こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(6)

2006年06月19日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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ブライアンは、グループの中で、心の焦点を変えるやり方を学びました。状況に対して別の見方をし、一週間の間に膨らませてきた恐怖を手放すにはどうしたらよいかを学びました。その結果は、本当に驚くべきものでした。皆が、深い変化に気づきました。

 私たちは自分の気持ちを知るためにサイコドラマの形式を使い、4人の人が参加しました。一人は医師を演じ、もう一人は患者を演じ、残りの二人はそれぞれのうしろに立って意識の役を演じました。医師や患者が嘘をつくたびに(たとえば、「いや、これは痛くないよ」というふうに)意識はそれを思い出させる役を果たすのです。これは、私たちが自分の本当の気持ちを早く知れるようになるための、おもしろく、効果的な方法でした。

 子どもたちとやったことで他にとても重要だったのは、自分の気持ちを表現する絵を描くよう励ましたことでした。これらの絵は、その素朴さにおいて、私たちが期待した以上のものを与えてくれました――言葉では伝えられない、子どもたちの気持ちや体験へのドアを開けてくれたのです。そして、そのプロセスを通して、私たちは皆、より親しくなりました。

 この作業を進めるにつれてわかり始めたことがあります。それは、これらの絵が他の子どもたちの、そして医師や家族の役に立つだろうということです。ある日、私たちは本を書くことに決めました。何ごとも不可能なことはないという仮説のもとで、とにかくこれをやろうと取りかかったのです。私たちは絵を編集し、最終的なテーマに焦点を当てた新しい絵を描くように励ましました。この結果、私たちはさらに親しくなり、グループには新しい要素が加わりました。

 約1年後、私たちの本がまさに完成しようとしていたときに、グレッグ・ハリソンが亡くなりました。グレッグは差し迫った死に直面したグループ最初の子どもとなりました。グレッグは11歳でした。白血病で、薬がもはや効かず、重度の痛みを抱えていました。グレッグは、自分で、もう逝く準備ができたということを決めたのです。彼はグループでそう言い、彼が死について話す間、皆が彼の周りに集まりました。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

新しいメディア「ode」(その2) ――日本語版を作ろう!

2006年06月19日 | 活動報告
 前回、「ode」をご紹介したところ、ポジティブな反応をいただき、ありがとうございます。

「ode」は、現在購読者10万人で、100カ国の人に読まれているそうですが、もともとは、11年前に、シンクタンクをやっていたある夫婦のアイディアから始まりました(その妻が私の友人のイレーンです)。世界にポジティブな変化を起こすためのネットワークを作りたい。でも、寄付に依存するものではなく、自分たちで収益を上げられるビジネスにしたい。その結果が、ポジティブな変化につながるニュースを配信する雑誌の刊行でした。

 8年間はオランダ語で雑誌を出し続けましたが、世界全体にネットワークを広げるために、3年前にアメリカに拠点を移し、英語の雑誌になりました(オランダ語版も続いています)。イレーン一家もアメリカに移住してきたわけです。

 ポジティブなニュースだけのメディアを作るというのは、イレーン夫妻が初めて考えたことではないはずです。実際に、アメリカで身近な人に聞くと、過去にいくつもそういうメディアが生まれては消えたと言います。「やはり読者はそうでないものに関心を持つんだよね」というのが、私が聞いた人たちの意見でした。こういう意見は、日本でもよく聞いたことがあります。

 ではなぜ「ode」は生き延び、ビジネスを拡張しているのか。その秘訣をイレーンに聞くと、「さあ、わからない」と言ってしばらく考えていました(この質問そのものが意外だったようで、ちょっと驚いていました)。そして、唯一言えるのは、「いろいろな難局があったけれども、雑誌をやめるというのは一度も選択肢にのぼったことはない」ということだそうです。いつつぶれるかわからない雑誌をやっていると、いろいろと胃が痛くなる瞬間があるそうです。特に、お金のやりくりがつかないときには、その問題を抱えたままで眠るということは限りなく辛いことだといいます。イレーン夫妻も、そのような苦労を重ねてきましたが、「やめる」ということは一度も考えたことがないそうです。特にイレーンの夫は「取りつかれたように」仕事に専心しており(もちろん父親としての責任はちゃんと果たしているそうですが)、この仕事を取り上げてしまったら間違いなく不幸になると思う、とイレーンは言っていました。

