病気を乗り越えて(私の奇跡)

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凛として開き直ろう

2008年03月31日 | 宇佐美百合子さんのエッセイ
ブログ・カウンターナンパ




今あなたが、人間関係のもめごとのさなかで「どうしよう、どうしよう」とうろたえていたら、心の中を「どうにかしよう、どうにかする!」に変えましょう。腰が引けた状態でいいアイデアを思いつくのはむずかしいと思うから。

 人生の困難にあったら、「これは自分の『いらないもの』を捨てるチャンス!」と考えて。あなたがするべきことは、ただひとつ。凛として"開き直る"ことです。 "開き直る"とは、心を「開き」身を「直す」こと。「開く」には「観念して現実を受け入れる」、「直る」には「まじめに取り組み直す」という意味があるんですね。"開き直る"ことは、不利になると態度を豹変させて"居直る"こととはまったく違いますよ。(念のため)

 人間関係でキツイ立場に立たされても、そこで完全に開き直ることができれば、エゴの殻が破れて、心機一転やり直すことができます。この『エゴの殻』が、あなたが捨てるべき『いらないもの』なのです。

 最初に、心を「開き」ましょう。「観念して現実を受け入れる」ということは、今の状態を人のせいにしないということです。今の状態を招いた原因は、自分のどういった不注意と、人に対するどんな無理解だったのか、それをよく考えてみましょう。

 あなたは先入観でものごとを決めつけて、それを人に押し付けなかったでしょうか? あるいは、自分は正しいという傲慢な態度で人に接しなかったでしょうか? 

 少しでも思い当たったら、素直に反省するようにしてください。『自分が撒いた種は自分で摘み取る』という覚悟のある人は、かならず活路を見出せます。そういう気持ちで反省すれば、目の前の困難をチャンスに変えることができるんですよ。

 次に、身を「直し」ましょう。「まじめに取り組み直す」ということは、人を責めず、さらに自分のことも責めず、自分が今すぐできることを実行するということです。

 相手がどんなに悪態をついても、その背景には「そうなる原因」があるはずなんですね。人によっては、トラウマゆえにそうしてしまうことだってあります。そんな相手の事情を「まずわかってあげよう」という気持ちがあれば、一方的に相手を批判しないと思います。「気に入らない、気が知れない」という気持ちで相手を批判する前に、どんな理由でそうするのか、思いやりを持って尋ねてみましょう。「もしも、自分が相手と同じ立場だったら同じことをするかも…」と想像してみるんです。あなたの思いやりが伝われば、きっと相手も「あなたのこともわかってあげよう」という気持ちになると思います。

 自分がほしいもの(理解・思いやり)は先に相手に与えること――これが円満なコミュニケーションを生むヒケツなんです。いやな気分になっても意地を張らないで、あなたから人に譲る気持ちをいつも大事にしてくださいね。

 自分の都合や見栄や先入観を置いて、もう一度相手と向きあってみませんか? きっと、今の状態を打開できるベスト・アイデアが生まれることでしょう。



宇佐美百合子さんのエッセイより転載。『ブックマーク参照』





出会いとは…

2008年03月03日 | 宇佐美百合子さんのエッセイ
ブログ・カウンターナンパ




 私たちはこれまでの人生で、多くの人と出会い、また多くの人と別れてきました。特に春は、1年のうちでも新しい出会いが増えるとき。こうした人生の出会いにはどんな意味があるのでしょうか。

 過去を振り返ってみると、出会えてよかったと感じる人と、できれば出会いたくなかったと感じる人がいると思います。その違いは、あなたに喜びを与えた人と苦痛を与えた人ではありませんか?

