【永田満徳(みつのり)】 日本俳句協会副会長 俳人協会幹事 俳人協会熊本県支部長 「文学の森」ZOOM俳句教室講師

火神主宰 俳句大学学長 Haïku Column代表 「秋麗」同人 未来図賞/文學の森大賞/中村青史賞

第23号【正木ゆう子】

2018年06月15日 00時00分00秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2018年6月15日発行

《はじめての正木ゆう子》

〜融通無碍なる句集『羽(ha)羽(ha)』~

              永田 満徳
 初めに

平成二九年、正木ゆう子は第五句集の『羽羽(はは)』(平成二八年九月・春秋社)で、俳句界で最も権威のある第五一回「蛇笏賞」を受賞した。「蛇笏賞」は俳人・飯田蛇笏にちなんで設けられた俳句の賞で、前年の一月から一二月の間に刊行された句集の中で最も優れたものに与えられる。正木ゆう子は先に、各年度毎に芸術各分野において優れた業績をあげた人物を対象とする「芸術選奨文部科学大臣賞」を受賞しているので、若くして大きな賞を受賞していることになる。
句集の題の「羽羽」であるが、「たらちねのははそはのはは母は羽羽(はは)」という句から採られていて、母への鎮魂の句集ということができる。特に「羽羽」の章は逝きし母への絶唱の句群である。「ふるさと」の章は係累が少なくなった熊本への哀惜の句で満ち溢れているとともに、「自分の中には生まれ故郷である熊本の雄大な自然が息づいている」と語っている熊本を題材にしていて、正木ゆう子の産土の地に対する愛着を知ることができる。『羽羽』における故郷の位置は句集全体の中では起承転結の転にあたることから、熊本の文学として重要である。

  一 俳歴

正木ゆう子は昭和二七(一九五二)年、熊本市若葉生まれ。父も母も俳句を嗜んでいた。
昭和四三年、熊本高校入学。四六年、お茶の水女子大学入学。四八年、兄浩一に勧められて俳句雑誌「沖」に投句する。俳句を始めて以降、熊本へ帰省のたび、浩一と兄の親友野田裕三と俳論を戦わす。五〇年、お茶の水女子大学卒業。広告制作会社でコピーライターになる。
六一年一〇月、第一句集『水晶体』を私家版で出版。「いつの生(よ)か鯨でありし寂しかりし」など、どんな内容でも俳句にしてしまう言葉に関するセンスのよさは天性のものがある。
平成三年、浩一が癌で入院したのを機に、葉書の往復で俳句を作り合う。五年四月、四九歳で亡くなった浩一の一周忌に遺句集『正木浩一句集』(深夜叢書社)を編集刊行。
六年一月、第二句集『悠 HARUKA』(富士見書房)刊行。「かの鷹に風と名づけて飼ひ殺す」などは凛々しい主観がすぐれた韻律によって作品に刻みつけられている。
一二年、俳論集『起きて、立って、服を着ること』(平一一・四、深夜叢書社)で俳人協会評論賞を受賞。一三年、能村登四郎の後を継いで、読売新聞俳壇選者となる。熊本日日新聞俳壇選者でもある。
一五年、第三句集『静かな水』(平一四・一〇、春秋社)で芸術選奨文部科学大臣賞を受賞。「水の地球すこしはなれて春の月」「やがてわが真中を通る雪解川」「月のまはり真空にして月見草」「潮引く力を闇に雛祭」「揚雲雀空のまん中ここよここよ」「しづかなる水は沈みて夏の暮」。宇宙に対する鋭敏な感覚が他者の内に眠る感覚を引き出しているところに特徴がある。
二一年六月、第四句集『夏至』(春秋社)刊行、「進化してさびしき体泳ぐなり」「薄氷のところどころの微笑かな」「潜水の間際しづかな鯨の尾」。帯に「俳句は世界とつながる装置」とあり、確かな視点と溢れんばかりの熱情で多面的な世界を描き出している。
二八年九月、第五句集の『羽羽』(春秋社)刊行。帯に「風の香り、水の流れ、星の輝きに宇宙の鼓動を聴く森羅万象への直感が鮮やかに紡ぎだす言葉の世界」とあるように、人類の未来を想う感性、生きとし生けるものへの眼差しが窺える。

