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愛犬くんとのゆったりライフ

温厚な愛犬くんとの日常を気ままに綴ります。
郷土の武将・武石胤盛さんに関するレポートもございます。

武石胤盛さん(13)「観音菩薩を信仰していたという伝承についての仮説」

2016年05月29日 | 郷土の武将 武石胤盛

今回は、胤盛さんに纏わる伝承のうち「観音菩薩を信仰した」という点について考えてみたいと思います。


本題に入る前に、地名について想像したことを少し書こうと思います。

「神生」の読み方が「かんのう」だと知ったばかりの頃、「かんのう」を漢字変換していたら「観音」が出てきました。

「神生」は、「観音」と何か関係があるのでしょうか?


また、香取市には「観音」という地名があります。

旧・佐原市観音です。こちらも「かんのう」と読むそうです。

同じ地名が近隣にあると紛らわしいので、基本的には同じ地名は名付けない又は変更すると聞いた覚えがあります。

「神生」が本来は「観音」の意味だった可能性もあるのかな?とも思いました。


それでは、今回の本題「観音菩薩を信仰していたという伝承についての仮説」についてです。


千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)によると、次のような伝承があるそうです。

《伝承》『香取郡誌』、『世俗東荘誌』など

胤盛さんは、初めは香取郡神生館(山田町神生)に住んでいて、観音菩薩を信仰したらしい。


そこで、胤盛さんと「観音菩薩」との接点を考えてみました。

千葉氏と上総氏をはじめとする「坂東八平氏」の祖・平良文公ゆかりの「夕顔観音」を祀る樹林寺が香取市五郷内にあります(旧・小見川町五郷内です)

胤盛さんが住んだと伝えられる神生から、直線距離で6キロ前後でしょうか。

胤盛さんが、ご先祖である平良文公が姿を変えたとされる夕顔観音の祀られた樹林時に何度も足を運んでいた

→「観音様を信仰した」となったのかも知れません。

 


<樹林寺について>

千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)によると、次のような伝承があるそうです。

<伝承の内容>

平良文公は亡くなる前に、子息の忠頼さんに「自分に会いたければ、畑に生えている夕顔の実を開けなさい」と遺言したそうです。

忠頼さんは、良文公の塚の近くの畑に大きな夕顔の実があるのを見つけて割ってみました。

すると、見事な観音像が夕顔の中から出てきたそうです。

その観音像は良文公が姿を変えたものだとして祀られることになりました。

そして、樹林寺は「千葉氏の宗廟」だと伝えられるようになりました。


当初、夕顔観音は旧・小見川町千堂ヶ谷のお堂に安置されていたそうです。

子孫の千葉常重公(常胤公の父であり、胤盛さんの祖父)が、現在の地に樹林寺を建立して安置したとのことです。

それ以後、千葉氏歴代の崇敬を集めたそうです。

後に、常胤公の六男(胤盛さんは常胤公の三男)である東六郎胤頼さんが東庄一帯を治めることになります。

その際に、東氏の祈願所としたそうです。


写真は樹林寺です。

先日、神生周辺の探索を行った際に参詣いたしました。

 

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武石胤盛さん(12)「続・神生に住んでいた理由についての仮説」

2016年05月28日 | 郷土の武将 武石胤盛

前回までの仮説を再度ご紹介します。

◎「香取郡神生に住んでいた時期は?」

→最長期間で考えると「生年である久安二年(1146年)~治承四年(1180年)」の間

◎「なぜ香取郡神生に住んでいたのか?」

仮説その1

「立花郷(及び小見郷)奪還の機会を伺うための情報収集をしていた」

 


