の問題を文章に書いて「入れ替え」をしていくと、本当に目が覚める思いがするものです。ぜひ、試してみてください。

 この「ワーク」の考えは、アティテューディナル・ヒーリングの中核である「物事のとらえ方はいつでも自分で選択することができる」という考え方と共通します。「いやなことがあったから怒る」というのでは、自動操縦の飛行機と同じで、まさにロボットです。いやなことがあっても怒らないという選択肢があるのです。「ワーク」でも、それを教えていると思います。

 これが受刑者にどういう影響を及ぼしているかというと、それは計り知れないものがあります。グループの中での受刑者たちのやり取りだけでも十分に感動的でしたが、グループ外でも、他人の怒りに自動的に反応してケンカばかり起こしていた人が、他人の怒りに対してただ首を振って静かにしている、という変化が報告されていました。また、刑務所に入るまでは怒りのコントロールが課題だった人が、今では怒りをコントロールできる自信があるといっていました。なぜかというと、「ワーク」を通して、「自分はマッチョでいる必要はない。泣いても、感情的になってもオーケーだということがわかったからだ」と教えてくれて、とても感動しました。「自分が一番尊敬する人」をテーマにしたエクササイズもありましたが、そのときに、グループリーダーであるキャシーの名前を挙げている人がいたのも微笑ましかったです(なにしろむくつけき男性ばかりですから)。

 生育環境の中で怒りがコントロールできるということをどの大人も示してくれなかった、だから自分はここにいる、ということを言っている人もいました。でも刑務所に入ったおかげで「ワーク」に出会うことができたということを参加者はみな肯定的にとらえており、希望を見出すことができました。日本ではもちろん刑務所に入っても「ワーク」に出会えないので残念です。これは明らかに再犯防止にもプラスになるはずです。