  二 句集『羽羽』

俳句は他の文芸に比べて、法則が多く、教則本の類が数多く出版されている。法則に外れた俳句を作ろうものなら、厳しく窘められる。俳句の法則と照らし合わせながら、句集『羽羽』を読み通してみると、その法則に当て嵌らない句が散見される。
【季語】 俳句では季語は一句の中で一つ。季語が俳句のような短い詩形に必要不可欠とされるゆえんは季語が事物の象徴と言われるくらい、イメージの喚起力があるためである。
鼻綱なき自由もあはれ爆心地
断崖に身を反りてわが列島は
セシウムのきらめく水を汲みたると
絶滅のこと伝はらず人類忌
掲句は無季の句である。無季の句は震災句に多いことに注目したい。確かに「爆心地」「人類忌」などの語は季語に比肩しえる力がある。無季であっても何ら差支えがないといえる。
【定型】 五・七・五の音数という定型内に納めなければならない。一般的に上五の字余りは許容されるが、余程のことがない限り、字余りの句は作るべきではない。
出アフリカ後たつた六万年目の夏
定型より五音多い。字余りにしなければ、地球或いは天体の歴史に比べた人類の歴史の短さが伝わらない。
  ビニールシートこれをしも青といふか春
掲句もまた二〇音であるが、こう言わずにおれない切迫感があり、ビニールシートの「青」が読み手に浮かび上がってくる。
【「ば」「ど」の使用】 俳句は理屈、つまり説明を嫌う。そのため、例えば因果関係を示す「ば」、逆説の接続を表す「ど」などはほとんど使わない。
日向ぼこ瞑(めつむ)ればより明るくて
白魚に箸を被災の島なれど
ふふみたることはなけれど寒の星
つぶやきに似た句で、あえて「ば」「ど」を使うことによって、ある種の感慨を標榜したという感じである。
一方、有季定型を軽々と破っている反面、俳句の技巧に対してはその特色を生かして、自由自在に駆使している。ここに、融通無碍な俳句世界が展開されていると言わねばならない。
【韻律(リズム)】 俳句の韻律は音数で作られ、五音・七音・五音の一七音の定型律が基本である。
たらちねのははそはのはは母は羽羽
「は」が「は」を呼び出し、「羽」に導いて、穏やかなリズムを作って、母恋のひとつの定型がある。子音のハ行音は軽快な響きで、母音のあ音は大きく朗らかで明るい調べとなる特性が生かされているのである。
【押韻】 同音や類似音の文字による繰り返しによって、語意を強め、押韻美を醸し出す。
予震予震本震余震余震予震
岩朧海朧また風朧
前者は句末の「予震」が新たな大地震への不安感を呼び起こしている。後者は「岩」「海」という地平から「風」という空間に展開することによって、立体的な風景を切り取っている。
【リフレーン】 反復法で、畳語ともいい、意味を強め、言葉のニュアンスを深める。
花一輪日一輪銀河系一輪
リフレーンによって、身近な「花」から宇宙規模の「銀河系」に繋げ、立体的な世界を詠み込んでいる。
【比喩】 たとえのことで、主要な修辞法である。
寄居虫の小粒よ耳に飼へさうに
掲句のやうな比喩は大人しい方で、
星空のやうな水母を夢に飼ふ
などは大胆な比喩で、他の追随を許さない。
【擬人化】 俳諧の時代からよく使われている技法で、人間に当てはめることによって、実感のある言い表し方ができる。
雷神のうち捨ててゆく荒野かな
睡魔来て通り抜けたる夏座敷
語り出す流木もあれ春の月
比喩にしても、擬人化にしても、常識的な発想は陳腐、平凡のそしりを免れない。掲句はいずれも発想の斬新さといい、飛躍といい、目を見張らんばかりである。
 【取り合わせ】 「発句は物を合はせれば出来(しゅったい)せり」という芭蕉の言葉があるように、俳句の俳句たるゆえんは取り合わせにある。
天地創造葛湯の匙を引き上げて
掲句は矛で混沌をかき混ぜて島を作った国産みの神話と葛湯をかき混ぜた匙の滴(しずく)とが響き合い、スケールの大きな二物衝撃型の俳句である。
【写生】 正岡子規以後俳句における写生の重要性は言うまでもない。
飛ぶ鳥の糞(まり)にも水輪春の湖
一花のみ揺るるは蜂のとまりたる
というように、しっかりとした写生の句がある、ゆう子俳句の写生はどことなく、かわいらしく、微笑ましいものばかりである。
雪片の速ければ影離れたり
焼芋を割れば奇岩の絶景あり
唸り来る筋肉質の鬼やんま
これらの写生句はゆう子俳句の独断場である。「影離れ」「奇岩の絶景」「筋肉質」とは言い得て妙である。
写生を広く解釈すると、宇宙規模の俳句も写生の範疇に入るだろう。
  天体のよく並ぶこの六月は  
闇の粒子か時の粒子か朧にて
  この星のはらわたは鉄冬あたたか
科学的な知識に裏打ちされた句である。知識、つまり頭で作った句はどうしてもわざとらしさ感じられるが、掲句には微塵も感じられない。
【硬質な語句の使用】 俳句では用語は平易、平明が尊重される。硬質な語句はシュプレヒコールになりえても、俳語にはなじまない。
核融合反応をもて初旭
岩陰の亜硫酸ガス去年今年
「核融合反応」「亜硫酸ガス」などの硬質で生の言葉がゆう子俳句においては違和感なく収まっている。
 正木ゆう子は東日本大震災並び原発事故に対して無力感を覚え、「自分に、俳句に、何ができるか」に悩みつつ詠んだ句集『羽羽』が「時代を反映した句集」と評価されたら救いになると語っている。
冤霊に列す原発関連死
およそ俳語としては硬質な「原発関連死」という語句に「冤霊に列す」という無季の言葉を配することで、かつてない原発事故の時事句をみごとに詠みあげた作品。

  終わりに

正木ゆう子の俳句は俳句とはこうでなければならないという固定観念を放棄しているところがある。無季はむろんのこと、字余りにも無頓着で、俳句形式よりも内容を優先する姿勢は潔い。素材は人類であったり、宇宙の星々であったりして、これまでの自然詠の範疇では括れない雄大さがある。正木ゆう子が俳句の地平を切り開くオピニオンリーダーであることは否定できない。
『羽羽』は蛇笏賞を受賞したことに留まらず、正木ゆう子の俳歴の一大集成を持つもので、この一冊からゆう子俳句の世界に参入することをお勧めしたい。

(ながたみつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第22号【今村潤子】

2018年03月13日 11時40分22秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」


NPO法人 くまもと文化振興会
2018年3月15日発行

《はじめての今村潤子》
〜自己剔出の俳句〜

                   永田 満徳

今村潤子氏は『子別峠』(読売・日本テレビ文化センター、平成九年)、『秋落暉』(角川書店、平成十九年)などの句集を出している俳人である。その一方、『川端康成研究』(審美社、昭和六十三年)、『中村汀女の世界』(至文堂、平成十二年)など、多くの研究書を書いている文学研究者である。
『今村潤子集』は平成二十八年、自註現代俳句シリーズ・12期2として俳人協会から発行された。

むきになることなどなき世風の盆

この句の初出は『秋落暉』であるが、初めて読んだとき、むきになって生きている自分への諭しのように思えて、思わず苦笑いをしてしまった。そして、この世を超絶したかのような民俗行事で有名な「風の盆」という季語がよく付いていて、「そうだ、むきになる必要はどこにもないんだ」と居直りに近い思いを抱かせる。まさしく諭しから癒しを与えてくれる句である。
『今村潤子集』は、今村潤子氏と共にした吟行や句会を蘇らせるよすがになって感無量である。「金鳳花くの字くの字に牛の道」は阿蘇の放牧の道、「子別峠風の道ある芒原」は五木の峠、「秋落暉大蛸の骨あぶり出す」は下田の海岸など、俳句の現場に立ち会っている。いずれも地域の特色を的確に描き出している。
足立幸信氏は『秋落暉』の書評(『俳句』角川書店、平成十七年八月号)において、本句集収録の句で言えば「現の証拠通潤橋の解剖図」に触れて「地方色ある素材に知的なひねりを加えている」と述べ、「漱石と『和熟」』を語る春の夢」に関しては「近代文学研究者としての顔を見せている」を指摘していて、地域的素材に対して近代文学研究の立場で切り取る今村潤子俳句の特質を鋭く捉えている。
『今村潤子集』が自註自解であることの意味は大きい。俳句の選定にしろ、その句の説明にしろ、紛れもない文学研究者兼俳人の姿が浮かび上がっている。
学究は論を成すことによって研究者として評価される。論の整合性を確かなものにするために一行でもおろそかにできない。