今回は「なぜ神生に住んでいたのか?」についての別な仮説を書いていこうと思います。

【仮説その2】

「父・常胤公の弟である小見胤隆氏の庇護の下、上総一族との連携・協調の道を探っていた


当時の状況を整理してみます。

◎立花郷(橘郷)・小見郷は千葉氏にとって、先祖伝来の私営田で重要な土地だった。

◎当時の立花郷(橘郷)・小見郷の支配権は、国司・藤原親通或いは上総一族の上総常範が握っていた。

◎上総一族は国司・藤原親通の一族と婚姻関係を結んで領地を拡大させていた。


以上の状況から考えると、「内部の情報を集め、横領等の不正があった場合に、しかるべきところに訴え出る」ということも、奪還策として考えられます。

しかし、保延2年(1136年)に国司・藤原親通から相馬郷(相馬御厨)・立花郷(橘郷)を奪われた経緯や苦労を考えると、その方向は難しいと思われます。

そこで、敢えて「連携・協調」という形をとって、名より実を取るということも奪還のひとつの形とも考えられます。


「連携・協調」の具体策として、次のようなことを想像しました。

◎常胤公の三男である胤盛さんと上総常範氏の一族の娘さんとの婚姻

◎胤盛さんが常範氏の養子になる


仮説その2のような動きが現実にあったとしても、それは形としては実を結びませんでした。

ただ、千葉一族と上総一族、胤隆氏と上総一族が、この地域で争った形跡がないので、可能性として考えてみました。


「なぜ香取郡神生に住んでいたのか?」

【仮説その3】

「胤盛さんの療養」「胤隆氏の病気」「胤隆氏の嫡子の病気などによる助っ人」

 

◎「胤盛さんの療養」についてですが、後の『お七夜の儀』の様子から考えても健康を崩していた形跡はありません。

療養すれば治る病気を患っていて、天地療養のために住んでいたと想像しました。

また、伝承の後半部分「観音菩薩を信仰した」という点からも、不自然ではないかな?と思いました。


◎「胤隆氏の病気」についても完全に想像です。

もし胤隆氏が病を患っていたとしたら、支配基盤を固めるために、常胤公の名代として叔父の近くに控えていたということも考えられます。


◎「胤隆氏の嫡子の病気などによる助っ人」についてですが、これもまったくの想像です。

丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』(新人物往来社)によりますと、胤隆氏の嫡子は「義季」氏とのことです。

もし仮に、義季氏が病弱であるなど嫡男としての役割が果たせない状況だったとして、他に代わる兄弟がいなかった場合、胤隆氏の立場はより難しくなると思われます。

そこで、常胤公の三男である胤盛さんが代理として胤隆氏の下で働いていたという可能性を考えました。


以上が、筆者・飼い主が考えた仮説です。

稚拙で恥ずかしいのですが、せっかく考えてみたので書きました

あくまで個人が想像して考えたことですので、ご了承ください。


「観音菩薩を信仰した」ことについて、もう少し掘り下げられたら…と思っています。

今後とも、よろしくお願いいたします

愛犬くんを見習って、調査に励みたいと思います

【追記】

2019年2月23日 レイアウト・文章の一部を修正しました。

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武石胤盛さん(11)「神生に住んでいた理由についての仮説」

2016年05月27日 | 郷土の武将 武石胤盛

前回投稿した記事では、胤盛さんが「神生に住んでいた時期」について、伝承や資料を基にして考えてみました。

そして、可能性として考えられる最長期間は「生年である久安二年(1146年)~頼朝挙兵の治承四年(1180年)」ではないか?と想像しました。

今回は、神生に住んだ理由について考えてみたいと思います。


<なぜ、香取郡神生に住んでいたのか?>

これは…謎です。

資料にも確たることは出ていません。

神生に住んでいたということ自体が「伝承」です。

しかし、神生が属していた或いは隣接していた立花郷(橘郷)・小見郷は、保延二年(1136年)に国司・藤原親通に奪われるまでは、常胤公の父・常重公の直系のご先祖たちが私営田として領してきた重要な土地です。

そう考えると、事実である可能性もあると思われます。


香取市内の旧小見川町・旧山田町周辺に、実際に足を運んでみました。

平地が多く利根川の恩恵を受けて、豊かな水田地帯が広がっていました。

平地だけではなく丘陵地帯も点在しています。

千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)によりますと、小見川周辺は、利根川と黒部川の水運を利用した物流拠点でもあり、常陸国への防衛拠点でもあったそうです。

