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インドで作家業

ベンガル湾と犀川をこよなく愛するプリー⇔金沢往還作家、李耶シャンカール(モハンティ三智江)の公式ブログ

冗長な人間ドラマ―「天国への階段」書評

2015-08-28 20:32:51 | カルチャー(祭)・アート・本
本年四月に他界した白川道(とおる)の「天国への階段」(上中下、山本周五郎候補作)を一昨日、読了した。

読後感は確かに感動譚ではあるが、いまひとつ。私は本来ミステリーが好きなほうではないのだが、それでも面白いものは面白い。このベストセラーになった2000枚を超える大長編の欠陥は、登場人物が多すぎることと、冗長なこと、とくに警察内での会議で犯人推理がなされる場面が一章置きくらいに出てくるわけだが、読むのが苦痛だった。係長だの、管理官だの、警部・警部補など、いちいちフルネームで登場、誰だ誰だかわからなくなって、読むのが面倒になる。

ただ、刑事ドラマとしては、署内の上下関係、役職などよく調べてあり、読ませる。最大の欠陥を挙げよう。地の文はこなれている著者が、男女主人公の性愛場面になると、目も当てられないほどの馬脚を現す。つまり、濡れ場が書けない作家なんである。

それまでスムーズに読ませた内容が、男女のそういうシーンになると、途端に稚拙になる。無頼で通り、何人もの女性と関係があり、場数を重ねてきているはずの作者の致命的な欠点、そう、プロの作家にはベッドシーンが苦手な人もいるのである。

でも、恋愛がひとつのテーマになっている以上、いただけない。
刑事の推理ドラマは本当によく書けているのに、男女がホテルにしけこむ場面になると、お粗末で目も当てられない。
なんか照れて書いてるような、無頼の裏の純粋さ、稚気さを備えていた人柄というから、絡みシーンは苦手なのかもしれない。
濡れ場のうまい作家はたくさんいるが、藤田宜永、高樹のぶ子など、下品にならずに、官能をあおらせ、後者などまかり間違えばポルノになるぎりぎりの線で救い上げ、きわどい描写に成功している。
まあ、白川道は恋愛小説作家でないから、別に下手でもいいのだろうが。

次の帰国時は「流星たちの宴」や「病葉流れて」を読んでみたいが、この作家はどうも私がのめり込むタイプではなさそうだ。

それにしても、ベストセラー書というのはどうして、こうもつまらんのだろう。

人間ドラマとしてゆさぶりをかけるといわれれば、確かにそうだし力作なんだが、この長さにする必要はあったか。刑事が数多く登場する場面など、もう少しはしょれたはずだ。ただし、ミステリー好きが読むと、また違うのかもしれない。

でも、同書を原作にしたドラマ(2002年4月8日から同年6月24日まで、読売テレビの制作により、日本テレビ系列で毎週月曜22:00 - 22:54(JST)に全12話が放送された、あらすじとキャストはこちら)は見てみたかった。
イメージとして、自分を裏切った女への復讐心を誓い、貸しビル業者として成功していく過程で殺人はじめのさまざまな罪を重ねていく主人公役に、佐藤浩市はぴったりである。三国錬太郎の息子だが、翳りのある、ちょっとひねた男の役をさせると、彼の右に出る者はない。相手役の古手川裕子も悪くない。二十六年後に初恋が再燃して、熟年男女の不倫に発展、最期は自殺した男の後を追う形で女が果て、共に天国への階段を昇る設定で、ドラマの男女コンビは適役、そういう意味でも見てみたかった。
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紳士の裏の悪魔―「ジェントルマン」(山田詠美)書評

2015-08-19 17:59:44 | カルチャー(祭)・アート・本
久々に山田詠美を読んだ。
2012年に野間文芸賞を受賞した「ジェントルマン」(小説現代に掲載)。

しばらく読んでなかったので、出だしは引っ掛かりスムーズに入っていけなかったが、さすが山田詠美、次第にのめり込み、一気に読み通せた。
ゲイが素材になった小説で、読ませる。いわゆる通俗な面白さではなく、純文学としてよく出来ている作品である。

やっぱり、彼女は別格、大衆文学家の追随を許さない。
デビュー作の「ベッドタイム・アイズ」から愛読しているが、三十年近くたっても才能健在とうれしかった。
たとえば、林真理子と、たとえば、小池真理子と、比べてどこが違うのかというと、文学の品格が漂うというか、純文学として「立って」いる作品である。

いわゆる、一般的な小説とは別格、そこが彼女の特質でもあるが、文学作品としての個性、ぴかりと光るものがあるのだ。

本来芥川賞を受賞すべき作家が、三回落選して、直木賞を獲ったというのも皮肉だが、結局、大衆受けするエンタテイメント作家には転向せず、初心を保って純文学に徹する姿勢、それがほかの作家と違う、山田詠美の山田詠美たる由縁と思う。

河野多恵子との対談で、大衆小説と文学の違いについて述べていたらしいが、彼女の作品はどう間違っても林真理子風にはならない。
凛とした品格が漂う純文学、最近亡くなった河野多恵子も個性の際立つ純文学作家だった。

とはいえ、私は何も林真理子を批判しているわけでない。
林真理子はそれはそれで面白い。小池真理子も達者と思う。
ただ、山田詠美は別格、中間あたりが高樹のぶ子、か。

タイトルのジェントルマンとは、申し分のない紳士の顔の裏で悪徳を繰り返す蠱惑的な両刀遣いの主人公のことで、その名も漱太郎の人物造型が生きている。裏の顔を見せるのは、同性愛の主従関係にある夢生の前のみ、最終的に夢生は、妹(漱太郎の妹)のゲイの恋人を買って関係を結び、直腸を破壊するという残忍暴行殺人を働いた最愛の男性愛人を、花鋏で男根を切って罰死へと至らせる。