汀女論の一語に執し去年今年
原稿用紙二行の余白青葉冷え

文学研究は文学作品と資料と、なにより故首藤基澄氏(熊本大学名誉教授・句集『己身』熊本県文化懇話会賞受賞)が述べていた「抓れば痛い我が身」との対話の連続で、それこそ身を削る行為である。「消しゴムで消せぬ心中梅雨の月」や「女人の性(さが)秋刀魚(さんま)の腸(わた)の捨てどころ」は自己の内面を素材にしていて、なかんずく「煩悩の一途に燃えて彼岸花」「塵界は煩悩多し天の川」などの句は煩悩に焦点を当てている。その煩悩を抱える自我の有り様を剔出(てきしゅつ)する近代文学は自我の探求の文学と言ってよく、自我の問題と格闘することから始まる。

自我を小さく小さく生きて冬菫

「自我」を処理するのはそう簡単ではない。自我は我執となってのたうち回る。「大地こがす炎中我執の凍ゆるむ」のどんど焼の句や、「アイガー北壁我執ちりぢり雪渓に」のスイスの山の句のように、その「我執」は「炎」や広大な「雪渓」に至ってようやく宥めることができる。
文学研究の場では、研究者と文学作品との距離の取り方が適度であることが重要で、そこに客観性と妥当性が保証される。より客観的であろうとする不断の努力は研究者の現実世界でも応用される。自我と自我とのぶつけ合いの中に世渡りするには相手との距離が問題になる。

かなかなや褒めあふ距離の嫁姑
夫婦とて相触れぬ距離ねこじやらし

この「距離」の感覚は尊い。これらの句には「褒めあふ距離」で嫁姑の確執を乗り越え、「相触れぬ距離」で夫婦間の軋轢を避ける知恵がある。「商人の慇懃無礼草虱」や「巧言の裏のからくり蛇いちご」の句に見られる「慇懃」や「巧言」はその裏にある「無礼」「からくり」が隠されている態度であり、嫁姑の句や夫婦の句の「距離」の感覚からはほど遠い。

己が領分控へ目がよし寒あやめ

「控へ目」の語は掲句を始めとして、「控へ目に生きて六十路や鳳仙花」や「晩年は控へ目がよし額紫陽花」の句にも出てくるが、「控へ目」に「控へ目」に世に処する理想が語られている。
こういう性格形成に欠かせないのは父の存在であった。

渋団扇言葉少なき父の背
肥後もつこすの父の箴言臥龍梅
父の血や妥協許さぬ鉄線花

それぞれの自註で、「渋団扇」の句は「無骨な『渋団扇』はさながら無口な父の背を想起させる」、「肥後もつこす」の句は「『肥後もっこす』であった父の戒めの言葉は『臥龍梅』のごつごつした枝が心に突き刺さったようなものであった」、「父の血や」の句は「『妥協』を許さない私の性は父譲りのものである」と述べられている。

芋嵐肥後もつこすで通せし日

この句の自註で「どうしても妥協できないと意地を通した一日であった」とあるところから、父の「無口な」気質に接し、父の「肥後もっこす」で「「妥協を許さぬ」姿勢を受け継いでいることが窺える。
相手の「領分」を侵さず、自分の「領分」をも保持する距離の取り方がある。まさしくここに、対象を客観的に見る研究者の処世術の達成がある。
 近代文学研究者と俳句実作者との不即不離の関係で生み出された句の数々は自己を剔出して、人間の奥深い内面を表現している。まさしく一編の小説に等しく、重厚感溢れるものである。『今村潤子集』は俳句を近代文学の手法で詠み込んだ句集として出色である。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第21号【三島由紀夫と神風連】

2017年12月15日 00時00分22秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年12月15日発行

はじめての三島由紀夫と神風連 
~〈英雄〉としての死・加屋霽堅~
                           永田 満徳

   初めに
三島由紀夫が神風連の取材のため、昭和四十一年八月二十七日来熊、八月三十一日に離熊して、『奔馬』という作品に結実していることは熊本の文学にとって特筆すべきである。『奔馬』に描かれる神風連関係の事跡、新開皇大神宮の拝殿の様子や金峯山の山頂にある蔵王権現、そこから眺められる熊本の情景などの描写は直接見聞して感銘したものでなければ書けない瑞々しい文章である。熊本滞在期間中の動静は、荒木精之氏の「三島由紀夫氏の神風連調査の旅」という文章(『初霜の記 三島由紀夫と神風連』日本談義社・昭46・11) が詳しい。
『奔馬』は四部作『豊饒の海』の第二部(二巻)として、昭和四十二年二月に新潮社から刊行された小説である。『奔馬』を一口で言えば、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲が昭和の神風連を標榜しながら昭和維新を企て、その挫折ののちに海に臨んで割腹自殺をする物語である。第四十章からなる『奔馬』の第九章には三島創作の山尾綱紀著「神風連史話」という小冊子が掲載されている。「神風連史話」は『奔馬』の基本的モチーフとも言うべきものである。
『奔馬』の装幀には神風連の加屋(かや)霄(はる)堅(かた)の漢詩が真筆そのまま複写されている。三島由紀夫が加屋の遺墨を選び、『暁の寺』の刊行後に三巻までの装幀で「僕は二巻が好きだ」と言ったということは三島の加屋霽堅への尊崇のほどがうかがえる。

