愛犬くんとのゆったりライフ

温厚な愛犬くんとの日常を気ままに綴ります。
郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

東氏と美濃遠藤氏について

2009年11月18日 | 千葉氏について(郷土史)

今回のテーマは「東氏と美濃遠藤氏との関係について」です。

ブログの筆者・飼い主が調べたことを、簡単にレポートいたします。

 

千葉常胤公の六男・東胤頼さんの孫・胤行さんは、承久の乱の功績により美濃国郡上郡山田庄を拝領しました。

胤行さんの子・行氏さんの時代に郡上に移住して「美濃東氏」が誕生します。

以降、東氏は「下総東氏」と「美濃東氏」に分かれます。

 

時代は流れ、東常縁さんが美濃東氏の当主だった頃、下総の千葉宗家に内紛が起き、一族の危機が訪れます(下剋上のはしりと思われます)

その救済のために、東常縁さんは足利義政の命を受けて下総に下向して、一族の再興に尽力しました。

しかし、郡上でも合戦が発生して、東常縁さんは帰郷することになりました。

 

戦国時代に入ると、美濃東氏の勢力は衰退します。

一族であり重臣だった遠藤盛数さんによって当主は追放され、遠藤氏が郡上郡を支配することになります。

遠藤氏は、織田氏や豊臣氏に従い、後に郡上八幡の城主となりました。

初代の郡上八幡城主は、東常縁さんの曽孫・遠藤康隆さんだそうです。

(※啓文社書房「千葉一族入門事典」では、初代の郡上八幡城主は遠藤盛数さんとなっています)

遠藤康隆さんが、有名な「郡上おどり」を始めたそうです。

その遠藤康隆さんの妹が、山内一豊さんの妻・千代さんとのことです。

 

千葉と岐阜との歴史的なつながりを知り、ほぼ同率に両県の血が流れている飼い主は嬉しくなりました!

余談なのですが…作家の米澤穂信さんのミステリー小説が好きです。

特に「古典部シリーズ」のファンです!

米澤さんも岐阜の出身だそうです。

岐阜に親近感を持っている飼い主です

99歳まで生きた、ひょうきんな岐阜の曾祖母のお墓参りに行きたいです。

愛犬くんも一緒に岐阜に行こうね!

【飼い主が勉強した本】

千葉日報社「千葉氏探訪 ~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち~」

啓文社書房「千葉一族入門事典」

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千葉氏一族のゆかりの地 写真集2

2009年11月08日 | 千葉氏について(郷土史)

千葉氏の一族ゆかりの地のご紹介の第二弾です。

 

史跡巡りをしようと地図を広げると、必ず参加?する愛犬くん!

右の前脚で指しているのは「千葉港」辺りでしょうか?

千葉市立郷土博物館です。

駐車場から少し歩いた所から撮影しました。

この建物は「お城をイメージしやすいように」ということで、天守閣を模して建てられたそうです。

実際の猪鼻城は「館」だったので、こういった形状ではなかったそうです。

また、「猪鼻館は要塞として使用していて、普段の生活の拠点は現在の裁判所付近だった」という説もあるそうです。

常胤公の騎馬武者像と千葉市立郷土博物館です。

画像が暗いです。お許しください!

騎馬武者姿の常胤公です!

博物館側から撮影しました。

後ろの高い建物は千葉県庁です。

猪鼻城址の碑です。

碑の脇から撮影しました。

高台にあるので、下は急斜面です。

広場に戻りました。

辺りを一望できます。

木々の間から千葉県庁が見えます。

 

麓からのコースをご紹介します。

(公園内の様子です)

城址までは坂を上ります。

今度は、もっとお天気の良い日に撮影に出掛けようと思います!

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千葉氏の一族ゆかりの地 写真集1

2009年11月08日 | 千葉氏について(郷土史)

今回のテーマは、千葉氏の一族ゆかりの地の写真です。

 

まずは、その昔、千葉氏累代の当主のお墓があったという「千葉山」です。

千葉市稲毛区園生町にあります。

国道16号線から脇道に入ってすぐの所にあります。

「星宮塚」と呼ばれているそうです。

千葉山にあったお墓が移された大日寺(轟町)です。

16基の塔が並んでいます。

どの塔が、どの方のお墓なのかは分からないそうです。

猪鼻城(館)の麓?にある胤重寺です。

県立中央図書館のお隣にあります。

常胤公の三男・武石胤盛さんの嫡男・胤重さんを偲んで建てられた…といわれているそうです。

敷地内では、烏骨鶏さんがお散歩していました。

胤重寺から、千葉市立郷土博物館の天守閣が見えます。

猪鼻城は「館」なので、本来は天守閣はないのですが「イメージしやすいように」ということで天守閣を模して建設されたそうです。

写真の左上に博物館の天守閣が見えています。

右下には胤重寺の屋根瓦が写っています。

大日寺の駐車場を探索する愛犬くん!