スリリングで残酷なラスト、ぜひお読みいただきたい。
特選図書である。
「ジェントルマン」(山田詠美)
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日本持ち帰り文庫評2

2015-08-10 17:30:06 | カルチャー(祭)・アート・本
昨夜、午前四時まで小池真理子の「午後の音楽」を読んだ。
この文庫は、往復メール書簡の形式になっているので、自分も同様の形式の小説を書いたり、メール交換によって恋に陥るテーマのものも書いたりしたので、参考のために買い求めたのだ。

感想はいまひとつ。小池真理子はやはり、地の文を書いた通常小説のほうがよいように思えた。「青山娼館」とか達者ですごくよかったし、それに比べると、少し物足りない。

義理の姉弟の間に繰り広げられる最初は事務的なメール交換が頻度を増すにつれ、男と女のものに変わるという設定で、読者の想像通り、結末は別れである。

二人は異性の情を通じるようになって、三度逢っており、キスまでいっているので、純粋のメール交流だけではない。これまでも、親族として顔を合わせてきたわけであり、それがメール交換によって異性に変わり、実際に逢うことで肉欲を抑えがたく接吻を交わすが、最終的には理性の力で主人公の女のほうが最後の一線を退けるという顛末である。

私のメール小説は、男女の主人公が現実に逢うことはない緊張感のもとに、文字の羅列だけで交わす熱気、プラトニックラブである。

それはさておき、同書の男女主人公はメール本文に感嘆符!を多用、(笑)という用語も頻発するのに、少し違和感を覚えた。感嘆符は私も、ありがとう!!!とか使ったりするが、これはサンキューは三度繰り返すと、感謝の気持ちが強まって伝わると知ったせいである。で、三回繰り返す代わりに感嘆符に肩代わりさせているわけである。
(笑)だが、私自身はこれまで何万通と交わしたメールで、(笑)と語尾についたメールをもらったことは数えるほどしかなく、自分自身は使わない用語だ。

とにかく、男女主人公はパソコンだと、お互いの本音を綴った長いメール、合間の携帯だとショートメッセージと、延々最後まで、往復書簡メールを続けていくわけだが、恋愛小説としてはいまひとつ不燃焼であった。

地の文を書かないため、メール本文に肩代わりさせるしかなく、その意味ではテクニックもいるわけでさすがにプロだけあってこなしていたものの、件名や内容など作為も鼻についたし、男女主人公が実際に逢っている以上、最後までいかないのは不自然な気がした。そのため、燃え上がる情熱が読者に伝わってこない。

夫君の藤田宜永の「老猿」も日本で読んだが、これも中国女性が登場するサスペンスタッチでよく書けてはいたが、とりたててどうということはなく、今回読んだ中でよかったのは、「ぼぎちん」(横森理香)、「苦役列車」「暗渠の宿」(西村賢太)、「溺レる」(川上弘美)だった。

「ロック母」(角田光代)は著者25歳のときから12年の軌跡の、短編を編纂したものだが、退屈な純文学だ。「八日目の蝉」と比べると、面白くなくて途中で投げ出してしまいそうになった。川端康成賞をとった表題作はまだしも、その他の作品はつまらない(「父のボール」は悪くない)。角田はエンタテイメントに転向して、直木賞作家になって正解だったというところだろう。

それにしても、芥川賞候補になる作品はなぜ、こうも退屈なのだろう。受賞作の西村賢太の「苦役列車」はよかったけど、往々にして読むのが苦痛になる退屈極まりない作品がある。
とまあ、自分も純文学志向でつまらぬ小説を書く身としては、大きなことを言えた義理じゃないのだけど。でも、売れてるプロには、退屈させないものを書いてほしい。

瀬戸内寂聴の「藤壺」も拍子抜け、これは源氏物語の原作にあったと推測される光源氏と源氏の義母にあたる藤壺(かがやく日の君)の一夜の情交を描いたものだが、当時の女君は奥ゆかしく、姦通などもってのほかであったことを考えると、藤壺の反応もわかるが、ここは烈しく乱れてほしいところで、唯一源氏の君の背に回した手が女らしい情緒といえばいえるか、ふっと沢田研二が演じた光源氏が、八千草薫の義母を力ずくで奪うなまめかしい情交場面(ユーチューブで鑑賞可能)が蘇った。
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妊婦のSMプレーとハッピーエンド(マミーポルノ三部7)

2015-06-17 18:24:42 | カルチャー(祭)・アート・本
折々このブログでもレビュー連載してきた、「フィフティ・シェイズ」三部シリーズ、総計1700ページ近い長編小説を昨夜読了した。

世界で一億部突破した大ベストセラーである。

三部結婚編のエピローグではすでにヒロイン、アナに第一子(男児)が生まれており、二年後にまた臨月を迎えており(今度は女児らしい)、山あり谷ありの紆余曲折の末に、幸福な家族の肖像で締めくくられる。

SM嗜好の、虐待トラウマの出生を持つ夫、グレイは子供を持つことに恐れを抱いていたが、ふたを開けてみれば子煩悩な父親になっていた。
しかし、驚くべきは、二ヵ月後に出産を控えた妻と、同意のもとの鞭打ちプレーで戯れること。

安定期に入ったからといって、鞭連打とは、臀部で膨れた腹のほうでないから大丈夫といっても、おなかの女児の胎教にはいたってよろしくない。
とてつもなく淫乱な子供が生まれるのではなかろうか。

この夫婦はほんと性懲りもない。
アナもすっかり洗脳されてしまい、おまえの限界を試したいという夫に、官能をうずかせている始末。私自身は、妊娠し、ファミリーになれば、SMはありえないと思っていたため、唖然だ。

個々人のライフスタイルの選択、本人同士がよければ、他人が口を出すことではないが、この夫婦はあまりにも貪欲すぎる。
二十代だから、しかたないか。
虚構のポルノファンタジーだから、よしとしよう。

しかし、こんな男ってありえないし、女のほうもありえない。
作者の都合のいい人物造型。
セックスでは双方ともがテク抜群で完璧すぎ、外見も美しく、超リッチ、毎度のごとく大絶頂の饗宴、こんなの現実にはありえないと反論したくなるけど、事実は小説より奇なりで、現実にはもっとすごいこともありそう?

