空幕長更迭 侵略が「ぬれぎぬ」とは(北海道新聞社説一部抜粋)
とんでもない航空自衛隊のトップがいたものだ。
「日本が侵略国家だったというのはぬれぎぬだ」。防衛省の田母神(たもがみ)俊雄航空幕僚長が民間企業の懸賞論文で、こんな自説を明らかにした。
植民地支配の歴史を正当化する、驚くべき内容だ。
浜田靖一防衛相はただちに更迭した。当然である。しかし、やめさせれば済むという問題ではない。
麻生太郎首相も引き継ぐ考えを明言している政府見解を、真っ向から否定する内容だ。政治的中立を求められる空自の指揮官として常軌を逸したことである。
文民統制(シビリアンコントロール)の観点からゆるがせにできないのは、空幕長が集団的自衛権の行使にも言及していることだ。
これは集団的自衛権の行使は許されないという政府の憲法解釈に対し、制服組の責任者の一人が正面から異議を唱えたものと言える。
さらに攻撃的兵器の保有も認められるべきだとの立場も表明している。到底見過ごすわけにはいかない。
首相は「立場が立場だから適切でない」と述べ、防衛相も同様の認識を示した。
問題は、このような考えを持つ人物をこれまで重要ポストに据えておいたことだ。
田母神俊雄航空幕僚長(以下、「幕僚長」と言う)の今回の件に関し政府が、大東亜戦争に関する政府の公式見解であるいわゆゆる「村山談話」に反するとして幕僚長を更迭したことについては、その処分は容認できるものである。しかし、サヨクマスコミがイデオロギー的な理由から幕僚長の処分を当然視するのであれば、これを厳しく批判をしなければならない。
というのは、サヨクマスコミはこれまで学校の式典における国旗掲揚・国歌斉唱についての政府の方針を厳しく批判し、不起立等を行った教員らに対する処分を、「思想・良心の侵害」だとし、これも厳しく批判してきたからである。ならば、どうして今回の幕僚長の処分には「思想・良心の侵害である」として、激しい批判を向けなかったのか。
今回の幕僚長処分こそ彼らサヨクマスコミからすれば、特定個人に対する「思想弾圧」ではないのか。更迭された幕僚長も、国旗・国歌に反発し処分された教員も同じはずである。それなのに、どうして前者への政府による思想弾圧は許されて(北海道新聞は「当然」とまで言っている)、後者への思想弾圧は許されないのか。しかも後者の場合、法的拘束力を持った学習指導要領によって定められているにもかかわらず、これに反して処分されたのでありながら。
それでは、何故このような著しい矛盾をサヨクマスコミは内包しているのであろうか。これは思うに、彼らはまず当該出来事が、自分たちのイデオロギーに照らして是認できるか否かというフィルターを通してその出来事の当否を判断しているからなのであろう。だから、幕僚長の処分は当然で、サヨク教師の処分は不当となる。つまり、彼らにとって判断が矛盾していようが「そんなの関係ねぇ」のである(cf.サヨクマスコミが批判した幕僚長の自衛隊イラク派遣違憲判断への発言参照。笑)。
次に、北海道新聞は幕僚長が集団的自衛権の見直し等に言及したことに触れ、これを「文民統制(シビリアンコントロール)の観点から」許されるものではない、と批判しているが、これは文民統制を理解できていないのであろう。そもそも文民統制とは、軍事権を議会に責任を負う文民たる大臣がコントロール(支配)し、軍の独走を防ぐという原則である(芦部信喜『憲法』(岩波書店)参照)。制服組が安全保障に関する分野において一切口を挟んではならない、というものではない。北海道新聞のように文民統制の原則を徒に拡大し、現場の者の意見を一切排除する規定だと理解することは、かえってわが国の安全を脅かすものである。
