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HonuのMacDogMusic部屋

Macと愛犬と音楽を連れづれに

「八重の桜」会津編、いよいよクライマックスに!

2013年06月30日 | 歴史

 6/30放送は、いよいよ会津戦争が頂点に、否応なしに気持ちが高ぶります。家訓~御宸翰~奥羽越列藩同盟旗~スペンサー銃~ワッフルベーカーなどが見られる県立博物館「八重の桜」特別展もまもなく終了だし、時節到来。

 果敢にも恩顧に報いるべく会津城下を再訪し、西軍が砲台を仕掛ける前に小田山に先乗りし、陥穽とくくり罠を仕掛けようぞ!
と企図しました・・ヘ(。>_)ノ

 TD "Beach Theme"~PF "One Of These Days"~MSG "Into The Arena"~Wagner "ワルキューレの騎行"~CB "Needled 24/7"をBGMに、
締めは"ソースカツ丼"だーといきり立つ [會]ヾ(`0´)/

 しかし、小田山にも熊出没注意の情報があるじゃないですか!
そして何と腹ごしらえ準備中、フライパンの厚手のガラス蓋が波動砲を浴びたように木っ端微塵に!シュレディンガーの猫たん状態となり、あえなく頓挫しました┌(┌ 。A。)┐

※あ、ひょっとして、熊注意とは白熊(長州),赤熊(土佐),黒熊(薩摩)のことだべか (´∵`)?


白河口から白石会議へ怒濤の進撃、レッツ・パーリィ!?

2013年06月28日 | 歴史

 白河口ポルシェの館にて、数台乗りつぶしたという紳士のご高説を賜った後、一気に伊達政宗の右目、片倉小十郎景綱の由来の白石まで駆け抜けるも、宿なく福島までもどって参りやした。わしは... _| ̄|○ i|||||| ぅぅぅ…

左奧に、ポルシェカレラのパーツがはめ込んである...911Carrera2のリアエンジン・フードですかねぇ?カレラというと、滝、生沢の906 Carrera6 vs 黒澤、国光のNissanR380の死闘が蘇ります...

くだんの紳士は、フェラーリとポルシェの違いを話されていました・・・Fのエンブレム跳ね馬はPからいただいた、Fはエンジンを中心に設計し、Pは操縦性からエンジンを設計する等々。

Nut Rocker、粋だね!
後ろに置いてあるのMacBookかな?

愚かな怪進撃はこのあとすぐ...orz


八重の桜、佳境に入ってまいりました、それにつけても

2013年06月20日 | 歴史

Windows7 本日も"応答なし" 頻発すれど、"ありがとなし"とつぶやく私、
いと めんこいなり 八重のさくらんぼ 。^。

 "応答なし"と"ありがとなし"という真逆な用法がToo muchな生活に、"さくらんぼ喰いてえ"という気分になりました。応答≫桜桃、W8≫八重のだじゃれでした ^^*;;

白河口W7落ちまくりは、兵站不足のせいだと思います・・で、先ごめ銃(95スタイル)で使用。元ごめ式(W8)にはスタートメニューないんですよね。文明退化の音がする!?

 ・・そして、IE8の「問題が発生したため、Internet Explorerを終了します」を解決するのに2ヶ月要しました。(T^T;


「八重の桜」で春の信長祭り

2013年05月06日 | 歴史

大山巌(反町隆史)登場で、奇しくも西軍の有力者に信長がそろい踏み!
西郷隆盛(吉川晃司)、木戸孝允(及川光博)、板垣退助(加藤雅也)
・・こりゃ~、ちぇすっど!

東軍も立て~、立つんだ頼母殿!
それにつけても、1611年、西田敏行が侍女に松本幸四郎を授けなければ、
会津藩の悲劇は防げたのかも知れませんねぇ..(歴秘ス黒田アナ風で)


民の赦免訴えた謝罪書(松平容保上書写)

2013年04月29日 | 歴史

この連休、会津若松は「八重の桜」放映もあって大変な人出のようですね。お城一面の桜は絢爛豪華で見事ですが、特に憂いを秘めて春風に舞い散る様に、えも言われぬ感慨を覚えたものでした。
・・・
 明治元年9月22目、会津若松城の大手門に「降参」と書かれた白旗が掲げられた。1か月にわたった会津藩と新政府軍との戦闘が終了した瞬間であった。同日正午、大手門前に旧藩主松平容保が姿をあらわした。正式な降伏の儀式である。この時に降伏の謝罪書が提出された
 謝罪書では、朝廷に敵対して会津の地で抗戦したことを、許されざる大罪を犯したと述べ、同時に領民には辛い苦しみを受けさせてしまったと書き記す。そのため自らの命も差し出して御聖断を仰ぎ、さらに会津の民の御赦免の嘆願を加えている・・・(読売新聞ー江戸博 蔵めぐり)

※西軍側は、参謀板垣退助ではなく、人斬り半次郎こと軍監中村半次郎。農民出で無学文盲のため、謝罪書を読みもせず付き人に廻してしまった。その横柄な態度に怒る心を抑え、この屈辱を忘れまいと、降服式に参列した家老たちが、緋毛氈を裂いて各々持ち帰り、泣血氈として後世に伝えられたとか・・

※崇高な会津魂も、戊辰戦争後のヤーヤー一揆やイギリス人医師ウィリスの手記などでうかがい知るに、封建国家の枠内、藩士(郭内の2万人)の世界でのことであり、アテネの民主主義のように犠牲の上に成り立っていたと思われます。
しかし、この書面から、容保公が王城の護衛者から朝敵・逆賊に貶められたことばかりでなく、会津の民を深く慮り、その後の人生を宮司としてつぐなったであろうことが、晩年の写真ににじみ出る悲哀の意味とともに感得出来ました。