トラウマ出生だって、結局のところ、男のナイーブさや傷つきやすさの一因となり、女心をくすぐる要因となってるのだから、どこまでも完璧な美男美女ヒロインの典型である。

三部は25章とエピローグ構成、末尾に付録として、男性主人公グレイの観点からの、グレイ家にもらわれたばかりの幼児期のクリスマスの想い出と、アナが初めてグレイのシアトル本社に学生新聞のインタビューに来たときの二人の出会いの場面が、ヒーローの観点から語られる。
男はアナに一目ぼれ、SMのドミ(主人)として鞭を振るったり、手錠にかけたり、つるしたりのファンタジーに浸され、頭の中でファックしまくっていたことがわかり、面白い。すぐに部下にアナの素性を念入りに調べさせ、偶然を装ってバンクーバーのアナがバイトとして勤める雑貨店に顔を出し、後日の顔写真撮影を持ち出されるまで、これから二人の交際が本格的に始まる前で終わる。

つまり、まだまだ続きそうな伏線で、しかし、著者はここでザッツオールとしていったん打ち切り、読者への謝意、サンキューを三連発して幕を閉じている。

そして、この六月に出されたほやほやの新刊「グレイ(Grey)」(アマゾンジャパンでベストセラー一位)が、この続き、男性主人公の側から書かれた物語である。

さすがにトリロジーで充分いささか食傷気味で、この新刊を買う気にはなれない。

とはいえ、英語が平易で読みやすいので、一部だけでも洋書で読まれることをお薦めする次第。
あなたなりに、なぜこの小説が全世界で一億部も売れたのか、要因を探ってみるのも一興ですよ。
Fifty Shades of Grey (英語) ペーパーバック – 2012/4/1
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計算外の妊娠(マミーポルノ三部6)

2015-06-14 19:13:47 | カルチャー(祭)・アート・本
三十年前のSM実体験小説「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」を再読し、新たに衝撃に打ちのめされ、二番煎じともいうべき「フィフティシェイズ」シリーズの続きを読む気が薄れていたが、一昨夜・昨夜と三部の残りを再開し、余すところ50ページまで来た。

いよいよこの1600ページ以上あったトリロジー洋書も、終わりに近づきつつある。
英語が読みやすかったため、三部作でも長いと感じなかったが、結婚編に入ってからは、少しだれてきて、プロットや表現の反復が気になった。

まるで映画のような作り物めいた筋書きも、所詮大衆小説と鼻についた。
文学的価値の高い「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」を読んだ後では、いっそうそう感ぜられ、結局実体験小説には勝てないよな、他愛もないファンタジー、それも冗長にだらだら続いていく、節操のない(性描写が多すぎる)低俗さがつとに疎ましく感ぜられた。

女主人公アナの元セクハラ上司ジャックが自宅に侵入後、夫グレイの手下にこてんぱんに打ちのめされ、獄中入りとなったことと、アスペンでの家族や友人たちとの楽しい休暇(バーで地元の札付きに言い寄られ夫との間であわや乱闘シーンに)まで述べたと思うが、章を改め、アナの義父レイ(実母の二番目の夫、実母は今三番目の夫と同居中)がポートランドへの釣りツアーの帰途自動車事故に遭遇し、救急病院に運ばれる。シアトルから車を飛ばして駆けつけたアナは、意識不明の昏睡状態に陥っているレイにショックを受ける。
夫グレイもほどなく姿を現し終始妻のアナを支える。

ポートランドの高級ホテルのスイートでの滞在、しかし、結婚前夫が実家帰りしたアナを追いかけてきて母容認のもとに同じホテルで睦みあった気分にはなれなかった。翌日はアナの誕生日で、夫は自家用機でアナの母や友人を呼び寄せ、盛大に妻のバースデーを祝う。プレゼントはプラチナのブレスレットにアウディだった。
心配していた義父レイの容態も改善、三日後には意識を取り戻し、アナをほっとさせる。夫と夜の営みをする気にもならなかったアナだが、その夜は、自己謹慎を解いて、バスローブのひもで両ひざを縛られ、ソファの角(頂華)に括り付けられたみだらな恰好で夫の指と舌技に攻め立てられ絶頂を味わい、貪欲に二度目には夫自身を迎え入れていた。

しかし、アナは立て続けにいろんなことが重なったせいで避妊をうっかり忘れ、かかりつけの女医に警告されてあわてて面談、検査を強要され、妊娠していることが判明した。
女医はスキャンの画面で動く胎児を見せてくれた。
しかし、アナは予想外の妊娠に愕然となる。

