ひとり井戸端会議

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イラク派遣違憲「判断」について その2

2008年04月19日 | 憲法9条
 今回の判決はなかなか尾を引きそうなので、負の連鎖を断ち切るためにも、引き続き名古屋高裁自衛隊イラク派遣違憲「判断」判決を検証していきたい。



 今回の判決の問題点は「蛇足」で傍論ならぬ「暴論」を述べたことにとどまらず、立憲国家の大原則である権力分立に反するものである点も重大な問題である。今までの判例の流れからして、今回の判決には「統治行為論」で臨むべきであった。

 「統治行為論」とは、「法律上の争訟」として裁判所による司法判断は可能であるが、その対象が「直接国家統治の基本に関わる高度に政治性のある国家行為」は、その事柄の性質上、司法審査の対象とはせず、政治の決定を優先させる、というものである。

 その理由は、裁判官は国民の選挙によって選出された者ではないので、政治的な問題について責任を負うことがないので、裁判官に高度な政治的判断を許すことは、権力を三権に分立させた憲法の要請に反し、そして政治的な問題の決定は、終局的には国民が選挙権を行使して決定するのが民主的であるからである。よって、高度に政治性を有する問題は、裁判所は権力分立を尊重するために、その判断を自制することが求められるのである。



 統治行為論は苫米地事件最高裁判決において、「直接国家統治の基本に関する高度に政治性のある国家行為のごときはたとえそれが法律上の争訟となり、これに対する有効無効の判断が法律上可能である場合であっても、かかる国家行為は裁判所の審査権の外にあり、その判断は主権者たる国民に対して政治的責任を負うところの政府、国会等の政治部門の判断に委され、最終的には国民の政治判断に委ねられているもの」であるとし、統治行為の成立を認めている。

 そして、明確に統治行為が肯定できるものとして、戦争状態の認定や自衛の用件の認定など国家の外交的・対外的行為が挙げられる。これに関する判例として、砂川事件最高裁判決では、日米安保条約について司法審査権は及ばないと判示している。



 以上の理解を踏まえて今回の判決を検討すると、やはり今回の判決には違和感を感じてしまう。

 まず、ここで裁判所が自衛隊のイラクの首都バグダッドへの派遣を違憲と「判断」しても、その判断がたとえ誤っていたとしてもそう判示した裁判官は何ら責任を追及されることはない。しかし、これが政治家の判断だったらどうだろう。場合によってはその政治家の政治生命にすら関わってくる重大事である。

 仮に、今回の判決を受けて政府が自衛隊を撤退させたことにより、日本の国際社会からの評価が下がったら、政治家はその批判の矢面に立たされるが、この判決を作成した裁判官は何のお咎めもない。政治に容喙しておきながら、自身は一切政治上の責任を負わないのだから、これでは「司法」というバリアに守られて、政治活動ができているに等しいことになり、司法の中立性を損ね、ひいては司法への国民の信頼も失墜させることになってしまうのではないか。

 やはり、安全保障という高度に政治的な判断が求められる問題には、「どうしても」というとき以外、司法審査という伝家の宝刀は抜かず、その判断は三権分立を尊重し、政治部門の判断に委ねるのが、民主主義国家における司法のあるべき姿ではないだろうか。



 よって、自衛隊のイラク派遣の当否という高度な政治性を帯びる問題は、政治的責任を負わない裁判所が最終的な判断をするのではなく、国会や内閣に委ねるべきであるので、今回の判決には統治行為論を用いるのが適切であったと思われるのである。

 この意味でも、高度な政治性を有する自衛隊のイラク派遣について、国側の上告を封じるかたちで国側を勝訴させておきながら、その勝訴の原因となった法的事実とは全く関係のないところで「違憲判断」をした今回の判決は、司法の政治への重大な介入であり、国民主権の原理にも背くものである。

 このような司法審査が許されるならば、司法のお墨付きを得て自身のイデオロギーを強化させようとする「政治運動屋」に、司法が利用されることにもなる。これは「画期的な判決」でも「平和を勝ち取った結果」でもなく、司法という国家機関を司法自身が貶めたのである。

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