  一 英雄たる最終年齢

三島由紀夫は、昭和四十二年一月元旦の「年頭の迷い」と題する読売新聞の文章のなかで「西郷隆盛は五十歳で英雄として死んだし、この間熊本へ行って神風連を調べて感動したことは、一見青年の暴挙と見られがちなあの乱の指導者の一人で、壮烈な最期を遂げた加屋霽堅が、私と同年で死んだという発見であった。私も今なら、英雄たる最終年齢に間に合う」と述べて、加屋霽堅に同化しつつ〈英雄〉としての死への決意を確認している。
「年頭の迷い」と題する文章は新聞記事に過ぎないと看過されそうであるが、三島由紀夫が割腹自殺に至る過程の端緒として極めて重要である。昭和四十二年は三島由紀夫四十二歳であることから、三島の脳裏では四十代前半という年齢もまんざら捨てたものではなく、〈英雄〉としての死を可能ならしめる、まさしく「英雄たる最終年齢」と意識されていたのである。つまり、三島は、衰弱死とか病死とかいった一般的で、しかも自然的な終焉を拒否し、四十五歳という「英雄たる最終年齢」で自決して果てたのである。
従って、このような事情から言えば、三島自身、「一体、作家の精神的発展などというものがあるかどうか、私は疑っている」(「一八歳と三十四歳の肖像画」の冒頭) と述べていることも、〈老い〉になんらの意味も見出だせない三島の、作家としての至極当然な言葉であろう。そこに、〈老い〉を拒否した三島由紀夫の作家像を想定してみるのも悪くない。

   二 二つの作家像

しぶとく生き永らえるものは、私にとって、俗悪さの象徴をなしていた。私は夭折に憧れていたが、なお生きており、この上生きつづけなければならぬことも予感していた。
この文章は、「林房雄」(『新潮』昭38・2) という作家論の中の一節である。この作家論もまた、「谷崎潤一郎」論と並んで〈老い〉に関する記述が多く見られる。それは、この二人の作家が「しぶとく生き永らえるもの」の〈象徴〉として存在しているという、まさしくその長生きの秘訣を文学の上からも知っておきたい気持ちがあったからであろう。両者の作家論に共通するのは、三島が〈老い〉を「俗悪さの象徴」とみなし、〈老い〉に対する異常なまでの生理的とも言うべき嫌悪をあらわにしていることである。それと同時に、〈老い〉を否定する三島が〈夭折〉への憧憬に触れていることも注意すべきである。つまり、三島由紀夫の中では〈老い〉への嫌悪と〈夭折〉とは表裏一体のものとして把握されているのである。
私も二、三年すれば四十歳で、そろそろ生涯の計画を立てるべき  ときが来た。芥川龍之介より長生きをしたと思えば、いい気持ちだが、もうこうなったら、しゃにむに長生きをしなければならない。(中略)人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたって醜悪なだけである。それなら、もうしゃにむに生きるほかない。
この「純文学とは? その他」(「風景」六月号・昭37) という文章もまた、三十七歳の時に執筆されていることから、「もうしゃにむに生きるほかない」生を前に立ち尽して、人生上の選択を余儀なくされている三島由紀夫の姿が浮かび上がっており、この時期が彼にとって〈老い〉を迎えるべきか否かを決定しなければならない人生の《迷いの時代》であったといえる。
人生の選択を強いられた《迷いの時代》の三島由紀夫の脳裏には、日本のさまざまな作家像の中から次の二つのタイプがくっきりと浮かび上がっていたにちがいない。
一つは「しぶとく生き永らえ」ながら、文学的な成熟をなしえた〈長寿〉型の作家、例えば、谷崎潤一郎のような作家である。
もう一つは、短命であるがゆえに文学史上に光茫を放った〈夭折〉型の作家、立原道造のような作家である。〈夭折〉には、病死、不慮の死、あるいは自殺の類いがあることを付加しておきたい。
   〇 〈長寿〉型の作家=谷崎潤一郎
野口武彦氏がすでに「当人は四五歳で自殺するくせに、七九歳まで長生きして『変態小説』を書き続けた谷崎のことがよくわかっていたのだ。というより、作者をその年齢まで長生きさせた谷崎文学の本質に、心のどこかでは羨望の気持ちさえ持っていたのかもしれない」(「谷崎潤一郎」『近代小説の読み方(1)』有斐閣・一九七九・八)と述べているが、三島の「谷崎潤一郎」論の次のような文章を踏まえての言葉であろう。
谷崎氏のかかるエロス構造においては、老いはそれほど恐るべき 問題ではなかった。(中略)老いは、それほど悲劇的な事態ではな く、むしろ老い=死=ニルヴァナにこそ、性の三昧境への接近の道 程があったと考えられる。小説家としての谷崎氏の長寿は、まこと に芸術的必然性のある長寿であった。この神童ははじめから、知的 極北における夭折への道と、反対の道を歩きだしていたからであ  る。
野口氏が指摘したように、三島由紀夫は〈長寿〉的な作家としての谷崎の本質を恐ろしいくらいに掴んでいた。それは谷崎の〈長寿〉が「老い=死=ニルヴァナ」という三者の「性の三昧境」を芸術的に昇華したところに必然的に生じるのを見抜いていることである。三島にとって、谷崎は〈長寿〉的な作家の典型的な存在だったと言えるだろう。
「私のきらいな人」(「話の特集」七月号・昭41) という文章では、
私の来たるべき老年の姿を考えると、谷崎潤一郎型と永井荷風型のうち、どうも後者に傾きそうに思われる。(中略)しかし、私は 荷風型に徹するだけの心根もないから、精神としては荷風型に近く、生活の外見は谷崎型に近いという折衷型になることだろう。
と述べている。この文章で大切なことは、三島が〈老い〉を迎えるとしたら、谷崎潤一郎の名前を挙げていることである。つまり、三島由紀夫は一時期にしろ、芸術的成熟にあこがれを持ち、〈長寿〉型の生活を心に描きながら、〈老い〉というものを仮想したこともあったのだということを提起して置きたい。
   〇 〈夭折〉型の作家=立原道造
ここで立原道造を例として取り上げるのは、三島が自決する数ヶ月前、岸田今日子氏に「詩人として生涯を終るためには、立原道造のように夭折しなくては………」と語ったとされているからである。三島が語ったというこの言葉と次の三好達治が立原道造を追悼して作った「暮春嘆息」の冒頭の一行とは驚くほど似通っている。
  人が 詩人として生涯ををはるためには
君のやうに聡明に 清純に
純潔に生きなければならなかつた
さうして君のやうにまた
早く死ななければ!
三島のあの割腹自殺がまさしくこの詩句の内実に添うかたちで実行されたと言ったらよいだろうか。三好達治の詩を参考にして言えば、特に「聡明に」「清純に」「純潔に」という言葉が表象している〈純粋性〉に魅かれていたのかもしれない。三島由紀夫の自決を先取りしたとされる『奔馬』のなかで、拘置されている飯沼勲に対して刑事がいさめる場面があるが、勲はそこであまりにも「純粋すぎる」と評されている。三島由紀夫もまた、〈神風連史話〉に傾倒する主人公飯沼勲と同じく、〈純粋さ〉への篤い忠誠心と言えば言える性格の持ち主であったことは疑いのないところである。

