この頃、気功教室での講話の内容が徐々に難解になってきています。宇宙の話題が出ると特に頭を抱えてしまうことが多いのですが、「私たちは無償の愛で宇宙に生かされている。」という真実を聞かされた時は、「あぁ本当にそうだ!」と心の底から「無償の愛」という言葉の意味を理解することが出来ました。天には日(太陽)・月・星という3つの宝が存在しています。宇宙は持てるものを出し惜しみすることもなければ、私たちに物欲しげな交換条件を提示してくることもありません。私たちはこの宇宙の中で好きなだけ、宇宙から与えられる無償の愛を享受することが出来るのです。誰かには与えられていて自分には与えられることがない…なんていう不平等は宇宙に関してはありえないことです。こんな当たり前のことを、今まで考えたこともありませんでした。
宇宙と一体化する(宇宙と響きあう・宇宙と溶け合う)ことをイメージしながら気功を行うことで、もし宇宙との一体化に成功すれば最高の境地(涅槃の境地=安らけき境地)が得られるのだそうです。こうして得られた意識を宇宙意識と呼ぶのでしょうか?私はかつて、この宇宙意識らしきものを2回ほど体験したことがあります。「瞑想」を日常に取り入れていた時、身体中のどこにも痛みを感じない状態で、完璧な至福感に包まれるという至高体験をしました。けれどその感覚は残念なことに、あっという間に消退してしまうんです。でもこの体験の思い出はかけがえのないものとして記憶の片隅に今でも大事に、その時の感覚と共に保管されています。宇宙の中で、自分が日々生かされているという現実をを忘れ、「自分が…自分が…」という自己主張の無間地獄に陥れば、宇宙からはシャッターアウトされてしまうのだそうです。(怖いですね~)宇宙には「ただ今」の意識がいつも飛んでいるから、宇宙には「今」しか存在していないのだとのこと。宇宙は一瞬たりとも留まってはいないとのこと。「ある」と思った次の瞬間には、「ある」と思ったものはもう「ない」のです。「ない」と思った次の瞬間にももう「ない」と思ったものも「ない」のです。ある…ない…ある…ない…。これの繰り返しです。これでは、まるで禅問答のようですね。宇宙には「永遠の今」のみが存在する。瞬間瞬間も瞬間に流れていくわけですから、すぐに、ある事象は姿を変えてしまうということなわけです。難しい説明ですが、なんとなく判るような気もします。良い気がないと良い想念も出てこない。だとするなら、邪気を取るために気功を励行して、宇宙に邪気を返して、私たちは瞬間瞬間に生まれ変わらなければなりませんね。なんとなく忙しくて慌しいイメージを抱いてしまうのは、私がまだ、宇宙とは何なのか…を理解できていないからなのでしょうネ…
このブログは気功を始めたことによって変化するであろう私の日常を、起こってくるであろう不思議な体験を中心に綴っていくはずでした。教室に通いだした当初は不思議と思われることが次々に起こって、私を取り巻く空気の揺らぎがそこはかとなく感じとれたので、しめしめと内心ほくそ笑んでいたのです。が、ここへきて、その動きがすっかり静止してしまっているのです。まったく風が感じられないのです。これは大変なことになってしまいました。私から、宇宙の大いなる原理原則を信じる力が消退していこうとしているからなんでしょうか?愛が足りない…愛が足りない…愛が足りない…そういうことだからなんでしょうか?
私の気功の先生は「羅漢気功」の実践者です。羅漢とは平たく言えば、何事にも捉われない境地のことを表現しています。気功の気は生命エネルギー・功は鍛錬の意味ですので、気功は心身の鍛錬法ということになります。ところで、最近、「うつ病」に関するある講演会を聴講した際に、講演者である精神科医が、うつ病に陥りやすい人の特徴として、物事をとにかく悲観的に考えやすく、そのことに執着する傾向が強いとして、「悲観の執着」という表現を使っておられました。端的で象徴的なこの言葉があまりにも「言いえて妙」だったので、今でも深く印象に残っています。話を気功に戻します。日常的に羅漢気功に触れていると、物事に対する悲観と執着をいつの間にか忘れてしまうのです。悲観したり執着することがあっても長続きしません。悲観し続けることや執着し続けることに疲れてしまう・・といってもいいかもしれません。
私の気功の先生はつい最近、とてもいい夢を見られたそうです。こんなにいい夢は必ず現実とリンクするはず・・この夢が示す兆候は現実の世界でいつ実現するのだろうと楽しみに様子を伺っていらしたところ、数日後に、ある人との出会いがありました。その出会いは、件の夢が「予知夢」であったことを知らせるものでした。偶然にも出会ったその人は先生の現実世界での夢の実現を可能にするすべての条件を満たしている人だったのです。「あの夢はこのことを告げていたんだ!」と先生はひざを叩いて得心されたそうです。夢に見たことが現実となった後に、そのことを人に語るのはOKだけれど、夢が叶う前に、夢の内容を人に漏らすと、その夢は破裂してしまって実現しなくなるのだそうです。「秘すれば花」・・大事なことは自分の胸にしまって置くことが大事。迂闊に人に話してしまったら、夢は叶う前に雲散霧消してしまうようですから、くれぐれも気をつけましょう!
「見性成仏」という言葉があります。性は本質という意味です。見ることイコール成ることなのです。いい人に会い、いい音楽を聴き、いいものを見ることが如何に大切かということになります。けれど、生きていれば邪悪なものを見てしまうこともあります。そういう時は「理性」の力で、それが本当に邪悪なものなのか宇宙から降りてきたものなのかを判断して、いらないものなら「私は見ていない。」「私は聞いていない。」とそれを手放せばいいようです。そうすれば、もう、その邪悪なものは、私に作用する力をなくします。私がいらないと思ったものは、私に何の影響力も及ぼすことは出来ません。「見た」後に自分がなりたいものになればいい・・ということだそうです。
車が走る時、車輪は4つでひとつです。4つの車輪が勝手にバラバラな動きをしていたら大変なことになります。人も同じです。心身がバラバラになると、その隙間に不都合が生じることになります。心身がひとつになった時こそが持てる力を最も強く発揮できる時、最善のパワーが最も力強く放射する時・・ということになります。
深呼吸(複式呼吸)で、鼻から息を吸い込む時「いい気が入ります。」と心で唱えます。吸い込んだ息をすぼめた口からゆっくり吐き出す時、今度は「悪い気を追い出します。」と唱えてみます。深呼吸(腹式呼吸)は息を整えて、気持ちを緩めることに効果があるだけではなく、人が内臓の働きを良い方向にコントロールすることができる唯一の方法のようです。