また、千葉銀行の前身である「小見川農商銀行」もあったそうで、かつては水運で賑わっていたそうです。


先祖伝来の地であり、肥沃な土地でもある小見郷と立花郷(橘郷)…

常胤公としては、絶対に奪還したい土地だったと思われます。


そこで、仮説その1として「奪還のための情報収集をしていたのではないか?」と考えてみました。

父・常胤公は「現地の情報収集」を大事にしていたと思われます。

常胤公の七人のご子息のうち、頼朝挙兵前に、情報収集をしていたと思われる方をご紹介します。

【五男・胤通氏】

千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)に、以下のように説明されています。

◎五男の胤通氏は、早い時期から「国分胤通」と称していて、父の代理として下総国府との折衝をしていたか、何らかのかかわりがあったと推定される

また、千葉氏フォーラム実行委員会『東国の自立と千葉介常胤』内の講演資料・福田豊彦さん著『千葉常胤と源頼朝―東国政権の成立を中心に―』で次のように説明されています。

◎父・常胤公が「下総権守という国衙の役割を果たすための館を国府近傍に持っていた」ということなので、国府付近に住んでいたと思われる

【六男・胤頼氏】

六男の胤頼氏は、中央政府との関係が深く、上西門院に仕えていたそうです。

以下、千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)より引用します。

~・~・~・~・~・~

中央政府と緊密な関係にあり、兄弟の中で一番出世しました。

文武両道に秀で、紳士的なイメージを感じさせます。

「大夫」の名のとおり「従五位下(天皇に会見できる官位)」の官位を授与されています。

また早くから京都・神護寺の再興に尽くした文覚と親交を持ち、後白河上皇の妹・上西門院に仕えています。

また胤頼は、文覚の妹を妻にしたという説もあります。

頼朝とも親交が深く、三浦義澄と共に源氏の挙兵をすすめました。

~・~・~・~・~・~

【七男・日胤氏】

七男の日胤氏は、琵琶湖に面した三井寺・円城寺の僧で、頼朝の祈祷師でもあったそうです。

治承四年(1180年)に以仁王を奉じた源三位頼政の軍に同行して戦死したそうです

【参考文献】千葉氏フォーラム実行委員会『千葉氏とその時代』

 

上記のとおり、常胤公は子息を積極的に信頼できる筋に預けています。

そして、子息たちは情報収集も行っていたと思われます。

その先駆けとなったのが、三男の三郎胤盛さんではなかったか?と想像しました。

他の兄弟たちとは、「後ろ盾」「受け入れ態勢」の点で異なっていて、少し弱いような気がします。

単独行動ではなかったと思われるので、叔父・胤隆氏を後見として、対立する勢力の内偵をしていたのかな?と思いました。

 

まだ他にも仮説がありまして…

準備が出来ましたら、投稿したいと思います

キリンさんのぬいぐるみを枕にウトウトする愛犬くんです

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武石胤盛さん(10)「神生に住んでいた時期についての仮説」

2016年05月26日 | 郷土の武将 武石胤盛

今回は、武石胤盛さんが「香取郡神生」に住んでいたという伝承を基にして、住んでいた時期はいつ頃なのかを考えてみたいと思います。

 

胤盛さんについての伝承を再度、確認してみます。

千葉氏顕彰会監修『千葉氏探訪』(千葉日報社)に記されています。

『香取郡誌』『世俗東荘誌』などの伝承は、以下のとおりです。

・最初は香取郡神生館(山田町神生)に住んでいた

・観音菩薩を信仰した

※山田町は、現在は香取市です。現住所は香取市神生です。


胤盛さんは「千葉郡(千葉庄)武石郷」を父・常胤公から譲られて「武石」姓を名乗ります。

そして、治承四年(1180年)の源頼朝の挙兵時には、父・常胤公の配下として行動しています。

石橋山の合戦で安房に敗走した頼朝から援軍の要請を受け、常胤公は下総国府で頼朝と参会します。

【追記】2019年4月28日

胤盛さんが武石郷に城(館)を築いた時期

→承安元年(1171年)11月15日とのことです。

<参考文献>

・啓文社書房「千葉常胤とその子どもたち」

 坂本紀男さん「三男 武石胤盛」

・武石神社の案内板「おたけし様の御由緒」


◎千野原靖方さん『豪族武士団形成史論』(崙書房)に以下のことが記されています。

 (※自分なりに、千野原靖方さんの説明をまとめてみました)

