こころの平和から社会の平和へ

水島広子の活動報告や日々思うことを述べさせていただきます。この内容はメールマガジンで配信しています。

「どうする? 日本のお産」のご案内

2006年11月27日 | 活動報告
全国的に広がる産科医院の閉鎖、産科医・助産師不足など、マスコミでも注目されている日本のお産の深刻な現状ですが、本当に産む場所が消えてしまわないようにと、いろいろな方たちが行動を開始しています。
以前このメルマガでもご紹介した「どうする? 日本のお産」ですが、全国8ヵ所でリレー企画を続けてこられ、いよいよファイナル・ディスカッションが東京で開かれます。
ご関心のある方はぜひご参加ください。

日時:2006年12月17日(日) 10:30-16:00

場所:港区男女平等参画センター(リーブラ)

参加費:1000円

参加申し込みなど詳しくは http://do-osan.socoda.net/ をご覧ください。
お子さま連れも可だそうです。

難民支援・今野東さん

2006年11月27日 | 活動報告
11月22日(水)、元衆議院議員今野東(こんの・あずま)さんの難民支援チャリティー寄席に行ってきました。
私と同期当選だった今野さんですが、2003年の総選挙における選挙違反(宮城県)のけじめをつける形で議員辞職されました。
同期当選組の中では貴重な平和主義・リベラル議員でしたから引き続き親しくさせていただいております。

議員辞職後も、現職時代からの重点領域であった難民支援活動を続けておられ、難民支援基金・理事長を務めておられます。

====以下、今野東さんの「ご挨拶」より抜粋====

2005年度、難民認定を申請した人は384人、そのうち難民として認定された人は42人だけです。2004年度は426人の申請に対して15人の認定ですから、いくらかよくなったという評価もあるかもしれませんが、難民認定手続きが極めて不透明である事には変わりがありません。

難民認定は法務局の入国管理局が行いますが、そもそも入国管理局は、不法に入国する者がいないかどうかをチェックする役所ですから、難民は保護しなければならないという前提に立っての認定業務とは矛盾しがちです。よって難民申請する人々には冷たい対応になってしまうという問題があります。

自由を求めて日本に逃れてきた人々は、日本の硬直した難民行政のもとで希望を見出せない状況にあります。多くの方々は刑務所同然のところに収容されていますし、そこから仮放免される場合も保釈金のような性質を持った保証金を要求されます。上限30万円の保証金を要求するのは、命からがら迫害の祖国から逃れてきた方々にはあまりにも過酷です。難民の方々の暮らしを公的に支援する制度もない現状では、誰かが救いの手を差し伸べなければなりません。

=====以上、今野東さんの「ご挨拶」より抜粋====

今野さんはもともとアナウンサーですが、1997年に東北弁の話芸の確立を目的に東方落語を設立しました。以来、毎月の定期会はもちろん、全国で精力的に高座をつとめています。

22日のチャリティー寄席は、収益金を難民支援のために役立てる目的で開かれたもので、今野さんに支援されてきた難民の方たちもずいぶん見かけました。


以前から評判だった今野さんの東方落語を聞くのは初めてでしたが、チャリティーという目的を忘れても、落語として本当に楽しませてもらいました。

今野東さんは、来年の参院選に民主党公認・比例区候補として立候補される予定です。難民支援にご関心のある方は、ぜひ、今野さんの活動をご支援ください。

「いわき病院事件」・矢野さん

2006年11月27日 | 活動報告
11月26日(日)、高知在住の矢野啓司さん・千恵さんご夫妻のご来訪をいただきました。

矢野さんご夫妻は、昨年12月6日に、最愛のご子息を28歳で殺人事件によって突然失うという体験をされました。見ず知らずの人間であった犯人が、入院先の精神病院「いわき病院」からの外出中に起こった事件でした。犯人は病院から社会復帰訓練のための外出をし、100円ショップで包丁を購入し、その直後に矢野さんのご子息・真木人さんを刺殺したのです。

「精神科の患者だから責任能力は問えない」と弁護を引き受ける弁護士すらなかなか見つからない状況の中、矢野さんは絶望することなく全力を尽くして、懲役25年の実刑判決を勝ち取りました。

さらに、現在は、犯人の外出を許可した病院を相手取って民事訴訟を起こしておられます。犯人は当日の午前中に頭痛を訴えて医師の診察を求めていたにも関わらず、診察を受けられない不満が看護記録に残されているそうです。