案の定、夫は怒り狂った。それも思った以上の切れ方だった。
アナ自身、22歳の若さで母になる準備は出来ていなかったが、夫の反応には戸惑い、怒りと悲しみを覚える。

途端に夫婦の仲は冷え込んで、険悪になる。
売春婦だった実母のヒモに虐待された幼児期というトラウマを持つ夫にとって、自分の子供を持つことは恐怖のようだった。妊娠したらセックスも思う存分出来なくなると怒る夫に、子供が出来てもセックスはできるわと反論する。いさかいから、ひとつ寝室で眠ることをよしとせず、アナはSMプレー室で眠る。妻に去られたと思い込んだ夫は狼狽するが、翌朝現れた妻を見てほっとする。その後、夫はアナに告げずに、出張に出た。

夫不在中に、釈放された元セクハラ上司のジャックから、夫の妹ミアを誘拐した、五万ドルと引き換えに解放すると脅迫電話がかかってきて、アナを戦慄させる。他言したら人質を殺すとおどされていたため、アナは警察にも夫にも知らせず、自分だけの判断で夫の小切手帳をもって銀行に駆けつける。支店長は裏でこっそり夫に電話してしまい、秘密の引き出しがばれるが、アナが自分の元を去るつもりで慰謝料を欲しいのだと誤解した夫は、あっさり認める。アナはそうじゃないと反論したくなる誘惑をこらえ、ミアの命を助けるためとっさに嘘をつき、五万ドルをせしめる。現場に現金入りトランクをもって車で駆けつけると、職場の上司エリザベスが車で待っていた。
ジャックとは共謀だったのだ。

ジャックに頬や胸を殴打され、路上にへたり込むアナ、そこに夫が駆けつけ、間一髪の危機を救われる。

おなかの子供も無事だった。
夫は妻の勇敢さの一方の無謀さ・愚かさにあきれるが、家族はミアの命を救ったアナの勇気に感謝していた。打撲傷で病院のベッドに横たわる妻に夫は優しく、片時も離れず介抱してくれた。真っ先におなかの子供の安否を気遣った夫でもあり、アナはやっと、夫が自分の妊娠を受け入れたことを喜ぶ。



というわけで、ヒロインが妊娠するところまできたが、みごもった以上、SMプレーはもうできないだろうな。それとも、子供が無事生まれてしまえば、性懲りもなくおっぱじめるのか。
いずれにしろ、私にとって、作中の男女主人公はまったく魅力的でない。
若すぎることもあるし、お子様ランチだ。
SM、それがどうした、所詮虚構のファンタジーじゃないか、卑俗で扇情的な性描写は一般読者をそそるかもしれないが、現実にSMを体験した作家のインパクトには遥かに劣る。
SMスリラーともいうべき「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」の戦慄するような恐怖を味わった後では、ぬるま湯、なんともつまらない。

ヒロインのアナは出だしは理知的な英文科出身の女子大生という設定で、それなりによかったのだが、話が進むにつれ、ただの色情狂になった。それでもコントロール狂の夫にサブミッシブ(従者)にはならず、反抗的なところや自己主張するところは悪くなかったが、全体を通してみて、矛盾する性癖で大して魅力的でもなんでもない。

しかし、一部と二部はそれなりに楽しめた。

ちなみに、作者のE.Lジェイムズは最新刊として、ファンの要望に応えて、男主人公グレイの側からの物語(「グレイ」)を出したようだ。これまた、ファンに受けてヒットするんだろうな。
読む気はしないが、若い女性読者ははまるんだろうと思う。
私にとってこの男はちっとも魅力的な人物設定でないが、億万長者で翳りのある美男、出生のトラウマからSM嗜好があり、性のテクニックは抜群となると、擬似恋愛してしまうのだろう。
高級乗用車、自家用機、ヨット、豪邸、別荘、女性読者の憧れが募らずにはおれない白馬ならず、一癖ある黒馬の王子様、コントロールフリークの一方でナイーブで傷つきやすい一面も覗かせ、毎度のごとくヒロインにはオルガスムスを味わわせ、豪邸、高級車、旅行、衣装に宝飾品とこれでもかこれでもかのプレゼント攻勢、しかも、チャリティも怠りないときたら、作中のヒーローと知っても恋してしまうのだろう。

私にはリアル感に乏しく、造られたヒーローとしか写らないが。
すべてが作り物めいている、SMのスパイスをきかせたポルノファンタジーだ。

「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」の終始三人称の彼で通し、名前はたった一度だけしか出てこない、ミステリアスなサド嗜好の男、ジョーンのほうがクールでずっと刺激的である。
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SMラブストーリー今昔読み比べ2ー文学と大衆小説

2015-06-06 19:18:49 | カルチャー(祭)・アート・本
昨夜、「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」(翻訳版は「ナイン・ハーフ」)(エリザベス・マクニール、Nine and a Half Weeks/Elizabeth Mcneill)の洋書ハードカバーを半分まで読み進めた。
総115ページなので、あと二、三日で読了できそうだが、中盤まできてこの1978年刊行の実体験に基づくSMラブストーリーの文学的価値にいまさらながら思い当たり、なぜ私が往時打たれたのか、理由をつかむことができた。

おりしも世界的ベストセラーの「フィフティ・シェイズ」三部シリーズが、男女主人公の少し過激なSMプレーで話題沸騰している折、前回の記事で両書の若干の類似を述べたが、現代版SMラブファンタジーの著者が、後者の珠玉の古典ともいうべきSM実体験文学に目を通し、影響を受けたことは間違いないと確信した。

では、この今昔SMラブストーリーの顕著な違いは何か。

「フィフティ・シェイズ」は三部作で1600ページ以上の大作だが、不要な部分、だぶりのプロットが多く、冗長で通俗であること、「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」のような文学的価値に秀でた短編を読むと、パルプフィクション、結局は三文小説、もちろんそれが大衆受けしたのだろうが、性描写は過剰すぎ、反復表現も目立つ。もっとカットして、全体を引き締めることも出来た。私に言わせれば、結婚編は不要、結婚に至るまでの二人の丁々発止の緊張感を描いて終結すべきであった。