  三 三島由紀夫の選択

三島由紀夫は遅かれ早かれ選ばなければならない人生の岐路に立たされて、二つの作家像の一方を強引に選んだ。それはもちろん、立原のような〈夭折〉型の作家であり、しかも実際は芥川龍之介のように自殺という形である。自己の〈純粋性〉保持という形での死を選んだのは、三島が「谷崎氏は、芥川の敗北を見て、持ち前のマゾヒストの自信を以て、『俺ならもっとずっとずっとうまく敗北して、そうして長生きしてやる』と呟いたにちがいない」(「谷崎潤一郎」昭29・9)と述べているように、〈長寿〉型の作家のずるさを見通しているからであり、端的に言えばそれが我慢ならかったからである。ただ、三島にとって四十代での死は〈夭折〉とは言いがたく、むしろ加屋霽堅の死と同化する〈英雄〉としての死として〈老い〉に対処したと言えるだろう。
このように、三島の作家論を中心とした読み取りでは、三島由紀夫が〈純粋さ〉への憧れから〈夭折〉型の作家を選び、〈老い〉のずるさを拒否したのは明らかである。しかし、単にそれだけの説明で事足れりとすることができるだろうか。この〈老い〉の問題は、彼にとってもっと本質的なものを抱えているような気がする。

   四 《老醜》について

美しい人は夭折すべきであり、客観的に見て美しいのは若年に限られているのだから、人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである。
                   「心中論」『アポロの杯』
三島由紀夫は〈老い〉が人間的成熟をもたらす面を無視して、ひとえに《老醜》と一体化されたものとみなしている。ここでもまた、三島自身のちに『二・二六事件と私』で語っている「老年は永遠に醜く、青年は永遠に美しい」という「生来の癒しがたい観念」を吐露しているのである。
従って、三島由紀夫にあっては、〈夭折〉への願望は〈老い〉への嫌悪によって導き出されており、〈老い〉への拒否は《老醜》への嫌悪と深く結び付いているということである。
〇 祖母夏子
三島由紀夫のこの《老醜》に対する嫌悪感の根は、その経歴によれば、乳幼児期を「病気と老いの匂いにむせかえる祖母の病室」(『仮面の告白』) で過ごすことになる、「誰が見ても異常としか言いようのない環境であった」(岸田秀・「特集三島由紀夫」「ユリイカ」十月号・昭51)祖母の存在にある。平岡梓著『倅・三島由紀夫』の中で三島由紀夫の本名である平岡公威に触れて描かれている祖母夏子は《老醜》そのものの権化とも言うべき老婆の姿である。

……かくて生まれ落ちるとすぐ産みの親の私と別れて、絶えず痛みを訴える病床の祖母のそばで成長するという、こんな異常な生活が何年も続くことになりました。私はこれで公威の暗い一生の運命はきまってしまったと思いました。

……遊び相手としては男の子は危ないといって、母[祖母]の部屋には、母[祖母]があらかじめ銓衡しておいた三人の年上の女の子を呼びました。/したがって遊びはおのずからママゴトや折紙や積み木などに限定され、それ以外の男の子らしい遊びなど以ての外でありました。

……外は明るいのに家の中は暗くしめっぽいので、少し外気を吸わせ陽の光にあててやろうとこっそり連れ出そうとしますと、母[祖母]はとたんに目をさまし、禁足されて、またもとの障子を締め切った暗い陰気な母[祖母]の病床の間に連れ戻されてしまいました。
 
この祖母の幼い三島に対する行為は老人特有のエゴイスティックな心情によるものであり、結局老人の孤独性に帰せられるべきものであって、まったく同情できないことはない。しかし、年端も行かない三島を独占し、恣意的に支配した事実は彼が抵抗しえない子どもであったがためにあまりに悲惨すぎはしないか。母倭文重(しずえ氏に限らず、「公威の暗い一生の運命はきまってしまった」と思うのはこれまた当然である。
いずれにしても、その当時の三島は、あまりにも自己中心的で支配欲の強い祖母の枕許でじっと耐えながら、《老醜》の悲惨なさまをしっかと見据えていたにちがいない。この体験は幼児体験であるだけに後々までも根深く痕跡を残し、「人間はもし老醜と自然死を待つ覚悟がなければ、できる限り早く死ぬべきなのである」という認識を育て上げた。

   終わりに

三島由紀夫の自死が反時代的で、しかも日本刀による矯激な割腹自殺であったことから、内外をはじめ各方面に甚大な反響を呼び起こした。時の首相佐藤栄作が「盾の会」の国粋的活動に好意を持っていたにもかかわらず、「気が狂ったとしか思われない」と発言したことは、当時の一般大衆の反応を代弁してみせたといっても過言ではない。しかし、三島の血みどろな自裁への直接行動の経過がその後次第に明らかにされるに従って、例えば、その当日、市谷駐屯地の東部方面総監室の屋上で自衛隊員に決起を呼びかけたとき、電線の下を通るとき頭上に扇子をかざしたという神風連の故事に倣って、現代文明の利器たるハンド・マイクを持っていなかったことが失笑の対象にもなったが、それこそが現代文明に対するアンチ・テーゼを投げかけているのだということが了解されて、実は一連の行動は用意周到に考え抜かれたものであることがわかってきた。
三島由紀夫の自決が彼自身の思想と不可分のものであり、またその帰結であったことは今や疑うべくもない。ここに、三島由紀夫の意識的になされた自死が文学者における〈思想〉と〈行為〉の課題を投げ掛けていることを指摘しておきたい。
※拙論「三島由紀夫と〈熊本〉」(『熊本の文学 第三』審美社・平5)では、三島由紀夫がその自決の規範として神風連を想定していることに触れている。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第20号【「草枕」②】 夏目漱石『草枕』 

2017年09月15日 11時08分40秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年9月15日発行