「ode」は現在、英語版、オランダ語版、ポルトガル語版があります。共同創始者・編集者のイレーンは、日本語版もぜひ出したいと言っています。とても価値のある雑誌です。雑誌関係の方で可能性がある方は、ぜひご連絡ください。

 また、英語版で良いから今すぐに購読したいという方は、「ode」のホームページ(www.odemagazine.com)のsubscriptionをクリックすると、申し込みができます。アメリカだと年間30ドル弱で読めますが、日本で購読すると1年間59ドルのようです。

 なお、イレーンは、4人の子どもを持つお母さんでもあります。オランダでは、4人の子どもというのは多くないのか、と聞くと、「別に多くない。子どもが2人、と聞くと、ちょっと少ないなという感じがする。私の友人は弁護士だけれど、6人子どもがいる」とのこと。オランダでは、教育費もすべて無料(大学も含めて)だし、親が失業しても政府から手当てが出るので心配ないし、保育園の保育料は事業主が負担してくれるし、「これだけ良いことがあるのに、子どもを持たない理由はないんじゃないの、という感じね」と言っていました。妊娠したときも、そういう意味での責任は何も感じず、ただ子どもを持つことを楽しみにできたといいます。そして、実際に、イレーンはとても良いお母さんです。やはり、ヨーロッパの政策は見習うべきです。

★ お知らせ

 6月20日~29日は、ハワイに行ってきます。ハワイの州議会上院議員で、「君は彼と双子みたいなものだ」とジェラルド・ジャンポルスキー博士に紹介していただいた方に会います(双子といっても、年配の男性ですが)。また、ハワイのアティテューディナル・ヒーリング・センターの活動にも参加して、刑務所などを訪問する予定です。一時カリフォルニアに戻った後はコスタリカのセンターを訪問しますので、メルマガの発行がやや不定期になりますが、少しずつご報告させていただきます。


アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(5)

2006年06月12日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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6週間の終わりに、ジェリーとグロリアとパットと私は、子どもたちが私たちの教師になってくれたことに対して、お礼のカードにサインをし、5ドル札を封筒に入れました。私たちにどれほどのものを与えてくれたかを、子どもたちに伝えたかったのです。子どもたちは、まさに異口同音に「もうおしまいにしなければならないの?」と言いました。これは完璧な質問でした。なぜかというと、私たちも終わりにしたくないということをとてもよくわかっていたからです。私たちが合意したのは、皆にとって役に立っている限りは続けようということと、皆がこれほどたくさんのものを受け取っているときにやめる理由はないということでした。これは12年前のことです。そしてアティテューディナル・ヒーリング・センターが生まれたのです。(訳注:センターができたのは1975年)

私たちのグループは、それから数年間にわたって続きました。小さいグループでした。私たち皆が定期的に同じやり方で参加しました。私たちは愛を分かち合いました。無条件の愛で、お互いに与え、受け取り、サポートしたのです。そして、やり方はほとんどいつも同じであっても、グループはいつも生き生きとしてワクワクするものでした。いつも何かしら新しいものを与えました。いつも何かしら新しいものを受け取りました。

ゆっくりと、子どもたちが私たちのところに紹介されるようになってきました。医師や看護師や家族が、子どもたちの態度に違いを見出すようになってきたからです。自分たちが対処しなければならない問題について、別の対処の仕方をするようになったのです。注射、化学療法、その結果髪を失うことの心理的な影響といった問題に。

その例が、7歳のブライアンでした。ブライアンは、とても苦しい耳の癌でした。毎週病院に行くと、彼は病院全体が混乱するほどひどい騒ぎを起こしました。病院の職員は、ブライアンが来る日をとても怖れるようになりました。なぜかというと、ブライアンの泣き声があまりにも大きく、抵抗があまりにも強いので、一日のスケジュール全体が遅れてしまうからです。そして、ブライアンの騒ぎの結果、治療を待っている親たちや子どもたちの不安がどうなるかは、言うまでもありません。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)

新しいメディア「ode」(その1)

2006年06月12日 | 活動報告
 現在暮らしているベイエリア(サンフランシスコ近辺)は、世界の中でもスピリチュアルなものが集まる拠点の一つだと言われていますが、本当にいろいろなおもしろい出会いがあります。

 その一つが、「ode」(オード)という雑誌です(odeという言葉の意味は、「特殊の主題でしばしば特定の人や物に寄せる叙情詩」)。この雑誌の共同創始者であり編集者のイレーン・デュ・プイというオランダ出身の女性と知り合いになり、親しくする中で、大変感銘を受けましたので、この雑誌について紹介させていただきます。

