ご無沙汰しておりました。ここ最近、私用に忙殺されていたためブログの更新が滞っていました。また私の拙い記事にコメントを下さった方々にもご返信ができない状態となっていたことをお詫びいたします。近日中にご返信させていただく所存でありますので、今しばらくお待ちいただきたいと思います。申し訳ございません。
さて、ここ最近の政治・社会にまつわる出来事を眺めていて、自分なりに気になったものをいくつか取り上げ、少しばかり私見を述べさせていただきます。
福田首相の靖国神社不参拝。
もう半月近く前になるが、ご存知のとおり福田首相は予め明言はしていたものの、やはり終戦記念日に靖国神社に参拝しなかった。首相をはじめとした閣僚の靖国神社参拝に全面的に賛成はするが、行く行かないはさすがに本人の自由意思に委ねるべきだと考えるので、彼の不参拝を批判するつもりはない。
そもそも、英霊に敬意と感謝を表するつもりのない者をいやいやながら連れ出し、参拝させるというのは、靖国を想う者であるならば、それは英霊方や遺族の方々に失礼であると思わなければならないはずである。よってこの二つが、彼の靖国神社不参拝を(残念とは思うものの)批判することはしない理由である。
しかしながら、靖国神社に参拝をしないならば、せめて未だに遺族の下へ還らぬ、アジア各地に眠る多くの旧日本兵の遺骨や遺品の回収作業に精を出すべきではないだろうか。このような作業を遺族の方々がやっていても、そこには自ずから限界があるのであり、政府が先陣を切ってやらなければ、いつまで経っても残された遺族の方々の「戦争」は終わらないし、それこそ戦没者の冥福を祈る土壌が整わないと思う。政府が国民を戦場に駆り出した以上、(言い方は悪いが)その後始末も責任をもって行うべきだ。
これはここ最近のものではなく、大分前(昨年12月)のものであるが、「R25」という雑誌に「ところで「保守主義」ってどんな主義なの?」という記事が掲載されていたのだが、これがあまりにもお粗末であるということを、今後の保守のためにも指摘しておきたい。
この記事でインタビューを受けている中岡望氏に「保守」の定義とやらをじっくり訊いてみたいとは思うが、限られた時間と紙面の中でこれほどのものを説明せよと言われたのだから、氏の説明が大味になってしまっているのは致し方ないとしても、いささか酷いものがある。
まず、氏は保守主義者は「伝統と社会秩序を重んじ、緩やかな社会変革を主張しています」と言う。これはこれで保守の説明としては決して間違ってはいない。保守主義の祖とされるエドマンド・バークも、その主著『フランス革命の省察』のなかで、保守は革命(revolution)は断固として否定するが、改革(evolution)は必要であると述べていることからしても、これは頷けるものである。
ではこれのどこが問題かと言うと、このような考え方はハイエクも共有している、ということである。確かに氏はハイエクを「保守主義者」というカテゴリーに分類はしているが、実はそのハイエク自身が「なぜ私は保守主義者ではないか」という論文を1960年に執筆しており、その中で自身が保守と看做されることに関して異議を唱えている。おそらく氏がハイエクを保守主義者と看做した(勘違いした)のは、保守党のマーガレット・サッチャーがハイエクを信奉していたからであろう。
もし氏の理論を当て嵌めて保守を定義するならば、昔のイギリスのホイッグ党(現イギリスの自由党)も保守政党ということになってしまう(バークは下院議員当選前にホイッグ党左派のロッキンガム伯爵の秘書になっているのだが)。保守とは本来、自由を擁護するものなのである。だからこそバークはアメリカの独立運動を支持したし、ハイエクも自身をさきの論文の中で「古きホイッグ」と位置づけているのだ。
それから、「保守思想の一部であるナショナリズム」という表現があるが、ナショナリズムは保守だけでなく、同時にリベラルの一部でもあると思うのだが。ナショナリズムは保守ないしは右翼だけの専売特許ではなく、リベラルや左翼にも存在している。このことは韓国のノムヒョン前政権や、ベネズエラのチャベス政権等を見れば分かりそうなものだ。
さきの議論を踏まえて現在の日本の「保守」を考えてみると、それが本来の「保守」とはかけ離れた、日本独自のものであるということが分かる。まず、保守を自称するならば、徒に過去のものだからといって「保守」してはいけないはずだ。しかしながら、日本の保守には「変えるべきもの」と「保守すべきもの」の分別がきちんとついているのかと思う場合が(挙げることは避けるが)多々ある。
次に、日本の保守は多分にセンチメンタリズムの要素が強く、懐古趣味的な傾向が強いことも特徴として挙げられるだろう。これでは保守主義ではなく、ただのロマン主義である。確かに、今の日本は昔(それがどのくらい昔なのかは一概には言えない)の日本に学ぶべき面もあるだろうが、昔の日本だって負の側面はあるし、それを他山の石としなければならない面もある。何でもかんでも昔の日本のようにすれば、現在の日本が抱えている問題が解決できるというものではないだろう。そこは絶対に守るべき一線のはずである。これができないと、徒に戦前の日本を美化してしまうために、客観的に歴史を見ることができない。
