愛犬くんとのゆったりライフ

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郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

東六郎胤頼さんの末裔伝承(1)

2009年11月08日 | 東胤頼さんの末裔伝承

今回は、母方の祖父の生家と、千葉一族との縁について書こうと思います。

実はこのテーマ、過去に二回ほど投稿したのですが、お袋様の反対にあって、泣く泣く削除しておりました。

三度目にして、お袋様のGOサインが出ましたので、晴れて投稿させていただきます!

さて、母方の祖父の生家は、千葉県山武郡で代々農業を営んでおります。

ご先祖について、こんな伝承があります。

  • ご先祖は、千葉常胤公の六男・東六郎胤頼(東胤頼)さん
  • 室町時代の末期に、一族の内紛に巻き込まれて、山武郡(現在も本家が住んでいる土地)に落ち延びた
  • 周辺の荒れ地を開墾して、帰農した

祖父(95歳)の90歳の誕生祝いの席で、初めてこの話を聞きました。

祖父から「じいちゃんが生きている間に、ご先祖について調べてくれ」と頼まれました。

早速調べてみようと思ったのですが、残念なことに証拠となる資料が残されていません。

なぜか!

婿さんだった祖父の父(曽祖父)が、古文書や古い手紙類を雨に濡らしてダメにしてしまったから…なのです。

土蔵に保管されていたものを虫干ししていたところ、急な雨に降られたそうです。曽祖父の暢気な人柄が裏目に出ました。

祖父は「母親(曾祖母)は悲嘆にくれておったよ」と、申しておりました。

-今から八十年以上前の出来事です。

そうした経緯で「千葉一族」について調べるようになりました。

さて、飼い主は「東六郎胤頼さんの末裔」という線は微妙だなぁ…と感じております。

なぜなら、家紋が千葉一族の代表的な家紋である「月星紋」「九曜紋」ではないからです。

祖父の生家の家紋は「九枚笹」です。

敢えて共通点を挙げるとすれば、「九」でしょうか?

これは、ちょっと微妙だな~と感じています。

(内紛に巻き込まれて落ち延びたくらいなので、元の家紋が使えなかったということも、可能性として「ないこともない」とは思いますが、そういった場合は後に元の家紋に戻すのではないか?と思われます)

姓に関しての言い伝え?もあります。

新しく赴任してきた殿様と同じ姓だったので、恐れ多いため、今の姓に変えた


祖父の姓から想像するに、その殿様は土井利勝さんだと思われます(土井利勝さんは、江戸時代初めに佐倉藩の藩主になりました)

また、姓に関しては、祖父の生家のある町と隣接している成田市の広報誌に、同姓の方が「千葉氏の遺臣の孫」として紹介されていました。

平成18年(2006年)6月15日号

「干ばつから農民を救った350年前の農業用水路」から一部を引用します。

八代では干ばつに苦しむ農民を救うため農業用水路の開削に尽くした人がいました。

千葉氏の遺臣〇〇四郎の孫で八代村の名主・〇〇四郎左衛門です。

その水路は万治二年(1659)3月に完成した万治堀で地元では八代みお(みお=溝)と呼ばれ、その功績を伝える石碑が八代・善勝院の境内に建立されています。

(※姓は「〇〇」とさせていただきました)

同姓の方が「千葉氏の遺臣」となると、祖父の生家も「遺臣」であった可能性がないわけでもないかな…とも思います(なにしろ変わった姓で、県内ではその一帯にしかいないのです。人数も少ないです)

色々と想像してみて、以下のように考えております(暫定的ですが…)

千葉一族や東六郎胤頼さんの子孫の方(或いは地域的に考えて上総一族)に、何らかの形でお仕えしていたのではないか?

伝承の内容から、千葉一族や東胤頼さんに尊敬の念を抱いていたことは確かだと思われるので、「末裔」ということではなくとも「お仕えしていた」と考えるのは、現段階では不自然ではないと思われます。

祖父の頼みで調べ始めたのですが、千葉一族や上総一族の歴史の深さに感動し、魅了されております。

調べていくうちに、ご先祖についても何か分かると良いなぁ…と思っています。

ご興味のある方は、以下のページもご参照ください。

東六郎胤頼さんの末裔伝承(2)

東六郎胤頼さんの末裔伝承(3)


↓愛犬くんにも、何か調べたいことがあるようです!

【追記】2019年4月6日

文章の一部やレイアウトを変更しました。

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