今回の名古屋高裁判決は、原告らの請求をあくまでも「棄却」しており、その「蛇足」部分で「違憲」と「判断」したのみである。しかも、イラク特措法を「合憲」と解釈した上で、派遣先が「戦闘地域」であって許されない、という判断をしたまでだ。よって、実際は原告らにとって今回の判決は何ら恩恵をもたらすものではない。
本件訴訟が提起されるにあたり、訴訟を「法律上の争訟」とするために原告らが用意した「平和的生存権」も、それに基づく「派遣差し止め請求」も、本件判決においていずれも認められていない。
このことを法律論に基づいて言えば、訴訟を提起するには、訴訟を起こし法律を適用し裁判による判決を得ることによって終局的に原因・問題が解決・除去されるものでなくてはならない。これに該当しないと訴訟は「却下」される。これを「法律上の争訟」と言うのだが、そのためには何か原告にとって「侵害されたもの」がなくてはならない。
しかしながら、常識的に考えれば、イラクへの自衛隊派遣によって原告ら(もっと広く言えば国民)にとって何か不都合が生じたり、問題が起こっていることはない。これはつまり「損害は生じていない」ということになり、訴訟を起こす前提条件である「具体的な権利・利益の損害ないしは損失」は認められないということになる。
とはいえ、政府の政策によって国民が不快感を味わったり、精神的に嫌な思いをすることはある。しかし、それはあくまで個々人の主観的な領域にとどまるのであって、それをもって訴訟を提起できるものではない(内心的感情は法的保護に値しない)。訴訟を起こし裁判所に訴えることによって、終局的な解決が可能な問題のみ、訴訟たりうるのだ。
翻って今回の原告らの主張を見てみると、原告らは「平和的生存権」の侵害があったという。しかし、この権利を容認した裁判例は存在せず、原告らが「平和的生存権」の法的根拠とした憲法前文も、法規範性はあっても、裁判規範性までは認められないというのが、通説・判例である。
この訴訟はそもそもとして、(その意図はともあれ)「平和的生存権の侵害」を主張して起こされたものである。ということは、裁判所は判決の主文で原告らの控訴を棄却し請求を認めないという姿勢をとった以上、訴訟を起こした法的根拠はこの時点で既に瓦解しており、よって主文を導き出すものではない、イラク派遣云々という件を述べる必要は全くないのだ。
したがって、今回の高裁の「蛇足」は百害あって一利なしであり、しかも国側は判決に不服があるにもかかわらず、勝訴しているため控訴できないという、憲法上の「裁判を受ける権利」という視点から見て、これの侵害とも受け取れる判決であって、極めて問題である。
裁判所は「憲法の番人」と言われる。しかし、それならばこのような上告封じとも受け取られかねない姑息な手段でその役割を果たすのではなく、正々堂々と主文に関連する件で述べるのが筋である。
本件訴訟が提起されるにあたり、訴訟を「法律上の争訟」とするために原告らが用意した「平和的生存権」も、それに基づく「派遣差し止め請求」も、本件判決においていずれも認められていない。
このことを法律論に基づいて言えば、訴訟を提起するには、訴訟を起こし法律を適用し裁判による判決を得ることによって終局的に原因・問題が解決・除去されるものでなくてはならない。これに該当しないと訴訟は「却下」される。これを「法律上の争訟」と言うのだが、そのためには何か原告にとって「侵害されたもの」がなくてはならない。
しかしながら、常識的に考えれば、イラクへの自衛隊派遣によって原告ら(もっと広く言えば国民)にとって何か不都合が生じたり、問題が起こっていることはない。これはつまり「損害は生じていない」ということになり、訴訟を起こす前提条件である「具体的な権利・利益の損害ないしは損失」は認められないということになる。
とはいえ、政府の政策によって国民が不快感を味わったり、精神的に嫌な思いをすることはある。しかし、それはあくまで個々人の主観的な領域にとどまるのであって、それをもって訴訟を提起できるものではない(内心的感情は法的保護に値しない)。訴訟を起こし裁判所に訴えることによって、終局的な解決が可能な問題のみ、訴訟たりうるのだ。
翻って今回の原告らの主張を見てみると、原告らは「平和的生存権」の侵害があったという。しかし、この権利を容認した裁判例は存在せず、原告らが「平和的生存権」の法的根拠とした憲法前文も、法規範性はあっても、裁判規範性までは認められないというのが、通説・判例である。
この訴訟はそもそもとして、(その意図はともあれ)「平和的生存権の侵害」を主張して起こされたものである。ということは、裁判所は判決の主文で原告らの控訴を棄却し請求を認めないという姿勢をとった以上、訴訟を起こした法的根拠はこの時点で既に瓦解しており、よって主文を導き出すものではない、イラク派遣云々という件を述べる必要は全くないのだ。
したがって、今回の高裁の「蛇足」は百害あって一利なしであり、しかも国側は判決に不服があるにもかかわらず、勝訴しているため控訴できないという、憲法上の「裁判を受ける権利」という視点から見て、これの侵害とも受け取れる判決であって、極めて問題である。
裁判所は「憲法の番人」と言われる。しかし、それならばこのような上告封じとも受け取られかねない姑息な手段でその役割を果たすのではなく、正々堂々と主文に関連する件で述べるのが筋である。
今回の判決もそうですが、靖国参拝訴訟における「宗教的人格権」など、最近の「サヨク」は、訴訟を起こすためにあれこれと憲法をかき回し、○○権という権利をひねり出して、それが侵害されたと騒ぎ、訴訟を起こしているように思えます。
本来ならば、自衛隊の指揮監督権は行政(内閣)にあり、裁判所は自衛隊の展開の仕方という、高度に政治的な行為には口を挟まないという「統治行為」の理論というのがあり、判例もほぼこれを認めているとされているのです。
この意味で今回の裁判官は三権分立の観点から、これを侵害した越権を犯したとも言えます。