保守であるがゆえに昔の日本を善く見たいとするあまり、懐古趣味的なロマン主義に走る傾向があるのは理解できるが、日本の保守は、本来の保守の妨げとなる懐古趣味と決別をしなければならない。
以上が、最近私が思っていたこと(の一部)です。
さて、ここ最近の政治・社会にまつわる出来事を眺めていて、自分なりに気になったものをいくつか取り上げ、少しばかり私見を述べさせていただきます。
福田首相の靖国神社不参拝。
もう半月近く前になるが、ご存知のとおり福田首相は予め明言はしていたものの、やはり終戦記念日に靖国神社に参拝しなかった。首相をはじめとした閣僚の靖国神社参拝に全面的に賛成はするが、行く行かないはさすがに本人の自由意思に委ねるべきだと考えるので、彼の不参拝を批判するつもりはない。
そもそも、英霊に敬意と感謝を表するつもりのない者をいやいやながら連れ出し、参拝させるというのは、靖国を想う者であるならば、それは英霊方や遺族の方々に失礼であると思わなければならないはずである。よってこの二つが、彼の靖国神社不参拝を(残念とは思うものの)批判することはしない理由である。
しかしながら、靖国神社に参拝をしないならば、せめて未だに遺族の下へ還らぬ、アジア各地に眠る多くの旧日本兵の遺骨や遺品の回収作業に精を出すべきではないだろうか。このような作業を遺族の方々がやっていても、そこには自ずから限界があるのであり、政府が先陣を切ってやらなければ、いつまで経っても残された遺族の方々の「戦争」は終わらないし、それこそ戦没者の冥福を祈る土壌が整わないと思う。政府が国民を戦場に駆り出した以上、(言い方は悪いが)その後始末も責任をもって行うべきだ。
これはここ最近のものではなく、大分前(昨年12月)のものであるが、「R25」という雑誌に「ところで「保守主義」ってどんな主義なの?」という記事が掲載されていたのだが、これがあまりにもお粗末であるということを、今後の保守のためにも指摘しておきたい。
この記事でインタビューを受けている中岡望氏に「保守」の定義とやらをじっくり訊いてみたいとは思うが、限られた時間と紙面の中でこれほどのものを説明せよと言われたのだから、氏の説明が大味になってしまっているのは致し方ないとしても、いささか酷いものがある。
まず、氏は保守主義者は「伝統と社会秩序を重んじ、緩やかな社会変革を主張しています」と言う。これはこれで保守の説明としては決して間違ってはいない。保守主義の祖とされるエドマンド・バークも、その主著『フランス革命の省察』のなかで、保守は革命(revolution)は断固として否定するが、改革(evolution)は必要であると述べていることからしても、これは頷けるものである。
ではこれのどこが問題かと言うと、このような考え方はハイエクも共有している、ということである。確かに氏はハイエクを「保守主義者」というカテゴリーに分類はしているが、実はそのハイエク自身が「なぜ私は保守主義者ではないか」という論文を1960年に執筆しており、その中で自身が保守と看做されることに関して異議を唱えている。おそらく氏がハイエクを保守主義者と看做した(勘違いした)のは、保守党のマーガレット・サッチャーがハイエクを信奉していたからであろう。
もし氏の理論を当て嵌めて保守を定義するならば、昔のイギリスのホイッグ党(現イギリスの自由党)も保守政党ということになってしまう(バークは下院議員当選前にホイッグ党左派のロッキンガム伯爵の秘書になっているのだが)。保守とは本来、自由を擁護するものなのである。だからこそバークはアメリカの独立運動を支持したし、ハイエクも自身をさきの論文の中で「古きホイッグ」と位置づけているのだ。
それから、「保守思想の一部であるナショナリズム」という表現があるが、ナショナリズムは保守だけでなく、同時にリベラルの一部でもあると思うのだが。ナショナリズムは保守ないしは右翼だけの専売特許ではなく、リベラルや左翼にも存在している。このことは韓国のノムヒョン前政権や、ベネズエラのチャベス政権等を見れば分かりそうなものだ。
さきの議論を踏まえて現在の日本の「保守」を考えてみると、それが本来の「保守」とはかけ離れた、日本独自のものであるということが分かる。まず、保守を自称するならば、徒に過去のものだからといって「保守」してはいけないはずだ。しかしながら、日本の保守には「変えるべきもの」と「保守すべきもの」の分別がきちんとついているのかと思う場合が(挙げることは避けるが)多々ある。
次に、日本の保守は多分にセンチメンタリズムの要素が強く、懐古趣味的な傾向が強いことも特徴として挙げられるだろう。これでは保守主義ではなく、ただのロマン主義である。確かに、今の日本は昔(それがどのくらい昔なのかは一概には言えない)の日本に学ぶべき面もあるだろうが、昔の日本だって負の側面はあるし、それを他山の石としなければならない面もある。何でもかんでも昔の日本のようにすれば、現在の日本が抱えている問題が解決できるというものではないだろう。そこは絶対に守るべき一線のはずである。これができないと、徒に戦前の日本を美化してしまうために、客観的に歴史を見ることができない。
保守であるがゆえに昔の日本を善く見たいとするあまり、懐古趣味的なロマン主義に走る傾向があるのは理解できるが、日本の保守は、本来の保守の妨げとなる懐古趣味と決別をしなければならない。
以上が、最近私が思っていたこと(の一部)です。