聖徳太子の時代に仏教とともに日本に流入した漢字は、その出自から原始的な象形文字として言語学者の間では、漢字を捨ててフランス語を使おうとか、英語一本にしようとかが、かなりの長い間議論されている。確かに漢語には音読みしか存在しないが、頭のいい日本人はこの原始的な漢字の読みに二通りの使い分けを発明した。つまり音読みと訓読みだ。これで書く上での日本語は世界でも指折りの豊かな表現方法を生み出した。
それまでの日本はシナの文化の一部を取り入れ、孔子や孟子の教えを重用した。これらの教えはただ建前だけの理想論でしかないのに、真面目な日本人はシナの社会が一体どのようなものだかは知る由もなく、儒教的な教えを盲信した。
江戸時代には、漢詩は教養人必須の学問の一つとして広く学ばれていた。新撰組の近藤勇までも立派な漢詩を残している。
飛鳥時代に朝鮮半島の白村江において倭国・百済の連合軍と、唐・新羅連合軍との間での戦い以来、唐との関係を断絶して以来1300年間も国交が絶えていたシナの漢文に対して、多くの日本人が出鱈目で破廉恥なシナ社会は全く知らずに、教養として身に着けた漢文への憧憬から、シナへの親しみを感じる事が続いている。
明治になってからも、教養としての漢文は引き続き日本の教養人を引きつけていた。西郷隆盛などはその典型だろう。シナ人の知り合いはおろかシナへ行ったこともないのに、シナとは仲良くせなばってん、と行く先々でご託宣を述べ歩いた。現代になっても"教養としての漢文"は学校教育にも残滓し、それにより沖縄の左翼たちはシナへの妄想を膨らまし日本の道を誤らせる。
朝日を始め日本のマスコミの多くが、漢文からイメージする雄大でおおらかな、現実とは正反対のシナ大陸への幻想を抱き続けている。これは現実に交流しない期間が長く、しかも"教養としての"感が色濃く残っている日本独特の昇華された日本国内だけでの発達を遂げさせてしまった日本的漢詩の、功罪のせいではないだろうか。
自虐史観を払拭しよう