そもそも、ここでも北海道新聞は矛盾を来たしている。それは、上記のような文民統制についての理解を示しておきながら、国旗・国歌の件で処分された教員は擁護するということである。学習指導要領に法的な拘束力があるにもかかわらず、これに反して処分された教員を擁護するのであれば、同じように幕僚長への処分にも異議を唱え、このような文民統制の理解を断固として退けなければならないはずだ(なぜならば、このような文民統制の理解では、公務員たる自衛隊員の「思想・良心の自由」が侵害されるからだ)。
彼らが本当に「思想・良心の自由」を重んじ、これを尊重する姿勢を示したいのならば、今回の一件においても、同じように幕僚長処分を批判し、政府の処分に賛同してはならないはずだ。思想・良心には、世界観・人生観・主義・主張などの個人の人格的な内面的精神作用も含むとされている(信条説)のであれば、なおのことである。
そして、思想・良心の自由は言論の自由と密接に関係する概念であるというのは周知であるが、そうであるならば、サヨクマスコミは幕僚長が論文提出の際に怠った「論文発表について事前の届け出」という制度を批判するのが、彼らの本来あるべき姿なのではないだろうか。この制度に疑問すら持たず、ただ自分たちのイデオロギーに照らして是認できないからということだけで頭ごなしに幕僚長を批判するとなれば、それは自分たちの首も絞めることになるということを自覚したほうがいい。
なお、個人的には幕僚長の論文は評価したい(幕僚長の論文はこちら)。一応述べておくが、幕僚長の論文を評価することと、幕僚長の処分に賛成することは矛盾しない。なぜならば、幕僚長が論文提出には事前の届出が必要との定めに反し、届出をせず論文を提出したことは十分に処分の要件を満たしていると思われるし、これは学習指導要領の規定等に反した教員を処分したことと矛盾しているものではないからでもある。
つまり、両者とも公務員であるにもかかわらず定められた規定に反したのだから処分されたのであり、幕僚長の処分を当然視するのならば、学校の式典において国旗・国歌の指導要領に従わなかった教師を処分したことも当然視しなければ、それは矛盾した判断をしたことになる。
とんでもない航空自衛隊のトップがいたものだ。
「日本が侵略国家だったというのはぬれぎぬだ」。防衛省の田母神(たもがみ)俊雄航空幕僚長が民間企業の懸賞論文で、こんな自説を明らかにした。
植民地支配の歴史を正当化する、驚くべき内容だ。
浜田靖一防衛相はただちに更迭した。当然である。しかし、やめさせれば済むという問題ではない。
麻生太郎首相も引き継ぐ考えを明言している政府見解を、真っ向から否定する内容だ。政治的中立を求められる空自の指揮官として常軌を逸したことである。
文民統制(シビリアンコントロール)の観点からゆるがせにできないのは、空幕長が集団的自衛権の行使にも言及していることだ。
これは集団的自衛権の行使は許されないという政府の憲法解釈に対し、制服組の責任者の一人が正面から異議を唱えたものと言える。
さらに攻撃的兵器の保有も認められるべきだとの立場も表明している。到底見過ごすわけにはいかない。
首相は「立場が立場だから適切でない」と述べ、防衛相も同様の認識を示した。
問題は、このような考えを持つ人物をこれまで重要ポストに据えておいたことだ。
田母神俊雄航空幕僚長(以下、「幕僚長」と言う)の今回の件に関し政府が、大東亜戦争に関する政府の公式見解であるいわゆゆる「村山談話」に反するとして幕僚長を更迭したことについては、その処分は容認できるものである。しかし、サヨクマスコミがイデオロギー的な理由から幕僚長の処分を当然視するのであれば、これを厳しく批判をしなければならない。
というのは、サヨクマスコミはこれまで学校の式典における国旗掲揚・国歌斉唱についての政府の方針を厳しく批判し、不起立等を行った教員らに対する処分を、「思想・良心の侵害」だとし、これも厳しく批判してきたからである。ならば、どうして今回の幕僚長の処分には「思想・良心の侵害である」として、激しい批判を向けなかったのか。