次回は、千葉常胤公の本拠地・猪鼻城(館)をご紹介します!

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平良文公と、その子孫(千葉氏)について

2009年11月08日 | 千葉氏について(郷土史)

本日は、平良文公と、その子孫について書こうと思います。


平良文公は、桓武天皇の曾孫・高望王の子です。

兄弟には、平国香・平良兼・平将門の父である平良持(或いは良将?)らがいます。

→承平の乱で有名な平将門は、平良文公の甥です。

平国香の子は、中央政権で活躍した平貞盛です。

※貞盛の子孫は『貞盛流』と呼ばれ、平清盛を始めとする伊勢平氏や北条氏へと続いていきます。

(ただ、平将門の小説(吉川英治など)を読んでも、良文公の名前は出てきません…)

良文公の兄弟(国香・良兼ら)は、将門の父・良持の死後、嫡男の将門が京都にいたため、その領地を侵略します。

その所業に怒った将門が、伯父たちに対して挙兵したのが、世に言う『平将門の乱』の発端だと言われています。

※発端については、良兼の娘(将門の妻?)をめぐる争いだとする説もあるそうです。

説話によると、良文は将門に協力して一緒に戦い、敗走して隠れていた山で敵に襲撃された際に、妙見様に救われたとのことです。

それ以来、良文公は妙見様を信仰するようになったそうです。


良文公は、平将門の乱後に着実に地盤を固めたようで、広大な領地を持つようになりました。

子孫は繁栄し、千葉氏・上総氏・畠山氏・秩父氏・三浦氏・和田氏などに発展していきます。

…ということで、平良文公は、千葉氏の祖・千葉常胤公のご先祖様にあたります。


常胤公は、鎌倉初期の武将(御家人)で、私の好きな人物です!

60歳代初めに、伊豆で挙兵した源頼朝を助けて鎌倉幕府の創成期に重要な役割を果たしました。

高齢にもかかわらず、源平合戦や奥州合戦にも出陣しました。

六人の子息たち(僧兵だった七男の日胤は戦死)は『千葉六党』と呼ばれ、固い結束で動乱の世を渡っていきます。


千葉一族は、妙見(みょうけん)様を信仰しました。

(これは、先祖の平良文公の影響だといわれているようです)

『妙見信仰』とは北極星信仰のことで、ルーツは大陸の遊牧民族だそうです。

千葉氏も馬を大切にする家風で、領内には馬の生息地である牧が沢山ありました。

相馬野馬追いのルーツは、千葉常胤公の次男・相馬師胤(師常)が、常胤の領地である下総の『相馬御厨』を拝領し「相馬氏」の祖となったことだそうです

 


平良文公ゆかりの寺院(樹林寺)が、旧・小見川町(現・香取市)にあります。

(旧・小見川町周辺は、平良文公の領地だったようです)

飼い主も以前、参詣しました。

秋だったのですが、境内には四季桜が可憐に咲いていました。

古刹なので、うっそうとした林などの中にあるのかな…とイメージしていましたが、お手入れの行き届いた雰囲気の良い寺院でした。

周辺は「当時は広大な田園地帯が広がっていたんだろうなぁ…」と思わせる、広々とした土地です。

鎌倉幕府成立後、この一帯は千葉介常胤公の六男・東胤頼氏が治めることになります。

(東胤頼氏や、常胤公の子息たちについては、また後日、書こうと思います)

-以上が、簡単な概略です。


旧・小見川町の樹林寺にも、また行ってみたいと思います。

今回は、千葉一族の祖・平良文公を、お伝えしました。


【飼い主が勉強した本

◎吉川弘文館 福田豊彦 著『千葉常胤』

◎新人物往来社 丸井敬司 著『上総下総 千葉一族』 

◎千葉日報社 『千葉氏探訪~房総を駆け抜けた武士(もののふ)たち~』

本日は、午前中、姪っ子の運動会でした。

愛犬くん。お留守番で少し残念そうです。

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