対する「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」は、そぎにそぎ落とした文体で、抑えた筆致、性描写もあからさまでなく、何より私がいいと思うのは行間に漂うドライな情感、乾いたクールなラブストーリー、それもインテンスな現実の出来事に基づいているだけに、臨場感がある(蛇足ながら、拙作も乾いた情念が特徴。言われてみれば、わがラブストーリーは日本の恋愛小説のようにウエットでない。しかし、昔からそうで日本が舞台でも、拙作は乾いた作風といわれ、吉行淳之介との類似を指摘されていたのだ。以下、興味のある方は昨冬上梓した「涅槃ホテル」をどうぞ。小説通に乾いた情念とずばりを衝かれたラブストーリー、もちろん著者本人は純文学のつもりです)。

「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」は、空白の区切りの多い、たくさんの節からなる簡潔で力強い文体、そしてラブストーリーにありがちの甘さがほとんどなく、ドライでクールなこと、対して「フィフティ・シェイズ」は甘くてべたべたしていること、通俗な表現と筋書きで過剰描写、結局は想像のラブストーリーでファンタジーロマンに堕していること、先に今現在一億部突破のトリロジーに目を通していたから、元祖SMドキュメント小説の価値は稀少なダイヤのように光った。

これはすごい小説である。

三十年後に読んでもうならされる。

期待にたがわず、初老になってもインパクトを受ける小説で、往時純文学志向の小説家志望だった私がなぜこれほどまでにこのSM実体験小説に衝撃を受けたのか、飲み込めたような気がした。

残り半分を読むのが楽しみだ。

多分震撼させられるんじゃなかろうか。

往時は日本にいた私が、三十年後の今、インドにいて、かつてのアマン(情人)に贈った小説を紐解けた不思議さ、運命的必然、ふっと同じインドにいながらにして未来永劫に引き裂かれてしまった男は今も、私が日本から送ったこの書をキープしているだろうかと思ってしまった。

別の現地男性と結婚し、今大きな息子もいる私だが、この小説に再度巡り会えた幸運に感謝する。

*男は女を愛玩物のように慈しむ。洗髪&バスから、衣服を身に着けさせ、髪を丁寧にブラシで梳かし、手ずから料理した食物を食べさせる、女は甘やかされることに狎れて、男のなすがままになっている、そして、ブルーミングデールデパートで新規購入したけばけばしく大仰な飾りのダブルベッドのポールに手足を縛られ、男の手の甲と掌を交互に使っての、左右の頬へのびんたを食らわされ、強烈な絶頂で果てる。

ハンティングショップで乗馬鞭も購入する男、夜のインテンスなプレーが次第に女の昼の生活を侵食し、仕事も手につかないほどになる。性的虚構、ファンタジーが昼の現実を侵し始める。
男は女の左手だけ自由にした状態で、残りの手足はベッドのポールに括り付けたままで、仕事に出かける。女は自由な片手で不自由なかせを解くこともできるのに、そうはせず縛られたままになって、煙草を吸おうともがく。

これが現実にあった出来事、実体験とすると、すごい関係だ。
男の女への慈しみ方が尋常じゃない。
ちなみに、私自身、恋はいっぱいしたが、このように何から何まで男の世話になるほど可愛がられたことはなかった。
異常といえば、異常な愛し方、偏執狂的な偏愛、しかし身の回りの世話を何から何までやってもらって、セックスでは縛られたりぶたれたりするインテンスさ、これは女の中にある願望、原始の欲望を目覚めさせる窮極のテクニックである。
そういう意味で、この男は実にクールだ。

映画ではミッキー・ロークが演じたが、はまり役だったと思う。
キム・ベイシンガーとのコンビは絶妙、セックスシーンはきわどいが、洒落たラブストーリーに仕上がっていた。ニューヨーク仕込みのファッション、マンハッタンの街並み、男の飼い猫、料理・ワイン、光と影の使い方、効果的な演出でとてもおしゃれな映画に仕上がっていたと思う。

「フィフティ・シェイズ」は動画予告編しか観てないが、これに比べるとお子さまランチという感じで、名画には程遠い。通俗なポルノ紛いの内容のように感ぜられ(原作を踏襲しているといえないこともない)、おしゃれさが画面からにじんでこない。とはいえ、全編通して観たわけでないので、あくまで印象だが。
主役のコンビがいまひとつ。とくに男優は、コントロール・フリーク(狂)だから、がっしりした押しの強さがあっていいのだが、その反面傷つきやすいナイーヴな部分もあるのだから、こちらのヴァリュネラブルな部分が外見見た感じでは伝わってこない。女優の額に垂れた切りそろえた前髪、なんとかならないだろうか。原作ではおさげ髪なのだが。それにとても理知的で美しい女性で、男がその美を何度も賞賛する割には、美貌度もいまいち。



「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」のプロローグ。
男とベッドを共にした回想から始まる出だしは効果的。


ワインレッドの布張りカバーに、タイトルと著者名は金字、
シンプルで美しい装丁だ。
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SM洋書の今昔読み比べ

2015-06-05 17:26:34 | カルチャー(祭)・アート・本
昨夜、昨日届いたばかりの「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」(翻訳版は「ナイン・ハーフ」)(エリザベス・マクニール、Nine and a Half Weeks/Elizabeth Mcneill)に早々に手を出してしまった。

世界的ベストセラーの「フィフティ・シェイズ・フリード」(三部の結婚編、翻訳版はこちら)もまだ半分残っているのだが、つい誘惑に駆られて、三十年前読んで衝撃を受けた「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」のほうに手が伸びてしまったのである。