今回の幕僚長処分こそ彼らサヨクマスコミからすれば、特定個人に対する「思想弾圧」ではないのか。更迭された幕僚長も、国旗・国歌に反発し処分された教員も同じはずである。それなのに、どうして前者への政府による思想弾圧は許されて(北海道新聞は「当然」とまで言っている)、後者への思想弾圧は許されないのか。しかも後者の場合、法的拘束力を持った学習指導要領によって定められているにもかかわらず、これに反して処分されたのでありながら。
それでは、何故このような著しい矛盾をサヨクマスコミは内包しているのであろうか。これは思うに、彼らはまず当該出来事が、自分たちのイデオロギーに照らして是認できるか否かというフィルターを通してその出来事の当否を判断しているからなのであろう。だから、幕僚長の処分は当然で、サヨク教師の処分は不当となる。つまり、彼らにとって判断が矛盾していようが「そんなの関係ねぇ」のである(cf.サヨクマスコミが批判した幕僚長の自衛隊イラク派遣違憲判断への発言参照。笑)。
次に、北海道新聞は幕僚長が集団的自衛権の見直し等に言及したことに触れ、これを「文民統制(シビリアンコントロール)の観点から」許されるものではない、と批判しているが、これは文民統制を理解できていないのであろう。そもそも文民統制とは、軍事権を議会に責任を負う文民たる大臣がコントロール(支配)し、軍の独走を防ぐという原則である(芦部信喜『憲法』(岩波書店)参照)。制服組が安全保障に関する分野において一切口を挟んではならない、というものではない。北海道新聞のように文民統制の原則を徒に拡大し、現場の者の意見を一切排除する規定だと理解することは、かえってわが国の安全を脅かすものである。
そもそも、ここでも北海道新聞は矛盾を来たしている。それは、上記のような文民統制についての理解を示しておきながら、国旗・国歌の件で処分された教員は擁護するということである。学習指導要領に法的な拘束力があるにもかかわらず、これに反して処分された教員を擁護するのであれば、同じように幕僚長への処分にも異議を唱え、このような文民統制の理解を断固として退けなければならないはずだ(なぜならば、このような文民統制の理解では、公務員たる自衛隊員の「思想・良心の自由」が侵害されるからだ)。
彼らが本当に「思想・良心の自由」を重んじ、これを尊重する姿勢を示したいのならば、今回の一件においても、同じように幕僚長処分を批判し、政府の処分に賛同してはならないはずだ。思想・良心には、世界観・人生観・主義・主張などの個人の人格的な内面的精神作用も含むとされている(信条説)のであれば、なおのことである。
そして、思想・良心の自由は言論の自由と密接に関係する概念であるというのは周知であるが、そうであるならば、サヨクマスコミは幕僚長が論文提出の際に怠った「論文発表について事前の届け出」という制度を批判するのが、彼らの本来あるべき姿なのではないだろうか。この制度に疑問すら持たず、ただ自分たちのイデオロギーに照らして是認できないからということだけで頭ごなしに幕僚長を批判するとなれば、それは自分たちの首も絞めることになるということを自覚したほうがいい。
なお、個人的には幕僚長の論文は評価したい(幕僚長の論文はこちら)。一応述べておくが、幕僚長の論文を評価することと、幕僚長の処分に賛成することは矛盾しない。なぜならば、幕僚長が論文提出には事前の届出が必要との定めに反し、届出をせず論文を提出したことは十分に処分の要件を満たしていると思われるし、これは学習指導要領の規定等に反した教員を処分したことと矛盾しているものではないからでもある。
つまり、両者とも公務員であるにもかかわらず定められた規定に反したのだから処分されたのであり、幕僚長の処分を当然視するのならば、学校の式典において国旗・国歌の指導要領に従わなかった教師を処分したことも当然視しなければ、それは矛盾した判断をしたことになる。