・源頼朝は、下総国府(市川市)で千葉常胤公と参会した。

・『吾妻鏡』によると、常胤公は六人の子息と嫡男の胤正氏の子息・成胤氏と一緒に頼朝に参会した。軍勢は三百余騎

この時、常胤公の六人の子息は、それぞれが自立した規模の大きい武士団を形成していたであろうと、千野原靖方さんはお考えです。

三百騎とは「中武士団の長」の数を表していたのではないか?とも指摘しています。

『吾妻鏡』では、常胤公の率いた軍勢に対して、上総介広常公が率いた軍勢は二万騎とされています。

軍勢に圧倒的な差があったように思われています。

しかし、千野原靖方さんの見方は異なります。

上総介広常公の軍勢は「中武士団の長」の数ではなく、「小武士団の長」の数を言ったものではないかと。

つまり、常胤公が率いた三百騎の「中武士団の長」の下には、多くの「小武士団の長」が存在して、実際には常胤公と広常公の軍勢の数に差はなかったのではないかと指摘しています。


「胤盛さんが神生に住んでいた時期はいつか?」について、様々な資料(史料)から私なりに考えてみます。

【仮説】

可能性がある最長期間としては「生年の久安二年(1146年)~治承四年(1180年) 承安元年(1171年)」が考えられると思います。

治承四年に源頼朝と参会していて、中武士団の長として軍勢を率いていたとすると、少なくとも治承四年の数年前からは武石郷を領して、支配基盤を固めていたと思われます。

承安元年(1171年)に武石郷に居城を築いたとのことです。

【追記】2019年4月28日

胤盛さんが武石郷に城(館)を築いた時期

承安元年(1171年)11月15日

<参考文献>

・啓文社書房「千葉常胤とその子どもたち」

 坂本紀男さん「三男 武石胤盛」

・武石神社の案内板「おたけし様の御由緒」

 

<飼い主の感想>

千野原靖方さんの著書『豪族武士団形成史論』(崙書房)を久しぶりに読みました。

(千葉氏について勉強し始めた数年前に一度目を通して以来です)

「豪族」「私営田領主」「荘園領主」「守護」「地頭」「惣領」など、高校時代に日本史で勉強してから遠ざかっている用語が沢山出てきて、懐かしさと共に、勉強不足も痛感しました

今後もマイペースで勉強を続けたいと思います

熱心に探索をする愛犬くん

【追記】2019年4月28日

武石胤盛さんが武石郷に城を築いた時期等について、加筆・修正しました。

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武石胤盛さん(9)「当時の神生周辺の勢力図について」

2016年05月22日 | 郷土の武将 武石胤盛

「胤盛さんは、なぜ神生に住んでいたのか?」

飼い主は、このことについて考えたり調べたりしています。

胤盛さんが生きていた平安時代末期に、在地領主(地方豪族?)の子息が、父の支配権のない地域に住むことは可能だったのでしょうか?

そして、もし「神生に住んでいた」のが本当だったとして、その目的・理由は何だったのでしょうか?

うーむ…タイムスリップしたいです


<資料をまとめました>

次の二冊の本を読んで、自分なりに以下のように整理しました。

◎福田豊彦さん著『千葉常胤』(吉川弘文館)

◎丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』(新人物往来社)

 

《要点整理》

(1)保延元年(1135年)

 千葉常胤公の父・常重公が隠居します。

隠居時の常重公の領地は以下の四つの郷です。

  • 千葉郷
  • 相馬郷(相馬御厨)
  • 立花郷(橘郷)
  • 小見郷

四つの領地は、以下のように分配されます。

千葉常胤公:千葉郷/相馬郷(相馬御厨)/立花郷(橘郷)

常胤公の弟・胤隆氏:小見郷

⇒小見郷の領主となったので「小見胤隆」と名乗ったと思われます。

 

(2)保延二年(1136年)