 人生で〝ある人に出会う″ということは〝その人が自分にもたらす影響と出会う″ということ。それは、その人の価値観、美しさや痛み、純粋さや怒り、その他もろもろ…同一人物でも状況によってもたらすものは変わります。

 それらすべてを自分にとって〝いいもの″に変えていくには、相手が差し出すものを、それが不快でも楽しくても、ありがたくてもムカついても、そんなことはおかまいなしに一回きちんと受けとめる(自分が消化する)ことなのです。

 勝手に「なんて不快な人!」とか「それは間違っている」と審判をくださないで、「この人は今、怒りをぶちまけずにはいられないほど苦しんでいる」と、その状態をただ認めてあげる。認めてあげることと賛同は違うので、相手がその感情を表す自由をただ承認してあげればいいんですね。

 相手が喜んでいる場合も同じです。「よかったね」と心から共感してあげましょう。喜びの感動をシェアすることが大切。自分と比べて妬んだりバカにしたりという不要な感情を持ち出す〝余計な作業″を絶対にしないことですよ。

 出会う人は「自分に影響をもたらす何かを提供してくれる人たち」と考えて。たとえその影響が〝心の痛み″になっても、相手そのものを恨む必要はありません。なぜなら、その人は〝人間としての器を大きくするための材料″を与えてくれたのだから。

 あなたが望まないつらい材料がもたらされることは、本当は喜ばしいことなんです。その材料がなかったらあなたは成長できないし、逆に真の喜びや感動をわからずに終わってしまうから。その視点から、出会う人たちを眺めてみましょう。

 私たちは悲しんだり傷ついたりしながら、自分が秘め持ったものを深く知っていきます。そうやって自分を理解していくことが、人間を理解していくことにつながるのです。その意味で「人はみな自分の鏡」。ある刺激を受ければ飛び出す感情、傷つけば抵抗したり反省したりする気持ちなど、心の作用は人類共通の「そう反応する仕組み」に基づいているからです。

 それを踏まえて、かつて出会った人があなたの心に残した材料を「すべて自分の課題」と思って消化していくと、〝つらい出会い″を〝ありがたい出会い″に変えられます。

 その結果、過去のとらわれから解放されて心が自由になり、自分に対しても人に対しても真の理解が生まれるんですね。その力をつけて人と触れ合うことを大いに楽しみ、人生を〝ありがたい出会い″のオンパレードにしてください。



宇佐美百合子さんのエッセイ転載『ブックマーク参照』

人生を丸ごと楽しむ

2008年03月02日 | 宇佐美百合子さんのエッセイ
ブログ・カウンターナンパ



 私たちが生きていくということは、「どんな目にあっても人生を丸ごと楽しむ」ということを学ぶことかもしれません。自分に何が起こっても、体験することをすべて楽しんで生きていけたならどんなにしあわせでしょうか。

「心がはずむようなこと」は楽しいけれど、「心が落ち込むようなこと」をどうやって楽しむかが問題ですよね。

 心が怒りや悲しみに支配されないように、落ち込んだら「どうやって気持ちを切り替えるか」。それは「どうやってその出来事を乗り越えるか」とイコールです。

 まず、"感情"は"考え"ではないということ知ってください。"感情"は一過性のエネルギーです。それを引っつかんで、執念深くああでもないこうでもないと"考え"に結び付け、人間は苦しみのストーリーを作り出してしまうのです。

 どの感情も、縁に触れれば自然にわき起こるものだから、いやな感情を抱いたと自分を責める必要はありません。ただし「落ち込んでいる自分」や、ムカついたときに「怒っている自分」を、静かに見つめる"もうひとりの自分"がいればいいんですね。

"もうひとりの自分"とは、あなたが生きているあいだ、さまざまな感情を味わうことを承知している自分です。どんな感情にも、それを味わったあなたがどうするかを見守り、ひらめきを送って助けようとします。

 あなたが苦しんでいるとき、ふたりの自分が葛藤していませんか?ひとりは「あいつのせいだ」と怒り、うらみ、後悔します。これが自我。もうひとりは、「やっと気づけた」と感謝し、反省し、すべてを受け入れようとします。

