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Maeda Niina BLOG

我が師への反抗

2017年03月02日 01時07分42秒 | niina
少し前のブログに書きました“熟成”の日々、まだ続いています。
かなりたくさんのものを見たり聴いたりする中、自分の中に引っかかるものをわざとしばし野放しにして、ある時何か繋がったように感じたら書き出す、そんなことを繰り返しています。

今のタイミングで出会う作品や人、物事、すべて必然に感じてくるのですから、不思議です。
自分の中のどこかが研ぎ澄まされていく感覚もあります。

引っかかってくる言葉の一つに、「過去」があります。
とある演出家の言葉。「人はいつでも過去と対話している」
またある演出家の言葉。「過去は共有できない」
(言い切ってしまうことではないのですが、私が聞いた時の状況もあるので、そこは割愛。)

どちらも心あたりがある言葉です。
作品というのは、人それぞれが心に描く、過去・現在・未来のどこかにひっかるものが根底にあるのだと思います。


自分の「過去」を「今」そして「未来」につなげるためには、ポジティブにのみ捉えるでも、ネガティブにのみ捉えるのでもなく、冷静な解釈と意味づけが必要なのだろうと思うのです。
自分は自分の過去に折り合いがついているのだろうか? 少々過去に遡ってみたい気持ちになりました。

と、いうことで思い切って遡ってみます。
さて、いつまで遡ろうか。。。
初めて我が師に反発心を自覚し長く引きずった時期のこと。他人との関わりの中で最初のインパクトは、やはりこの頃かもしれないな。

私の最初の師匠は「堀本卓矢」先生、そして奥様だった「成子」先生。
小学校3年生の時からお世話になりました。
卓矢先生はオペラ出身のダンサーで、平成3年には、創作バレエ「メリーウィドウ」で芸術祭賞を受賞したこともある振付家でもありました。
その後、文化庁派遣の在外研修にてスウェーデンに行かれたと思ったら途中からアフリカに行き、真っ黒に日焼けして民族衣装を着て帰国。その年の発表会での子供達への作品は、なんとアフリカンダンスを取り入れたものでバレエではなかったけれど、とっても素敵だった。おおよそバレエの先生のイメージとはかけ離れたお人。

そんな先生の作品は私にとってとても刺激的で楽しかったが、ウブな私には刺激が強すぎることも多々ありました。
まだ異性と手もつないだこともない頃に踊らねばならなかった「サムソンとデリラ」。
タバコなど吸ったこともないのに吸わねばならなかった「カルメン」など。
でもこれらは踊りの範疇だから良かったのですが。

先生の芸術祭賞受賞からも月日が経ち、私が高校を卒業する頃になると、私たち生徒のリハーサル中にワインを飲んでいたり、家でも色々と荒れていらしたよう。
お酒のこと以外も、稽古場では師匠らしからぬ発言や行動があったりして、だんだんと何かが壊れていってしまわれた。
芸術家として一つ形になってから、それを持続することの難しさ、厳しさ。そういったものがあったのだと思います。
もちろん、その頃の私には計り知れず理解の及ばないこと。
私はそんな先生に対してどうしようもない怒りに苛まれ、毎晩電話をしては、あるいはかかってきては、喧嘩をしてしまっていました。今思えば師匠にあのような態度をとるなど、普通の状態では考えられません。
私も何か壊れかけていた部分があったのかもしれません。
先生にとっては、私は一番弟子のようなもの。とても可愛がってくださったけれど、かわいさ余って憎さ100倍、というのはこのことか、という経験の毎日。師匠と弟子を超えた気持ちさえあったのではないかと感じていた。
バレエ団に入ってもちょっとしたことでバレエ団まで電話がかかってくる。
当時は携帯電話がなかったので先輩もいらっしゃる更衣室についている電話にて話すことになってしまったり。

先生を一番に、忠実に、しかも先生の世界を体現し、完璧でないと怒りが爆発してしまう。
一方で、古典バレエという世界での経験が少なかった先生は、私が15~6歳になった頃から、私にバレエテクニックを教えることをやめてしまった。

そうそう、それで思い出したけれど、14歳で初めてパドドウ(男性と組む踊り)を踊ることになった時、肩に乗せるリフトを先生自ら、やってみてくださったことがあった。頑張ってくださったんだろうけれども、初めての私はどーんと乗って先生は支えきれず、肩の高さから床に落ちてしまった。今思えば多分尾てい骨折れてたな(笑)。

まあ、それは良いとしても、とにかくそんな感じなのでコンクールも一人で行って一人で賞を取って一人で静かに喜んで帰ってくるとか、そんな感じで、囲われてるんだか放って置かれてるんだかわからない状況。

それから私が新国立劇場バレエ団に入団してしばらくは、離れた状態が続いていました。

そしてある日、新国立劇場で「白鳥の湖」の舞台稽古をしていた時、先生の訃報の知らせがきました。
ご自身の故郷、徳島にて、自ら逝ってしまわれた。
私は一瞬涙したけれど、それは何だか悲しみとはまた違ったものでした。
その日に至るまでに、数年の間にすでに二度ほど、未遂があったことを知らされていたこともあり、もうどこかでわかっていたような、それでいて遠く徳島での出来事で現実味が全くないことが相まって自分自身、どんな気持ちなのかわからない、そんな感じでした。

それから十数年。。。
まさか自分が、先生が作品を出していたバレエフェスティバルに作品を出すようなことになろうとは。。
そして自分の振付の中に知らず知らず先生が時折顔を出すのです。
昔の発表会のビデオを見て愕然としました。
全くと言っていいほど同じ振付を発見してしまったのです。
私の記憶からはもうすでに消えていた踊りでしたが。

でもそれを見たとき、この時期の自分には折り合いがついた、と思いました。

過去というのはそのときの感情とともに残るもの、多感だった頃に大きく関わった先生の思い出だけに、決して良いものとは言い切れませんでした。でも、こうして私の感情を超えて、身体は踊りを喜んだことを覚えていたのです。
今の私を形作った、大きな大きな力だったのです。
やっと、今までとは違った、感謝というようなものが湧き、腑に落ちた日でした。
ただ、やはり、芸術家も命あってこそ。そこだけは。。

長くなりました。。。



こちらは堀本卓矢振付「カルメン幻想曲」(1986年)
(文中に出てきます“カルメン”ではありません 笑 )


それでは、、
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。




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2 コメント

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人生に乾杯 (佐野清枝)
2017-03-25 14:58:18
流れる様に読ませて頂きました。時が過ぎ熟成されてくるもの、見えてくるものがあると思います。がしかし先生のようにお若い時からみえてくるなんてさすがでございます。これからのご活躍も楽しみにしています。
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清枝様 (aratana)
2017-05-08 11:08:19
コメントありがとうございます。身体の記憶は強いものなのだな、と実感しています。またいつでもレッスンでお待ちしています♪
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