ひとり井戸端会議

主に政治・社会・法に関する話題を自分の視点から考察していきます。

「国家あっての人権」を理解できないのか

2009年03月30日 | 憲法9条
対ミサイル誘導弾、首都圏で展開開始 反対運動も(朝日新聞)

 首都圏でPAC3が展開するのは、空自市ケ谷基地(東京都)と陸上自衛隊朝霞駐屯地(同)、同習志野演習場(千葉県)。
 入間基地からは午後8時過ぎ、レーダー装置や発射機を積んだ深緑色の大型車両、電源車、燃料タンク車、「危」マークが入った小型車など約30台の車列が出た。基地内の道路脇では約50人の隊員らが並び、敬礼で見送る中、関越道で東京方面に向かった。
 習志野演習場には、市民団体「パトリオットミサイルはいらない!習志野基地行動実行委員会」のメンバーが駆けつけた。吉沢弘志代表は「今後、防衛省などに抗議していきたい」と話した。



 まぁ、こういう「市民団体(いや、「人民団体」か」)が出てくるであろうことは最初から想像はついていたので別にこれといって驚くことはないが、毎度のことながらお気の毒にと思う。要らないのはパトリオットミサイル(以下、簡単に「パトリ」と表記する。)ではなく、この胡散臭い「市民団体」だろうに。

 かくいう私も一方的に彼らを断罪するつもりはないので(笑)、一応、彼らがどういう理由でパトリに反対しているのか、知れる範囲で調べてみた。そこで彼らが言っていることを要約すると以下のようになる。


1、パトリの配備は自衛隊が米軍の先制攻撃中心の世界戦略に、積極的に組み込まれていく
2、パトリは政府機能や基地機能の中枢を「守る」ために配備されるもので、市民を守らない
3、パトリの配備は先制攻撃をしかければ、当然にも反撃されるので、それを封じ込める体制を作ろうというもの
4、パトリの配備の裏には戦争と戦争国家づくりをする国と自衛隊の思惑がある
5、要するに、パトリの配備は戦争への道


 まず、1についてだが、国際法上自衛のための先制攻撃は完全に違法とは言えない。日本は日米同盟を結んでいる以上、アメリカの軍事戦略に追従するのは仕方ない。しかし日米同盟は憲法9条の制約がある日本において、安全保障の命綱であり、破棄はできない。結局、アメリカ軍の世界戦略に飲み込まれてしまうのは、彼ら市民団体の固守しようとしている憲法9条のせいなのだ。

 そもそも、パトリの配備が1とどう関係しているのか具体的な根拠が一切見つからない。むしろパトリを製造しているアメリカの軍事会社からは、今回迎撃に失敗した場合、MDの見直し論が日本で噴出し、パトリをはじめとした迎撃ミサイルが売れなくなるのではないかという懸念も出ているという。

 2は、今回破片が落下すると予想される岩手県の滝沢村にある陸上自衛隊岩手山演習場に配備されたことから破綻。もっとも、パトリの数には限りがあることからして、優先順位を決めて配備するのは至極当然。そうであれば、国家の機能が集中する箇所に優先的に配備するのは戦略上当たり前。これに対して「市民を守らない」とは言いがかりもいいところだ。

 3は、今回北朝鮮のほうから一方的に外交のカードとしてミサイル発射を計画している以上、日米が北朝鮮に先制攻撃を仕掛ける意図がないどころか、それこそ万一の事態に備えて配備しているだけなので論理破綻。4は論外。5はいつもの妄想なので相手にするだけ時間の無駄。よって、彼らの主張はいつもながらの妄言と、お花畑からこんにちはの発想からきているものなのだ。

 余談だが、こういう「市民団体」にはいかなるグループが関与しているのか調べてみたところ、中核派が関与している「とめよう戦争への道!百万人署名運動 」、反戦自衛官、9条の会、ノーモア南京、日の丸・君が代の強制を考える会、などといった、ああなるほどなと納得のいく結果が出た。つまり、いつもの人たちが、いつもの仲間と一緒に、いつもどおりに、いつものマスコミによって、いつもどおり小規模に取り上げられていたにすぎないということだ。



 こういう騒ぎを起こす分子は、だいたい「人権」というものをすぐに持ち出すのだが、その人権も国家あっての人権であるということが分からないのだろうか。

 彼らは平和的生存権が侵害されたといって裁判所に駆け込む。宗教的人格権が侵害されたといって裁判所に駆け込む。国会の前で「雇用を守れ」と訴える。行政に対し監査請求を起こす。国家に対して人権を確保せよ、人権を守れと言う。

 だが、ただ人権人権と絶叫したところで人権が確保されるのか。されないだろう。その人権を実効性あるものにし、人権の効力を担保しているのがほかならぬ国家ではないのか。つまり、国家がなくなってしまえばお得意の人権論を唱えたところで、それは全くの無力なのだ。力なき正義は無力なのと同じように。平和で秩序ある独立した国家の存在が人権の確保、保障には不可欠なのだ。

 今回のような武力攻撃事態において国家が自己の独立を守り、国民の生命と財産を不正の侵害から保護するために、万一の場合に備えてパトリを配備することは、実は最大の公共の福祉であって、これこそがまさに国家の第一の責務ではあるはずだ。以前、西村真悟氏が言っていたが、国防こそが最大の福祉なのである。国家に危険が生じたら、その国家に所属する国民全員が不幸になるのだから。



 パトリ配備とは、日本が戦争への道を進むための一里塚ではなく、災害に備えて保険に入るのと同じように、いざというときに備えて準備することにすぎない。にもかかわらず、これに反対しようというのは、北朝鮮のスパイかただのお気の毒な人のどちらかであろう。

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