はじめての夏目漱石『草枕』② 

~非人情に関わる画工神経衰弱説~
                           永田 満徳

一 写生

『草枕』が「俳句的小説」であるゆえんは、「俳句の方法」と対となる形になっていると、「はじめての夏目漱石俳句」(『KUMAMOTO』第13号)で述べている。『草枕』が「俳句の方法」を応用して描かれているかどうかは、畢竟(ひっきょう)、漱石という作家(語り手)が「草枕」をどう描いた(語った)のかということで、その確認作業をすることに他ならない。今回は「写生」という「俳句の方法」で切り込んでみた。
俳句に於ける「俳句の方法」の根本的なものは、正岡子規が「写実(写生)の目的を以(もっ)て天然(自然)の風光を探ること、尤(もっと)も俳句に適せり」「俳句大要」(新聞「日本」、明治28年)と唱えた「写実(写生)」である。西洋画論の「写生」なる言葉を子規に教えたのは洋画家の中村不折である。『草枕』の主人公が俳人ではなくて、画工であるのはここら辺りの事情があるかもしれない。「写生」が意味を持つのは、子規が、明治30(一八九七)年の長編時評「明治二十九年の俳句界」(新聞「日本」)で説いているように、「非情の草木」や「無心の山河」には「美を感ぜしむる」ものがあるからである。首藤基澄氏の『「仕方がない」日本人』によれば、「人情の美」を切り離して、「自然の美」に焦点を当てているのが『草枕』だということである。
いずれにしても、漱石自身が「余が『草枕』」(明治30年11月)の自作解説「美を生命とする俳句的小説もあってよい」、あるいは森田末松宛書簡(明治39年9月9日)「草枕の主張が第一に感覚的美にある」として、『草枕』が「美」を描いた小説であることを強調している理由がこの「写生」の「美」にあったといってよい。

二 写生と非人情

「写生」をするときに、最も重要になるのは、漱石も「写生文」(明治40年)の中で「余(よ)の尤(もっと)も要点だと考へるにも関らず誰も説き及んだ事のないのは作者の心的状態である」と述べている「心的状態」、つまり心理的姿勢、簡単に言えば心構えである。

恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だらう。しかし自身が其(その)局に当れば利害の旋風(つむじ)に捲き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩(くら)んで仕舞(しま)ふ。従つてどこに詩があるか自身には解(げ)しかねる。
これがわかる為(た)めには、わかる丈(だけ)の余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観(み)て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚へ上げて居(い)る。見たり読んだりする間丈(だけ)は詩人である。
『草枕』[一]

すでに『草枕』の第一章の中で、「余裕のある第三者の地位」という言葉が出てきているにもかかわらず、この言葉に触れることはあっても、特に注目し、取り上げて論じられることはなかった。しかし、首藤基澄氏は俳句実作者ならではの着眼点で、画工の「余裕のある第三者の地位」を「非人情」と同列に扱い、「漱石は人情の美を切り離して『第三者』の立場に置き、『詩境』を味わおうとする」と的確に捉えている。私もまた、子規のいうところの「天然(自然)の風光を探る」際の「写生」の「心的状態」を「『第三者』の立場」に置くことであると思っている。『草枕』で決まって問題視される「非人情」は「第三者」の「心的状態」=心持ちになることで、「不人情」とは似ても非なるものである。それは、『草枕』の中で、「非人情」と「不人情」とが使い分けられていることからもわかる。

  非人情と名づくべきもの、即(すなわ)ち道徳抜きの文学にして、此種の文学には道徳的分子入り込み来る余地なきなり。(中略)由来(ゆらい)東洋の文学には此(この)(非人情的、没道徳的=永田注)趣味深きが如(ごと)く、吾が国俳文学にありて殊(こと)に然(しか)りとす。       
『文学論』

漱石が「非人情」からなる「俳文学」を「道徳抜きの文学」と断言していることと、現代の俳句のノウハウ本がいずれも「自分の思いを述べようとしない」「日頃からもっている感想、意見、信条、思想、そういったものを排除するように心がけてください」(仁平勝)、「できるだけよけいなことを言わない」(復本一郎)と戒めていることとは軌を一にしている。
正岡子規は「明治二十九年の俳句界」の中で、

  俳句は写生写実に偏して殆(ほとん)ど意匠なる者なし

と述べ、また、熊本の俳人池松迂(う)巷(こう)に宛てた書簡には、

家の内で句を案じるより、家の外へ出て、実景を見給へ。実景は自ら句になりて、而(しか)も下等な句にはならぬなり。実景を見て、其(その)時直(すぐ)に句の出来ぬ事多し。されども、目をとめて見て置(おい)た景色は、他日、空想の中に再現して名句となる事もあるなり。筑波の斜照、霞浦の暁(ぎょう)靄(あい)、荒村の末枯(うらがれ)、頽籬(たいり)の白菊、触目、何物か詩境ならざらん。須(すべから)く詩眼を大にして宇宙八荒を脾睨(へいげい)せよ。句に成ると成らざるとに論なく、其(その)快、言ふべからざるものあり。決して机上詩人の知る所にあらず。

という一節がある。このように、むしろ、子規の方が「写生写実に偏して殆ど意匠なる者なし」と言い放ち、迂巷に「実景を見給へ」と「机上詩人」になることに対して警告していることでは徹底している。子規のこの「実景」尊重こそ、対象を「第三者」の立場に置くこと、つまり「非人情」の「心的状態」にすることを直弟子漱石に思い悟らせた原因であろう。
三 非人情

画工は、『草枕』の第一章で、これからの旅の態度として、次のように述べている。

唯(ただ)、物は見様でどうでもなる。(中略)一人の男、一人の女も見様次第で如何様(いかよう)とも見立てがつく。どうせ非人情をしに出掛けた旅だから、そのつもりで人間を見たら、浮世(うきよ)小路(こうじ)の何軒目に狭苦しく暮した時とは違ふだらう。よし全く人情を離れる事が出来んでも、せめて御能拝見の時位(くらい)な淡い心持ちにはなれさうなものだ。
[一]

しばらく此(この)旅中に起る出来事と、旅中に出逢(であ)ふ人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだらう。丸(まる)で人情を棄てる訳(わけ)には行くまいが、根が詩的に出来た旅だから、非人情のやり序(つい)でに、可成(なるべく)節倹してそこ迄(まで)は漕ぎ付けたいものだ。
[一]