三節め(*章という顕著な番号による区切りはなく、4-12ページが一区切りで空白の後、次の節にいく形式)の半分まで読んだが、なんとなく「フィフティ・シェイズ」と雰囲気が似ているんである。
男と女の会話のかもす空気とか、ワインや料理の場面、まあ、男と女とくれば、会話は大体似たようなもんで、アメリカが舞台であれば、恋に美味なワインや料理はつきものだろうが、三十年前読んだSMドキュメントの導入部は、私に「フィフティ・シェイズ」を彷彿させたのであった。

「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」は1978年刊行で、86年に映画化され話題になった作品、「フィフティ・シェイズ」三部作の作者E.Lジェイムズが一読し、映画(ナイン・ハーフ、以下動画)も観ていたとしても、不思議はなく、SMがプロットの一環である小説を書くにあたって、昔のSMドキュメント小説に参考までに目を通し、映画もチェックしていたとしてもおかしくない。むしろ、充分ありうることだ。今はアマゾンでオーダーすれば昔の本でもすぐ届く時代、映画もDVDで売り出している。

だから、うがった見方をすれば、真似たともいえないこともないが(あるいは影響を受けた?)、両者の文体には明らかな違いがあり、「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」のほうは文学的表現の気取りがあって、若かりし頃のわがスタイルに通じるところもあり、少し読みにくい感じだ。
つまり大衆に迎合してないだけに、こうした純文学はややもすると受け入れられがたい欠点があり(にしては、当時センセーショナルな話題を巻き起こしベストセラーとなったようだが、やはりSM実体験小説という内容の衝撃さが受けたと思う)、読みやすさは俄然現代版SM小説、「フィフティ・シェイズ」に軍配が上がる。

しかし、大衆受けするだけあって「フィフティ・シェイズ」は低俗で、文学的価値は疑問だ。
純粋に英語読書の観点からだけとると、読みやすいし面白いし、英語のリーディングの勉強をしたい人には、こちらのほうが向いているだろう。

さて、「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」のプロローグは女主人公の、男とベッドを共にした回想から始まる。最初は、私の両腕を頭上につなぎとめ、二度目は私が髪から落としたスカーフで目隠しをし、三度目は絶頂に達しそうになる間一髪のところで中断を繰り返し、四度目はスカーフで手首を縛り、その朝私のオフィスに13本の薔薇を届けた、そのどれもが私の気に入り、テクニシャンの男と恋に堕ちたという告白である。

この導入部は意味深でとても気が利いている。今後に展開する筋書きのスリリングさを彷彿させる効果的な出だしだ。

そして、ページを改めて、第一節が始まる。

五月の朝、ヒロインは女友達と出かけた下町のフェスタでレースのショールを見つけるが、友達にぼろきれ紛いでみすぼらしいといわれ、いったんはその場を去る。が、洗って手を入れれば使えると思わない?と女友達に意向を問うと、混雑に紛れて友達の姿はなく、背後に立っていた見知らぬ男に、もしほんとにそう思うなら引き返すべきだと意見される。怪訝な顔を向けると、ストリートフェアで未知の者同士が出会うのはよくあることと煙にまかれ、女友達からはぐれたのを幸い見知らぬ男と肩を並べて歩き出す。この出会いの場面は二、三行のあっさりしたもので、とにかくフェスタでたまたま会ったミステリアスな男との関係がその日からスタートするのである。

当日ディナーを共にし、日を置かずして自分のアパートに誘い、その後、男のアパートに招かれるも、男の友人が突如押しかけ、女は二階の寝室へと押しやられ、退屈しのぎにクロゼットを盗み見する。未知の男の衣装や装身具、履物・スポーツ用品を物色する場面で、グッズの描写が延々と続いていく。少し退屈だが、黒か白かブルーかグレー、ピンク系統しかまとわず、ジーンズが一本もなく、帽子もない見知らぬ男の性癖がおびただしい衣装の間から、おのずと浮かび上がってくる。

それにしても、この男は衣装もちだ。女主人公はおのれのクロゼットの中身や、部屋の内装と比べたりしてずいぶん違うと思ったりするのである。

男の友達が帰った後に、初めてベッドに誘われるわけだが、性描写は数行、「フィフティ・シェイズ」のような露骨な生々しさはないが、短文のなかに男がプレーの一環で女の頬を張り倒す場面が出てきて、効果的だ。
SMの端緒、伏線だが、「フィフティ・シェイズ」を読んだ後では、少し物足りなく感ぜられるほど、淡白だ。

休日の土曜日二人用のベッドを買いたいという男に強要されて(女は今のキングサイズで充分なのにとぶつぶつ文句を垂れるが結局折れる)、マンハッタンの有名デパートBloomingdalesで家具場巡りをすることになる。ここでまたソファやテーブル、テーブルの上に置かれたグラス、花瓶(家具コーナーのモデルインテリア)、ベッドなど家具の描写が延々と続く。

ここまで読んで、ひとまず差し止め、「フィフティ・シェイズ」三部の残りに取り掛かった。

まだ「ナイン・アンド・ハーフ・ウィークス」は最初の部分にかかっただけで、全部読み通したわけでないのでなんともいえないが、あれ、こんなだったかという、ちょっと拍子抜けの冒頭。
英語は少し読みにくい。

難しいわけではないのだが、文体に癖がある。
でも、こういうところなんか、私の若い頃の気負った悪文に通ずるところもあり、ちょっと面映い(昨冬上梓した拙著「涅槃ホテル」に顕著です)。
いわば気取りのある文章である。