精神障害を持つ人による重大犯罪は、衆議院議員時代の私の大きな仕事の一つでした。
「心神喪失者医療観察法案」という、世にもおかしな法案を政府が出してきたときに、民主党の対案を作って提出しました。
その柱は、責任能力を問う唯一の根拠たる精神鑑定を、現行のように安易に簡易鑑定で済ませるのではなく、鑑定センターを作ってきちんと行うということ、そして、重大犯罪を犯した患者を手厚い人手で集中的に治療できるような精神科ICUを作ること、さらには、精神科医療の質の全体的な底上げをし地域の受け入れ態勢を整えて社会的入院を解消すること、というものでした。

矢野さんの経験されたことは、まさにこれらの柱が本当に必要なものだということを裏づけています。

「精神科の患者だから責任能力は問えない」と皆が及び腰になった(中には矢野さんを嘲笑した人すらいるそうです)のも、鑑定という仕組みがきちんと機能していない証拠です。本来は精神科の患者すべてに責任能力がないわけではないのですが、精神科の診察券を持っているだけで警察が無罪放免にするなど、いい加減な運用が目についてきました。これも、精神科患者に対する一つの偏見と言えるでしょう。

また、この領域があいまいなままになってしまっていることが、「精神障害者=危険」という偏見を生み、精神障害を持つ人のノーマライゼーションが進まないという問題意識も共有することができました。

「いわき病院事件」というのは矢野さんが使われている呼称ですが、精神衛生法を精神保健法に変えるきっかけになった「宇都宮病院事件」と同じように、今回の事件が、精神科医療の質を本当に高めるきっかけになれば、という思いでそう呼んでいるそうです。

誰もが「無理だ」と言う中、矢野さんご夫婦は息子さんへの愛情ゆえに、決して諦めずにここまでやってこられました。現在の民事訴訟も、「医療過誤訴訟は、医療側が圧倒的に有利」と言われる中で、果敢に取り組んでおられます。矢野さんが作成した膨大な量の資料を見せていただきましたが、どれほどのエネルギーを傾けておられるかがよくわかりました。資料のコピー代だけでも十万円単位のお金がどんどん出て行くということで、たまたま経済的・時間的にゆとりのある自分たちだからやっているけれども、普通の犯罪被害者にここまでのことをやるのは無理だと矢野さんはおっしゃっていました。

これだけエネルギッシュな活動をされている矢野さんですが、「息子を自分の会社で働かせなければ、あの日あのときに息子があの場所にいることはなかった。そうすれば息子は殺されずにすんだ」という罪悪感に苦しまれています。未だにお墓すら作れない精神状態だそうです。

11月25日から12月1日までが犯罪被害者週間となっていますが、日本でほとんど目を向けられてこなかった犯罪被害者の現状を直視する必要があります。

また、心神喪失者医療観察法案の審議のときに厚生労働大臣が約束した社会的入院の解消期限がどんどん迫ってきているというのに、病棟の看板を「退院支援施設」とかけ替えれば退院とみなそうとするようなおかしな行政が続いています。


矢野さんの体験については、ご著書「凶刃」(きょうじん)(ロゼッタストーン刊)をご覧ください。
また、どこにでも出向いて体験をお話しになる用意があるそうです。
「凶刃」は事件からわずか2ヶ月後に出版された本で、矢野さんの生々しい悲しみと怒りに満ちていますが、そんな中でも、加害者の親も不適切な医療の被害者と言えるのではないか、という公平な視点を失っていない姿に感銘を受けました。

学校仲裁所

2006年11月10日 | 活動報告
 米国の中間選挙の結果は、米国滞在中、振り子を元に戻す生命力を感じていた私にとっては期待通りでした。振り子が振り切れてしまいそうな日本も、生命力を身につけていかなければなりません。

 さて、前回のメルマガに関連して、北海道・恵庭市議会議員で社会福祉士の藤岡登さんから大変勉強になるメールをいただきましたので、ご本人の許可のもと、ご紹介いたします。

 ノルウェーの学校仲裁所制度についてです。

以下、いただいたメールより引用==================

 先週、ノルウェーの福祉と教育を見てきました。ノルウェーはノーベル平和賞の国だけではなく、いじめを克服した国、とも言われています。そのヒントの一つが私たちが訪問した「学校仲裁所(School Mediation , Student Mediation...)」と言う制度ではないかと思いました。この制度はノルウェーだけでなく、世界各国に見られる制度のようです。ノルウェー政府は制度の導入当初全国で導入を試みたようですが、残念、政権が変わって(労働党政権が下野しました)、そのおかげで全国への波及は進んでいないと、訪問した学校で伺いました。
 