「非人情」とまでいけなくとも、少なくとも「人間」を「見立て」でみようとする。すると、心労が「節約」でき、「淡い心持ち」になれるという。「見立て」は「俳句の方法」の点で言えば、「擬える」ことで、「比喩」である。しかし、『草枕』では「非人情」と同じく、対象との間に一定の距離を置く「心的状態」を表す言葉になる。これは漱石独自の面白い「俳句的な方法」の使用方である。「有体なる己れを忘れ尽して純客観に眼をつくる時、始めてわれは画中の人物として、自然の景物と美しき調和を保つ」[一]という文章の「純客観」はもちろん「非人情」のことである。
従って、「非人情」が「第三者」、「純客観」な立場であるならば、「見立て」はより客観的な立場である。こういう立場で、那古井への旅が始まる。
 画工がこれほど「非人情」に拘るのは、

小生は禅を解せず又非人情世界にも住居せず只頻年(ひんねん)人事の煩瑣(はんさ)にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進するのみにて何の所得も無之思ふに世の中には余と同感の人も有之べく此等の人にかゝる境界のある事を教へ又はしばらくでも此裡に逍遥(しょうよう)せしめたらばよからうとの精神から草枕を草し候小生自身すら自分の慰籍(いしゃ)に書きたるものに過ぎず候              
(明治39年8月31日書簡)

とあるように、『草枕』の執筆動機に示された「人事の煩瑣にして日常を不快にのみ暮らし居候神経も無暗に昂進する」状況が背景にある。
このことから、那古井への旅の動機は画工が神経衰弱を患っていたか、それに近い状況ではなかったかと推測する。

四 画工は神経衰弱である

俳人中村草田男の場合を例にすると、

其(その)後、大学の過程に於(おい)て、激しい神経衰弱を患って、再び休学せざるを得ない仕儀に立ちいたった時に、ふと思いついて俳句文学に携わりはじめたのも、それは、ただ当面の必要上そうせざるを得なかっただけであって、意識的に深い動機に基づいていたわけではない。小説、戯曲類はもとより、短歌の如(ごと)きものを読んでも、そこには必ず人事の諸相が採り上げられているだけに、直(ただ)ちに深く案じいらざるを得ない結果となって、疲労しつつも鋭敏になっている私の神経には刺戟(しげき)が強過ぎ、ひたすらにその重圧が耐え難かった。しかるに、俳句文芸は、殆(ほとん)んど平穏な自然界のみを対象とし、あるいはそれに類似した季節的風俗の外形だけを写しているものが大部分であって、読んでみてもなやまされることなく、鉛筆と手帖とを片手に、「写生」に郊外に出かければ、兎(と)に角(かく)、その間は、草木の間に魂を悠遊(ゆうゆう)させて、人生を直視することからまぬかれ、何よりも無為の時間の遅々として経過しがたい苦痛からのがれることができた。
              『俳句を作る人に』(昭和31年7月)

草田男は「『写生』に郊外に出かけ」、画工は山路を登る。それ以降の草田男と画工の感慨とがそっくりそのまま重なり合う。一々例を挙げても切りがないので省略するが、要は画工の言を借りて言えば、「寛容(くつろげ)て、束の間の命を、束の間でも住みよくせねばならぬ」[一]ということである。それ以上に重要なことは、画工が山路を登る前もまた、草田男と同じ状況であったと思われることである。例えば、「普通の芝居や小説では人情を免かれぬ」「取柄は利(り)慾(よく)が交らぬと云ふ点に存するかも知れぬが、交らぬ丈(だけ)に其(その)他の情緒は常よりは余計に活動する」ので、「それが嫌だ」[一]という画工と、「小説、戯曲類はもとより、短歌」は「人事の諸相が採り上げられている」ので、「ひたすらにその重圧が耐え難かった」という草田男とは非常に似通っていて、画工と草田男の類似性が感じられて面白い。
首藤基澄氏は、

……「草枕」は、「仕方がない」開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石が、「仕方がなく」「神経衰弱に罹らない工夫」を張りめぐらせて獲得した癒しの世界だったということになる。「神経衰弱に罹らない」ための「仕方がない」態度、「非人情」による魂の救恤(きゅうじゅつ)だったといい換えてもいい。  
          「漱石の『仕方がない』態度―現代日本の開化」

と、漱石の「現代文明の開化」という講演録の内容を深く検討した結果、「『仕方がない』開化にさらされて神経衰弱に罹った漱石」像を導き出し上で、『草枕』の主題を提出している。
なお、森田草平宛の書簡には、次のような文章がある。

画工は紛々たる俗人情を陋(ろう)とするのである。ことに二十世紀の俗人情を陋(ろう)するのである。否(いな)之を陋(ろう)とするの極俗人情たる芝居すらもいやになつた。あき果てたのである。夫(それ)だから非人情の旅をしてしばらくでも飄浪(ひょうろう)しやうといふのである。たとひ全(まった)く非人情で押し通せなくても尤(もっと)も非人情に近い人情(能を見るときの如(ごと)き)で人間を見やうといふのである。
                 (明治39年9月30日付)

この書簡で、画工が「神経衰弱」を患っているとは一言も言っていない。しかし、重要なのは、画工が那古井への旅の前の精神状態を「俗人情」(「極純人情」とも言っている)として嫌い、「非人情」に親近感を覚えていることである。「俗人情」と「非人情」とを明確に対置している。
首藤基澄氏の結論部分に出てくる「神経衰弱に罹った漱石」の言葉や中村草田男の文章を手掛かりにして考えてみると、この「俗人情」と画工の「神経衰弱に罹った」精神状態とが同義であることは否定しようがない。これほどの精神状態であればこそ、画工が「非人情」を再三つぶやき、「非人情」を堅持しようとするのも、「煦々(くく)たる春日に背中をあぶって、椽側(えんがわ)に花の影と共に寐(ね)ころんで居(い)るのが、天下の至楽である。考えれば外道に堕(お)ちる。動くと危ない。出来るならば鼻から呼吸(いき)もしたくない。畳から根の生えた植物のようにじつとして二週間許(ばか)かり暮して見たい」と思うのも無理のないことである。
これらのことから、非人情世界を志向する前提に神経衰弱が存在したとして、画工神経衰弱説を唱えることはあながちこじつけだとは思わない。
(ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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第19号【漱石漢詩】

