今日の朝日新聞の天声人語に目が。
文頭には、腎臓移植を受けた女児の母が
提供者へ送った言葉として
「命を確かに引き継ぎました。お陰で娘は元気に小学校へ通っています」
最後には、ドイツに渡り心臓移植を待つも残念ながら
臓器を提供する身となった少年の親が、
提供を受けた患者さんへの言葉として
「誰に何の遠慮もなく、すくすくと成長してほしい」
とありました。
この誰に何の遠慮もなく”という言葉に、私は惹かれました。
その通りだと思ったのです。
ドナーから提供を受けても、
患者は、誰に何の遠慮することなく普通に生きてほしい。
今の社会って、
移植を受けた患者や家族へ
「ドナーに提供してもらったことに感謝せよ!」
という無言のプレッシャーを、
掛けている雰囲気がありませんか?
移植したとき、
患者や家族はドナーに感謝しないわけがないのです。
それで十分じゃないですか。
その後は、誰に何の気兼ねなく、その人の人生として歩んでいただければ、
それでいいじゃないですか。
あえて周囲が思い出させる機会を作ることはないでしょう。
提供を受けたことを、忘れるほど元気になることはいいことじゃないかと思います。
黙って見守っているのが、周囲の支援ではないでしょうか。
文頭には、腎臓移植を受けた女児の母が
提供者へ送った言葉として
「命を確かに引き継ぎました。お陰で娘は元気に小学校へ通っています」
最後には、ドイツに渡り心臓移植を待つも残念ながら
臓器を提供する身となった少年の親が、
提供を受けた患者さんへの言葉として
「誰に何の遠慮もなく、すくすくと成長してほしい」
とありました。
この誰に何の遠慮もなく”という言葉に、私は惹かれました。
その通りだと思ったのです。
ドナーから提供を受けても、
患者は、誰に何の遠慮することなく普通に生きてほしい。
今の社会って、
移植を受けた患者や家族へ
「ドナーに提供してもらったことに感謝せよ!」
という無言のプレッシャーを、
掛けている雰囲気がありませんか?
移植したとき、
患者や家族はドナーに感謝しないわけがないのです。
それで十分じゃないですか。
その後は、誰に何の気兼ねなく、その人の人生として歩んでいただければ、
それでいいじゃないですか。
あえて周囲が思い出させる機会を作ることはないでしょう。
提供を受けたことを、忘れるほど元気になることはいいことじゃないかと思います。
黙って見守っているのが、周囲の支援ではないでしょうか。
脳死下での臓器移植ドナーの家族のひとりです。
私自身も、レシピエントの方には出来るだけ気負うことなく、ただただ健やかに(…と意識することもなく)生活して頂ければなあ、と願っております。
当事者のほうがわりとあっさりとしていて、周囲のほうが盛り上がる、というのは、この問題に限らず、世の常かもしれませんね…(^_^;)
ブログを拝見させていただきました。
共感するところがたくさんあって、(表現が変かもしれませんが)、なんとなく嬉しかったです。
>当事者のほうがわりとあっさりとしていて、
>周囲のほうが盛り上がる、というのは、
>この問題に限らず、世の常かもしれませんね…
そうですね。盛り上げたいのかもしれませんが、周囲がそう意図すればするほど違和感が深まるような気がします。
誰かのために役立ちたいなと思う人がいて、
それを繋ぐ役目の方がいて、
いろんな想いがあって、
それぞれの人生がある。
最近、ドナーとレシピエントの手紙についても、思うことがあります。
これも、時間とともに考えが変わって来ているのですが…