こんな感じの冒頭だったが、中盤から終盤にかけておっと言わせてくれるだろうか。

三十年前の衝撃が果たして、蘇るか。

またお伝えしたい。


夫名宛に届いた小包。送り人は西インドのグジャラート州都
アーメダバードのミュージックカンパニーとなっていて、
値段は日本円で1000円ほど。息子にネットチェックして
もらった最安値商品だったが、絶版のため高かった。
インドにしては、きっちりした包装で、プラスチックの包み
で幾重にも巻かれていた。保存状態は良好。
楽天ブックスではハードカバー洋書は1458円


杏色の布張りのハードカバー、背文字のタイトルと著者名は
金字。シンプルだが、洒落ている。
全117ページ。26ページまで読み進んだところ。
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SMプレーで、危険信号「レッド」の連発(マミーポルノ三部5)

2015-06-03 21:21:22 | カルチャー(祭)・アート・本
世界で一億部突破の「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」(翻訳版はこちら)の第三部「フィフティ・シェイズ・フリード」(翻訳版はこちら)を12章、全体の半分まで読んだ。

三部の結婚編は、前にも書いたが、マンネリ気味で、性描写やプロットも反復が多く、いまひとつ。
目玉の性描写で目新しいことといえば、妻のアナが、SM室で壁の巨大なクロス(十字架)に手かせ足かせされ、バイブレーターと夫の指で攻められ、あわやいきそうになるとストップするという、じらし戦術を無限に繰り返され、ついにセイフワード、レッド、レッド、レッドと連発してしまうこと。

アナは夫の残酷な仕打ちに泣き出してしまうわけだが、SMプレーをそそのかした自業自得で、夫ばかりをコントロール狂と非難できない。
自分はサブ(SM従者、性的奴隷)じゃない、サブになれないといいつつ、せっかくSMごっこから離れつつあった夫を、夫に開発された貪欲な性欲のなせる技で自分からプレーをそそのかし大人のおもちゃや、手錠・足かせ、縛りなどの苦楽の分かちがたい絶頂を味わうわけで、今頃、危険信号を発したって、ここまでエスカレートさせた原因は自分にあるのだから、しらける。アナも本当に正常な(バニラ)セックスのみを求めるなら、夫を触発しての危険なプレーへと導くまねはやめるべきである。

じらし戦術は、アナにとって何より耐え難い拷問だったわけで、アナは結婚前の、自分が一時期男の元から去る原因になったベルトの鞭打ちの痛さを思い出していた。しかし、あのときは圧倒され、セイフワードすら出ず、なすがままになっていたが、妻になった今は、エスカレートするプレーについに我慢の尾が切れて、叫ぶように危険シグナルを連呼していたのだ。

危険信号を発された夫はすぐに行為を中断、ぐったりしている妻の裸体を掬い上げ、寝室へと運び、謝りつつ懸命になだめすかし、アナも気持ちが落ち着いていた。その後、夫婦としての自然の性愛の深まりへと導かれる。アナは初めて、夫と深い肉体の交歓をしたように感じ、満足していた。

夫は結局のところ、妻がニューヨーク出張中の彼の命令に逆らって、女友達とバーに繰り出し飲んだこと、それをすぐに電話報告しなかったこと、その間、住まいに妻の元セクハラ上司が侵入し、誘拐しようとしたことで切れてしまったわけで、罰のためのじらしサドプレーをしかけたわけだが、妻には理不尽な仕打ちに思えてならなかった。
結局外に飲みにいったことで元上司の牙から救われたわけで、中に入ると、男の手下の手で侵入者はこてんぱんにのされており、刑務所行きとなったのだった(この部分は、結婚前、男の元サブが住まいに武器を持って侵入したプロットと重なる。結婚前は女のストーカー、結婚後は男のストーカー、一度使えば十分、プロットの貧しさを思わせる)。

アナは、コントロールフリークの夫に今後、どう対処したものかと思い悩む。夫専属の精神科医は結婚前、疑わしきは罰せずで、男がアナに夢中なことを告げ、このままでいってみろ、つまりサドの男にこれまで通り、サブでなく、自己主張の強い自分そのままの気質で意に沿わないことがあるときは逆らえといったわけだが、故意に反逆を装った部分はなかったろうかといぶかるのであった。

夫は、妻への謝罪の意味もこめて、アスペンへの自家用機ツアーをプレゼント、機内にはアナの女友達ケイトとそのボーイフレンドで夫の弟のエリオット、ケイトの兄や夫の妹も同乗していて、アナを喜ばせる。
機内でアナは情報通のケイトに、元上司ジャックは単独犯でなく、共犯者がいるようだとほのめかされる。頭に浮かんだのは、夫の元サブ、エレーナだったが、夫は否定する。ジャックはデトロイト生まれで、夫も実はデトロイト出生だと明かす。何か裏がありそうだった。

夫がアスペンに所有する別荘はゴージャス極まりなかった。美しいロッキー山脈、アナは得体の知れぬ影に脅かされながらも、当面はスキーをマスターし、楽しもうと気持ちを逸らす。
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スナナ・ヤトラ(聖浴祭)

2015-06-03 19:02:39 | カルチャー(祭)・アート・本
本日6月2日は恒例の、スナナ・プルニマ<スナナ=沐浴・ヤトラ=祭りともいう>(沐浴満月)祭であった。
来月18日の19年に一度のナバカレバラ大祭の前祭ともいうべきお祭りで、平等主義を標榜するユニバースロードであるジャガンナート主神(ヒンドゥ教のクリシュナ神やビシュヌ神の化身でもある)、兄のバラバドラー神、妹のスバドラー神の三位一体神の偶像がそれぞれ寺の北門にあるスナ・クナ(黄金の井戸)から汲まれた108杯のハーブ入り聖水を屋外の沐浴場で注がれ、その後熱病を患われて病室(アノサラゴロ)におこもりになる儀式である。