2017年06月13日 21時36分32秒 | 総合文化誌「KUMAMOTO」

NPO法人 くまもと文化振興会
2017年6月15日発行

   《はじめての漱石漢詩》
     初出雑誌発見
                    永田 満徳
 晩年の漱石が漢詩の創作に熱心であったことはよく知られている。晩年の漢詩に注目されがちであるが、和田利男氏によれば、少年時代の作から英国留学の途に上る明治三十三年の秋までを第一期として、この期の漢詩には「従来の漢詩にはまったく見られなかった自由清新な発想によるもの」があると指摘している。
 そこで、明治二十九年四月第五高等学校赴任から明治三十三年六月英国留学までの、いわゆる漱石の熊本時代の新資料が熊本の新聞、雑誌などで発見できないかと渉猟してみた。
 その結果、「丙申五月。恕卿所居庭前生霊芝。恕卿因徴余詩。」(以下、「丙申五月」)云々の漢詩は熊本で発行されていた「九州教育雑誌」六百七十号(九州教育雑誌社)に明治三十年一月三十日刊に発表されていたことが分かった。また、明治三十年二月十日刊の「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄に転載されていることが分かったのである。

 一 『漱石全集十八巻 漢詩』の定稿

丙申五月、恕卿   丙申五月、恕卿の居る所、
所居、庭前生霊   庭前に霊芝を生ず。恕卿
芝。恕卿因徴余   因って余が詩を徴す。余、
詩。余辞以不文。  辞するに不文を以てす。
恕卿不聴、賦以   恕卿聴かざれば、賦して
為贈。恕卿者片   以て贈と為す。恕卿なる
嶺氏、余僚友也。  者は片嶺氏、余の僚友なり。

五首 明治二十九年十一月十五日
〔其一〕     〔其の一〕
階前一李樹   階前の一李樹
其下生霊芝   其の下に霊芝を生ず
想当天長節   想うに天長の節に当る厥厥
李紅芝紫時   李は紅に芝は紫なる時
〔其の二〕    〔其の二〕
禄薄而無慍   禄薄くして而も慍る無く
旻天降厥霊   旻天 厥の霊を降す
三茎抱石紫   三茎 石を抱いて紫に
瑞気満門庭   瑞気 門庭に満つ
〔其三〕     〔其の三〕
朱蓋涵甘露   朱蓋 甘露を涵し
紫茎抽緑苔   紫茎 緑苔より抽きんず
恕卿三顧出   恕卿 三顧して出で
公退笑顔開   公退 笑顔開く
〔其四〕    〔其の四〕
茯苓今懶採   茯苓 今採るに懶く
石鼎那烹丹   石鼎 那ぞ丹を烹んや
日対霊芝坐   日に霊芝に対して坐せば
道心千古寒   道心 千古に寒し
〔其の五〕    〔其の五〕
氤氳出石罅   氤氳として石罅より出で
幽気逼禅心   幽気禅心に逼る
時誦寒山句   時に寒山の句を誦し
看芝坐竹陰   芝を看て竹陰に坐す

 『漱石全集十八巻 漢詩』の定稿は漢詩人本田種竹の添削に従っている。なお、本田が添削した詩稿は『夏目漱石遺墨集』第一巻(求龍堂・昭和五十四年五月)の写真版で見ることができる。
 この時期の後半、正岡子規を介して本田に添削を依頼したり、後に同僚の長尾雨山に批点を受けたりすることもあったが、もっぱら自作の漢詩を子規に示して、批評を聞く程度であった。子規と親しかった本田種竹への添削依頼は子規を介してとはいえ、漱石自らが希望したものである。本田種竹は京都で漢詩を学び、長尾とともに「日本」新聞に拠って、森海南らと対立していた。
 ところで、この詩稿が「九州教育雑誌」、さらには「龍南会雑誌」に発表されていたのである。漱石は「九州教育雑誌」・「龍南会雑誌」掲載の漢詩に本田が添削した詩稿通りに掲載している。漱石の本田種竹への信頼の証がみてとれる。

 二 「九州教育雑誌」、「龍南会雑誌」への転載

 「九州教育雑誌」の〔文藻〕欄には片嶺芝園(芝庭改)、本名片嶺忠編集の「随蒐錄」の中に収められ、その冒頭に掲載されている。「丙申五月」の漢詩は「先頃学校の教務掛の庭に霊芝とか何とかいふものが生たと申すにより小生に其詩を作って呉れと申し来り候」という子規宛書簡(明治二十九年十一月十五日付)にあるように、第五高等学校の教務係片嶺からの依頼で作られた。従って、片嶺忠は、「九州教育雑誌」に掲載するのを前提にして、明治二十九年四月第五高等学校に着任して半年を越えたほどの漱石に漢詩創作を依頼したものと考えられる。もちろん、漱石が漢詩をよくする人物であることを知ってのことである。
 さらに、片嶺芝園は、明治三十年二月十日刊の「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄に「随蒐録」そのものを転載し、「随蒐録 第五」として、この「丙申五月」の漢詩を掲載している。
 従って、「丙申五月」の漢詩の初出は「九州教育雑誌」〔文藻〕欄ということになる。ただ、片嶺芝園は、「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄に「随蒐録」を設け、計6回掲載しているので、「随蒐録」は「龍南会雑誌」〔文苑〕欄が主であって、何らかの関係で、「丙申五月」の漢詩を含む「随蒐錄」を「九州教育雑誌」に先行発表したのであろう。
 「龍南会雑誌」の〔文苑〕欄掲載の「古別離」「雑興」は五高の同僚で漢詩人の長尾雨山が添削していることから、片嶺芝園は、「九州教育雑誌」や「龍南会雑誌」の掲載を斡旋する役割であったものと考える。

 三 『漱石全集』の「丙申五月」の漢詩

 『漱石全集』の「丙申五月」の漢詩は、初出は「九州教育雑誌」六百七十号(九州教育雑誌社・明治三十年一月三十日刊)で、後に「龍南会雑誌」(第五高等学校校友会誌・明治三十三年二月十八日発行)の「文苑」に転載されたものである。
なお、詳細な論考は拙論文(『方位』第二十七号、2009年11月刊)参照。
              (ながた みつのり/熊本近代文学研究会会員)

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