ひとり井戸端会議

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憲法9条に関する政治的規範説の紹介

2007年11月23日 | 憲法9条
 憲法9条の政治的規範説を述べる前に、まずは誰とは言わないが、「9条は非武装の規定」などと流布している輩の主張を退けておきたい。
 憲法9条が非武装中立を意図して作成されたことでないのは、既に多くの研究によって自明のこととなっているが、ここではその決定的な根拠を幾つか挙げておきたい。

 有名な話であるが、現憲法9条作成以前の段階(マッカーサー・ノート)では「自己の安全を保持する手段としてさえ(even for preserving its own security)」戦争を放棄するとなっていたのをケーディス大佐が削除し、マッカーサーの意図した全面的戦争放棄ではなく、部分的戦争放棄条項に修正した経緯からも明らかである。
 後にケーディス氏は上記の条項を削除した理由について、駒澤大学教授の西修氏に「『自己の安全を保持するための手段としての戦争』放棄は、日本が攻撃されても自らを守ることができないことになり、このようなことは現実的ではないと思えた」と言い、「どの国家にも、自己保存の権利がある」とし、更に「日本は、他国の軍隊に上陸された場合、自らを防衛することは当然できるはずです。ただ座して待ったり、侵略者に我が物顔でのし歩かせる必要はない」と、はっきりと語っている。
 つまり、憲法9条の本来の趣旨に従って解釈をすれば、本条は「侵略戦争のみを放棄した」部分的な戦争放棄条項であり、護憲派の言うような「全面的戦争放棄条項」ではなく、ましてや「非武装中立」を唱えたものでもないということは、誰の目からも明らかだろう。ただ、一部の者たちを除いて(苦笑)。

 さて本題に入るが、憲法9条の政治的規範説とは何かであるが、この説によれば本条は、前文で宣言された平和国家の理念を具体的な法規定として体現したものであり、それは「裁判規範」ではなく、「政治的規範」であるとする。そして何故本条を政治的規範としてみるかであるが、その理由は、本条は国土の安全保障という高度の政治性をもつ規定であり、それは直接的に国民の生命や財産の確保に直結するものであるから、国民から選ばれていない裁判官によって判断されるべきではなく、主権者たる国民の判断に委ねるべきであると考えるからである。更に、政治的規範説にたてば、安全保障に関する問題で、裁判所が無用な政治的論争に巻き込まれることを防ぐことができ、ひいては裁判所の中立性も担保できることになる。

 この政治的規範説にたちつつ、上記のケーディス修正等を踏まえて憲法9条を解釈すれば、当然に日本国にも自衛権の行使は許され、日米安全保障条約は憲法違反だというような亡国的な主張も排斥できるというわけだ。しかしながら、ハナッから安全保障に関する事項はすべて統治行為的なものであって違憲審査は及ばないとすると、これもまた問題がありそうだ。

 そこで、今まで日本政府がとりつづけてきた軍事力の「必要最低限」論と、侵略戦争の放棄という原則を踏まえ、9条が政治的規範であっても一定の裁判所による関与という道も開けておく必要があると思われる。すなわち、一見明白に上記の原則に反する行動を政府がとった場合、そこには違憲審査が及ぶと解するべきだろう。しかし、その基準は普遍的にどの時代にも当てはまるものではなく、あくまでもそれが問題となるときの国際情勢、時代背景などの諸要素を考慮して決定するべきだろう。
 憲法が改正されるまでは、このような政治的規範説に依拠しつつ、本条の解釈にあたり厳格な文理解釈に固執するのではなく、柔軟に解釈することによって、政府には安全保障政策において臨機応変に対応できる運営をしていくことが求められる。

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