 制度のことを簡単に書きますと、もめ事の仲裁員(Mediator)がいます。もちろん生徒です。もめ事を起こした当事者は、双方の合意によって、この仲裁所へ行きます。仲裁員は裁判官ではなく、どちらが良いか悪いかの裁定をするものではありません。仲裁所のルール(①あったこと事実だけを言う②相手のことを悪く言うことから始めない③相手が話しているときに口を挟まない④相手を理解するよう努力する・・・などなど)に従って話し合いが行われます。仲裁員はこのルールが守られて話し合いが進められように、のウォーッチャーであり話し合いのファシリテーターです。大人は一切口を出しません。ここで劇的なことが起こります。話し合いを進めている内に、「相手によって傷ついたのは自分だけではない」事にお互いが気づくのです。

「相手のことを理解するように努力する」というルールは、とても大事なことのように思えました。この気付きで双方は、もめ事の時の自分たちよりも一段高いステージに自分たちを押し上げることになります。話し合いは自然に、「では同じもめ事が起きないためにはどうしたらよいか?」を提案し合うステージへと移ってゆきます。合意が出来たら文書化して双方と仲裁員がサインして終わりです。後日、話し合いの通りに進んでいるかのどうか、仲裁員に報告を求められることもあります。

 ここで大事なのは、大人が一切関与しないことです。もちろんノルウェーでも、もっと大きないじめや暴力も実際にはある、と聞きました。しかし、こうした積み重ねで、低学年のうちは仲裁所へ行って解決することが多くても、高学年になるとその場で、自分たちで問題を解決する様になるそうです。実際、この10年ほどの間で仲裁所に持ち込まれる件数は半減した、と説明を受けました。

 子どもは、「自身で問題を解決する力」を育てれば、大人に頼ることなく自分たちでもめ事を解決するようになります。これまで日本では、もめ事が起きたときに先生など大人が割って入って「ケンカは止めろ」と言ってきました。その場は収まっても、大人がいなくなると又、もめ事をぶり返すことになります。この過程で強いものがいじめて、弱いものがいじめられる構造が出来上がってゆきます。教育再生会議のように、ここにもっと強い大人が入り込むのですから子どもたちはこれをどう受け止めて新しい反応を示してゆくのでしょう? 不安ですね。
 
 学校仲裁所で、しっかりもめ事を解決する力を身につけた子どもたちが将来、政治家になったり外交官になったりしたら・・・あらゆる紛争は話し合いで解決できるよう、人類は新しい一歩を踏み出すことになるのではないでしょうか。ノルウェーの平和学者、ヨハン・ガルトゥングの言う、「社会制度としての戦争を廃止しなければならない。専制政治や奴隷制、選民思想や植民地主義や家父長制などと一緒に歴史の排水溝に流してしまえ!」と言う社会が実現することになります。

=============引用終わり

 私はノルウェーの政策をたくさん学ばせていただいたというのに、学校仲裁所制度については知りませんでした。さすがノルウェー、こんな制度もあったのかという思いでおります。
この制度は、修復的司法と同様の手法のように思われます。単に善悪を裁くことは本当の意味での再犯防止にはならないし、被害者にとっても乏しい情報の中恐怖感だけが残る、という問題意識が修復的司法の出発点だと思いますが、現実にはまだまだ多くの課題を抱えています。より小さなコミュニティである学校こそ、まさに修復的司法の先駆けとして見本を示せるはずです。私がかつて視察したイギリスでも、修復的司法のトレーニングを受けた専門警察官がスクールポリスとして配置され、成果を上げていました。

カリフォルニア州オークランド市は、治安の悪いことで有名な市ですが、そのオークランドの修復的司法のプロジェクトはアティテューディナル・ヒーリングを中核に据えています。前回のメルマガで「アティテューディナル・ヒーリングはいじめの特効薬」と書きましたが、行政もそれを認識するに至ったというわけです。本当に効果的なことに向けて、世界各地で先進的な取り組みが始まっています。日本も、やらせ質問などで時間と資源を無駄に使っている場合ではありません。

大人社会が最大の教育

2006年11月07日 | オピニオン
ここのところ、教育について考えさせられる出来事が、いつにも増して続いている。

来週にも衆議院を通過すると言われている教育基本法改正案、今度は中学にも波及しそうな「必修漏れ」騒動、そして、ここにきて一段と顕在化しているいじめ自殺。

「必修漏れ」騒動に対する、世にもお粗末で不可解な決着に首をひねり、いじめ自殺については、最近の日本ではお定まりの「犯人さがし」にため息をつき、そんな中、全く関係のない教育基本法の改正を最重要課題だと思い込んでいる首相と、それを中心に回っている国会に違和感を覚えているのは私だけではないと思う。