 あなたは、何が何でも後者の自分といっしょにいてください。"もうひとりの自分"からのひらめきにしたがって。それが"自分を愛する"ということなのです。

 いやな感情は、うまくやり過ごすたびにあなたを成長させてくれます。「自分が成長し、人間としてのスケールが大きくなっていくことが何より楽しい」という考えを根底に持てば、いつでもいやな感情を"自分を磨く研磨剤"に変えられます。

 この際、あなたのなかにある「思いがけない体験を恐れる気持ち」も、「エゴを満たすことだけが楽しいという考え」も引き下げましょう。邪魔ものを憎んだり抵抗したりして生きていくのはとても疲れます。

 それより思いがけない体験をおもしろがって、人を喜ばせることを楽しみの一つにして、自分の成長を人生の一大目標にかかげてしまうんです。すると、いやな目にあっても、そのことをうらんでネガティブな思いを増幅させなくなると思います。

 どんな目にあっても人生を丸ごと楽しむには、「自分にとってプラスのことしか起こらない。私はいつも応援されている」という気持ちを持ち続けることですよ。



宇佐美百合子さんのエッセイ転載『ブックマーク参照』

幸せな自分

2008年03月01日 | 宇佐美百合子さんのエッセイ
ブログ・カウンターナンパ



 私はずっと「やすらぎがほしい」「幸せになりたい」と思って生きてきましたが、それを追いかけるうちに自分の目標が変わってきました。今は「嵐に巻き込まれても立っていられる」「苦悩をつきぬけて前に進める」ことを目指しています。

 そのわけをお話しましょう。"やすらぎと幸せ"は目に見えない漠然としたものです。あまりにそれを意識しすぎると、反動で欲求不満になります。しだいに"不安と怒り"にとり込まれて、逆に「やすらげない自分」や「幸せを味わえない自分」を作り出してしまいます。

 おそらく心の中で"やすらぎと幸せ"を特別なものと思ってしまうからでしょう。でもそれは、特別なものでも得がたい状態でもなく、幼児がそうであるように、もともと心にあるもの。本来の私たちの状態なのです。

 "やすらぎと幸せ"をかき乱す"不安や怒り"は、他人と比べてコンプレックスや欲求不満を抱くことから生まれます。具体的には、人間関係、容姿、仕事の能力に対する悩みなど。さらに人生には、不慮の事故や災難で降りかかってくる苦しみや悲しみもあります。

 残念ながら、こうした"不安や怒り"の嵐は、生きている以上は避けがたいものでしょう。しかし、この嵐に巻き込まれるから私たちは成長できるんですね。そして、自分は何のために生きていくのか、「本当の幸せ」が何かを理解していくんだと思います。

 私が、"やすらぎや幸せ"をぶちこわす"不安や怒り"の嵐に立ち向かう強さと、変化を恐れない向上心を身につけることがもっとも大切だと考えるようになったのは、それに打ち勝てば「平常心」を保てることがわかったからです。

 平常とは、いつもと同じ自然な自分。自然とは、天然の本来の自分のことです。美しいものを美しいと感じ、ただ生かされていることを、ありがたい、幸せと感じる自分です。

 ところで、私はたびたび、『その人が幸せか不幸せかは、出来事で決まるのではなく、出来事をどうとらえるかという心の持ち方で決まる』という話をしますが、それは『出来事そのものは中立』ということをいいたいからです。

 ひとつの出来事が、ある人には○で、ある人には×という場合はいくらでもあります。また同じ出来事が、過去には×だったけれど、今なら○と感じる場合もあるでしょう。

 つまり、それぞれの出来事にいい悪いがあるのではなく、それに対して私たちがいい悪いという価値観を持って、毎日それに振り回されていることに気づいてほしいのです。

 あなたは、自分がいやな出来事に巻き込まれるたびに、そうなった自分に×をつけて悩んでいませんか? 自分を責めて落ち込んでいませんか? これからは、あなたの身にどんないやなことが降りかかっても、「苦悩をつきぬけて成長しようとする自分」をなくさないことに心を砕いて、その自分に◎をつけて生きていってくださいね。 



宇佐美百合子さんのエッセイ転載『ブックマーク参照』