 下総国司の藤原親通によって、相馬郷(相馬御厨)と立花郷(橘郷)が没収されてしまいます。

(3)久安二年(1146年)

 常胤公が相馬郡司に任じられ、相馬郷(相馬御厨)が実質的に返還されます。しかし、立花郷(橘郷)は返還されませんでした。

※常胤公の各方面への長期にわたる働きかけの結果、やっと相馬郷の実質的な支配権が戻りました。

※胤盛さんが生まれたのが久安二年(1146年)です。

 

☆久安二年に「香取郡神生」が、どこの郷に属していたかは、二冊の本からは判明しませんでした。

⇒「小見郷」に属していたものと、想像します。


<小見郷の様子は?>

立花郷は、常胤公に返還されませんでした。

では、常胤公の弟・小見胤隆氏が領したとされる、立花郷に隣接する小見郷の支配権は、誰が握ったのでしょうか?

 

当時の小見郷について、丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』によると、次のようになります。

「木内氏」に関する記述から、まとめてみました。

《要点整理》

・上総一族である常澄の子・常範は、「木内太郎」及び「小見九郎」と称します。

・名字の地である「木内」は、小見川町南部から山田町北部と推定されます。

・「小見」は、山田町小見から小見川町の小見川・羽根川一帯と推定されます。

・保延二年(1136年)に、橘郷と相馬郷の支配権が下総国司の藤原親通に渡ると、「小見」も親通に渡ったものと考えられます。しかし、平安時代の末期には上総氏の一族であった常範の所領となっています(経緯は不明)


<常胤公の弟・小見胤隆氏の動向について>

父・常胤公の支配権がない地域に胤盛さんが住むためには、叔父である小見胤隆氏の存在が必要だったと想像します。

丸井敬司さん著『上総下総千葉一族』を読みますと、小見胤隆氏の動きが少し見えてきます。

《要点整理》

◎『徳島本千葉系図』によると、常澄の子・常範が「小見」や「木内」と称している。

⇒立花郷は平安時代の末期には、上総氏の所領になっていた

◎この所領(立花郷)に国司・藤原親通が進出すると、胤隆氏は千葉氏と行動を共にした兆候がない。そのまま在地にとどまり、最終的には上総氏に従ったものと思われる。

久安二年(1146年)(武石胤盛さんの生年)当時、小見郷は、国司・藤原親通(又はその一族)或いは上総一族が領していたと推定されるそうです。


<藤原親通が進出した後の、常胤公の弟・小見胤隆氏の動き>

国司・藤原親通が立花郷に進出した後も、「小見胤隆」と名乗っていたかどうかは不明です。

在地にとどまったということは、小見郷のどこかを領しつつ、最終的に上総氏に仕えた…ということだろうと想像します。

※領主的な立場ではなく、一豪族(有力者?)的な立場になったのかも知れません。

※小見郷内ではなく、常範の領地となった立花郷のどこかを与えられた可能性もあります。


<武石胤盛さんが神生に住んでいた頃は…>

資料をもとに、胤盛さんが住んでいた頃の政治状況を想像してみますと…

◎神生が属していたと思われる小見郷に隣接する立花郷に、父・常胤公の支配権はなかった。

◎叔父・胤隆さんは小見郷全体の領主ではなくなってしまい、神生周辺など小見郷の一部を領していた?

※胤盛さんが神生に住んでいたことを前提としているので、そのように考えました。当時、小見郷自体は下総国司・藤原親通或いは上総一族が領していたようなのですが…)

 

このような厳しい状況の中、千葉郡(千葉庄)の領主の子息が神生に住んでいた…

事実だとすると、かなり危険を伴うと思われます。

 

また、最初の疑問に戻りますが、「香取郡神生」は、どこに属していたのでしょうか?(小見郷内だと勝手に想像しているのですが…)


当時の小見郷・立花郷の状況を整理してみて、改めて謎が深まりました

これからも勉強に励みたいと思います

日々、見回りを欠かさない愛犬くん

【追記】

2019年2月23日

レイアウト、文章の一部を修正しました。

2019年4月28日

文章の一部を加筆・修正しました。

2020年10月30日

レイアウト、文章の一部を加筆・修正しました。

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