「必修漏れ」については、少なくとも一定期間、自分たちの教育方針が正しいと信じて生徒を従わせていた学校側は、なぜきちんと発言しないのだろう。受験を多分に意識していたとはいえ、必要な教育だと思って提供していたのなら、そう言えば良いはずだ。そうすれば、これほどの不信感が現場に生まれることはなかっただろう。子どもたちにとって、何の科目を学んだかということ以上に、自分を教育していた人たちの人間としての姿勢は大きな意味を持つ。そこに人間としての真剣さを感じるか、ご都合主義を感じるかで、その後の人生に与える影響は大きく異なるだろう。

また、子どもたちは何もサボっていたわけではないのに、望まない時期に突然の補習をしなければならず、まるで罰を受けているかのようだ。本来は、サボっていたどころか、教育を受ける権利を侵害された被害者として位置づけられるはずだ。

文部科学省も、教育を所管しているという自負があるのであれば、そのような全人的な教育にどうして配慮できないのだろうか。それこそが、「こころの教育」「生きる力」なのではないだろうか。

学習指導要領というメンツを守るために、まるで罰のような補習が組まれ、政治家の圧力によって時間数がディスカウントされる、などという解決策は本当にいびつだ。これを機に、高等教育の意味やあり方を見直し、意見が対立する人たちの調整をどのように行うかを子どもたちに示すことができれば、日本の教育が飛躍的に成長する絶好の機会になったはずだと思う。そうやって前向きに捉えずに「大変だ」と後ろ向きに捉えたため、結局、いつもと同じように、大人たちの都合が見えないところで調整され、子どもたちがそのツケを払わされることになった。
 
いじめについては、いじめを議論している今の社会の姿勢そのものが、実はいじめの構造に陥っていると思う。

人間は、現実を冷静に直視することが怖いとすぐに「犯人探し」を始めるものだが、私は、ここで直視を避けられているのは、大人たち自身に潜む「いじめ心」なのではないかと思う。ここ数年、特に顕著になってきている「バッシング」は、いじめそのものである。少しでも弱みを見せた人、少しでもミスを犯した人に対して、「あの人は間違っている」と徹底的にバッシングするのである。

子どもたちがいじめる理屈も、それと大差ない。結局、大人社会が、弱みを見せた人に襲い掛かるような構造を変えられない限り、いじめはなくならないと思う。

もちろん、実際に起きたいじめにどう対応するかという制度を考えることは重要だ。そういう意味で、教育委員会の存在の是非も含めて、組織や制度を議論することは必要だ。だが、どれほど制度をいじろうと、それはいじめの撲滅にはつながらない。

いじめる子ども、それを黙認する子どもは、いずれも「怖れ」によって動かされている。いじめる子どもの多くが、家庭で広い意味での虐待をされているという事実もある。その「怖れ」を認識して癒していくことなくしては、問題は根本的に解決しない。私も、被害者にとっても加害者にとってもいじめの特効薬であるアティテューディナル・ヒーリングの考え方を引き続き広めていきたいと思っている。

だが、そうした子どもたちへのアプローチとともに、まずは私たち大人自身が、ひとたび「悪者」と決まると相手の事情をいろいろな角度から考えてみることもせずに一方的に非難するなど、何らかの形でいじめの土壌作りに加担しているのではないか、と振り返ってみることが重要であると感じている。

「必修漏れ」にしても、いじめにしても、大人社会がこの問題とどう向き合うか、ということが、現在の教育に対する最大の解決策になると思う。
 
ふと、子どもが米国で通っていたチャータースクールを懐かしく思う。担任の先生との個人面談のときに、日本の親である私は「英語が不十分なのでクラスにご迷惑をおかけして・・・」というようなことを言おうとしたのだが、先生は、他の子どもたちが読書をしている時間に英語が読めないうちの娘に何をさせているか、などを一生懸命説明して、英語が不十分だからと言ってうちの子どもが教育の権利を奪われていないということを一生懸命説明してくれた。明らかに、子ども個人が教育の主役として位置づけられていた。文化の違いがあるとは言え、折にふれて子どもを抱きしめて愛情を示してくれたことも、子どもにとっては温かい思い出なのだそうだ。人間としてのコミュニケーションが大切だということは教育の場であっても(場だからこそ)重要なのであって、それを阻害しているものが何なのか、見極める必要があると思う。