病室では専属の侍医が45日間、ハーブ入りの自然薬(古来のアユールヴェーダ療法)を神々に供され、回復を見守るのである。

これ以降、三位一体神には謁見禁止となるため、古い偶像にお目見えするのはこれが最後ということになり、そのせいで、60万名もの信者がグランドバザールの本殿、ジャガンナート寺院に詰めかけた。

今年はナバカレバラといって、偶像が新たに作り変えられる奇祭の年にあたっているため、19年間慣れ親しんだ旧偶像で行う儀式はこれがラストとなり、信者にとってもお別れの儀式、沐浴後象の神様・ガネーシャ神を模した冠をつけられた(ガジャ・ベシャ)三位一体神をひと目拝まんと(謁見できた人は、あらゆる罪の穢れから浄化されるごりやくを賜る)、巡礼旅行者がどっと押しかけ、物々しい警備が敷かれ、門前通りは拝謁の順番を待つ黒山の人だかり、大混雑した。

先の3月29日から55日間かけて、新しい偶像を作るための神木探しが行われ、無事ほら貝、蓮、車輪、鎚矛の聖なる四シンボルが幹にある原材が四本(スーダルシャン車夫神も含む)見つかったことは既にお伝えしたとおりだが、6月3日の明日真夜中からいよいよコイリバイクンタという人目に閉ざされた密室で、代々の大工(ビシュワカルマ)が新しい偶像作り(身長はほぼ等身大だが、横幅は人間の三倍ほど)に取り掛かるのである。6月15日に新偶像は完成する予定で、その後古い偶像からブラフマー(神霊)の移し変えが行われるめずらかな儀式が催される。

そして、旧偶像は人間の死同様、ご逝去を悼まれ、神木の傍らの土中に恭しく埋葬されるのである。

一般信徒が新偶像にお目見えするのは来月18日の山車祭りまで待たねばならない。それまで、謁見はシルクの布地に描かれた三枚の神々の絵(パタ・チトラ)が代理を務める。

本番では、45日間のおこもりで回復された三神が、3キロ離れた叔母のまします誕生寺院、グンディチャテンプルへと静養のため、三台の本殿を模した巨大な山車でお発ちになるという設定。日ごろ聖域に祀られ異教徒の拝観は禁じられている三神が年に一度のこの機会だけ、人間のようにお出ましになり、宗派を問わず人々に祝福を垂れるのである。
帰社祭が十日後に催され、三神はまた山車にお乗りになって、信者の手に惹かれてグランドバザールの大通りを練り歩き、元の本殿にお戻りになるのである。

以下、当オディッシャ州の母語オディアによるローカルニュース動画をどうぞ。
SNANA PURNIMA
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アナルプラグと痴話喧嘩(マミーポルノ三部4)

2015-05-28 17:21:14 | カルチャー(祭)・アート・本
世界で一億部突破の「フィフティ・シェイズ・オブ・グレイ」(翻訳版はこちら)の第三部「フィフティ・シェイズ・フリード」(翻訳版はこちら)を第九章まで読み進んだ。

カーチェイス事件の興奮から夫をSMプレー室に誘った妻アナは、初のアナルプラグ(肛門詰め性具)体験を賜り、これまでのどんな刺激的なプレーよりも強烈な絶頂を覚え、失神していた。

夜ごとの性カーニバルで幸福の頂点にある一方で、夫はアナの勤める出版社に乗り込んできて、アナ専用の個室で妻がいまだに旧名を用いていることを烈しく詰る。
アナはしきりに弁明しようとするが、夫は聞く耳を持たず、今にも社内の一室で妻に性的攻撃を仕掛けそうになった。

夫が買い取った出版社でもあり、同僚の手前、そのオーナーの姓を名乗ることにためらいがあったアナだったが、夫は驚きあきれることに、アナに出版社経営までそそのかす始末だった。アナは夫のような経営手腕はないと、めっそうもないと退ける。

結局折れて、グレイ姓を名乗ることになったが、威圧的に妻を支配下に置こうとする夫に対する怒りはいまだくすぶっていた。
ゴージャスな新居の改築デザイナー、金髪ボブ美人が相談に訪れ、夫に愁波を送るのにアナはかちんときて、夫が仕事で急遽席を外さねばならなくなったのを幸い、女に詰め寄り、ちょっかい出すなと怒りのままに通告する。昼間夫が勤務室に駆け込み今にも自分を犯しそうになった出来事に触発されての、暴発だった。

アナは、結婚前下見に行った大豪邸をなるたけそのまま保ち、改装は最小限にとどめたかった。女性デザイナーは恐れ入って、アナの希望を受け入れる。


ちょうど三分の一まで読み進んだことになるが、どうもマンネリ気味で面白くない。それに不要な性描写が多すぎる。反復表現も気になるし、感じた妻がアーとかウーとかの感嘆詞を会話に発するのも、英語だから気にならないが、日本語に訳せば、低俗なポルノに堕してしまうこと、間違いなし。宇能鴻一郎の先生(医者)と看護婦の濡れ場を思い出すごとく、ああ、うーっ、わーの連発である。

邦訳がこの辺、どう処理しているのか気になるところ。
女の歓楽のうめき声を感嘆詞で入れれば、安っぽくなってしまうことは否めない。

どうも結婚編は面白くない。
惰性で読んでいるが、それでも、英語が平易なのでページは進む。
これから先、読者をおっと言わせてくれる場面にぶつかるか。

シアトルのスカイラインが真珠色の光に沈む黄昏描写は短文だが、気が利いている。自然描写は多くないが、リリカルで美しい。
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