 メディアのあり方については、今までも何度か取り上げてきましたが、「ode」は、まさにそんな問題意識の中から生まれてきた雑誌です。

「ode」のキャッチコピーには、「世界を救っている実在の人たちの話。現実の問題への解決策。全て良いニュースだけ! この頃あなたは、良いニュースをどのくらい受け取っていますか? 私たちに良いニュースを送らせてください!」とあります。

また、「ode」の推薦文として、パッチ・アダムズ(笑いを医療に取り入れていることで世界的に有名な医師)はこう書いています。「悪いニュースを詰め込まれた市民は、悲観的に、冷笑的になる・・・そうすれば、良い消費者になるだろう。「ode」は、すばらしいことが起こっていることを知らせてくれる。そこで表現されているのは、全人類と環境への愛だ」今のメディアがいかに商業主義や悲観主義によって歪められているかということでしょう。

さまざまな問題を前向きに解決するために、そして、より良い未来を作るために、共有すべき情報やアイディアを共有しようというのが「ode」の基本理念だと思います。

 例えば、「ode」では、以下のようなニュースを伝えています。

■あるキノコ農園では、殺虫剤の使用をやめることで一日あたり25%キノコの収穫量が増えた。どうやったのか。土壌に自然の細菌・真菌・酵母を加えることによって、その農家は、生産量を伸ばし、自分自身と地球の健康を向上させたのである。
そして、これは、カリフォルニアのしゃれた高級農園で起こったことではない。これはタイの田舎の話だ。そこの村人は、化学薬品ではなく微生物を使って、きゅうりや、トマトや、とうもろこしや、米や、マンゴや、魚を育てている。

■ビニールの買い物袋は、下水道を詰まらせ、木にはまり込んでしまう。3つの国(台湾、バングラデシュ、南アフリカ)は、ビニールの買い物袋を禁止した。アイルランドでビニール袋を有料にすることを義務づけたところ、使用量は90%減った。米国では、毎年1000億枚のビニール袋が捨てられている。そして、本当に「捨てる」場所などないということを、私たちは知っている。

■国連では、世界で10~20億人が、何らかのスラムに住んでおり、水道も下水道もなく、法的な権利もなく暮らしていると推計している。でも、スラムの住民は、自分自身の力で向上している! アフリカのあるスラムでは、自分たちの学校を作った。カラチでは、スラムの住民が自分たちの下水道を作った。そしてブラジルでは、政府が、何十万もの小区画の地所を、スラムの住民に譲り、家を建てられるようにした。

次回に続けます。

アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生(4)

2006年06月05日 | アティテューディナル・ヒーリング(AH)
 アティテューディナル・ヒーリング・センターの誕生について、パッツィ・ロビンソンの翻訳の続きです。

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夕食を終えると、私たちは皆で輪になって座りました。1分間くらい手を握りました。これは、全ての集まりの最初と終わりに今でも行われている習慣です。仕事のミーティングであろうと、グループセッションであろうと、本当にそうなのです。

次に起こったことは、私にとって、センターの始まりのカギとなることでした。私たちは順番に、自分が怖れていることについて話しました。正直に、率直に。私は目前の怖れを話しました。それは、自分が失明するのではないかということでした。私は緑内障を患っていました。緑内障というのは、視神経を損傷するほど眼圧を高くする可能性のある病気なのです。

死についても、もちろん、話し合いました。私はそれまでに自分自身の死についても家族の死についても考えようとしたことがなかったので、子どもたちが最も深い心配事について自由に話すのを、畏敬の念をもって見ていました。

お互いに自分自身の怖れを打ち明け始めてみると、私たちには何の違いもないのだということに気づきました。大人も子どもも同じことに直面していました。子どもたちは私たちの教師になりました。子どもたちは、とても怖いテーマについて、私よりもはるかに直接的なやり方で物事に対処していました。

最初のセッションの終わりに、私たちは全員がずっと昔から友だちだったような気持ちになりました。深く気持ちを打ち明けあうことの何かが、他の何よりも人々をつなぐのです。でも、気軽な雰囲気がずっとその場を占めていたということも、大切なこととして言っておきましょう。いたわり打ち明け合う中に、笑いと愛がありました。

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(☆☆☆ではさまれた部分は、パトリシア・ロビンソン著「アティテューディナル・ヒーリングの原則の一つの定義」の邦訳)