わが輩も猫である

「うらはら」は心にあるもの、「まぼろし」はことばがつくるもの。

泣いたアメリカ人=藤原章生

2009-01-30 | Weblog

 ねむの木学園の宮城まり子さんから、生徒たちの絵の鮮やかなカレンダーが届いた。お礼の電話をしたら「きのう、学園にみえたの」と、シーファー米大使の話をしてくれた。

 大使は今月15日、日本を離れ、テキサスに帰った。静岡県にある学園を訪れたのはその3日前だ。07年5月、展覧会で生徒の絵を知り、宮城さんと親しくなった。「私のオムレツを食べ、生徒の歌を聞いて。別れる段になると、涙をポロポロ流して。奥様と2人で泣いて、子供たちが『涙がまっすぐ落ちてくる!』とびっくりしてました」

 少し意外だった。シーファー大使といえば、首相を威圧しかねない、こわもての印象だったからだ。それにアングロサクソン系の男は人前ではあまり泣かないといわれる。

 宮城さんと生徒たちが醸し出す森の雰囲気に心を洗われたのだろうか。「ねむの木が大好きです。こんな国はないから、ここで働く人は本当に幸せです。皆さん、それを誇りに思ってください」。学園でそう話した大使だが、日本を好きになったかどうかはわからない。大使はこれに先立つ記者団との懇談でこう語っている。「大使公邸にふんぞり返っている時代は終わった。大使は外へ足を運び、国民とつきあうべきだ」。宮城さんらとのつきあいが、彼には特別な事だったのだろう。

 61歳。退任は表舞台から去ることを意味する。4年近くの任期中、首相が4人も入れ替わる日本では、思った仕事もできなかっただろう。「心残りな様子でした」と宮城さんは言う。一線を退く間際、万感の思い、さびしさが、職業人を襲ったのかもしれない。(ローマ支局)





毎日新聞 2009年1月18日 東京朝刊


たのもしい=落合博

2009-01-18 | Weblog

 「鎌倉時代の武士たちは、『たのもしさ』ということを、たいせつにしてきた」。これは、司馬遼太郎さんが小学校6年生の教科書に書いた「二十一世紀に生きる君たちへ」の一節。文章は続く。

 「人間は、いつの時代でもたのもしい人格を持たねばならない。人間というのは、男女とも、たのもしくない人格にみりょくを感じないのである」

 社史研究家、村橋勝子さんの「カイシャ意外史」(日本経済新聞出版社)は逆境下で起業した人々の軌跡を描いた好著で、勇気づけられる。

 総合食品メーカー、味の素の土台を築いたのは、農家から嫁いだ鈴木ナカ。夫に先立たれた後、薬品の原料となるヨードを海藻から抽出製造する事業に乗り出す。築いた資産は死後、息子が始めた大事業(グルタミン酸ナトリウムの工業化)を支え、味の素は今年、創業100周年を迎える。

 不況を理由に各企業が人員削減を進める中、日本電産は社員約1万人の賃金を1~5%カットする。社長の永守重信氏は「雇用は、城にたとえれば天守閣」(4日付読売新聞)と言う。

 人減らしは絶対にしないという、強い意志に基づいた経営判断であり、痛みを感じつつも、安心する社員は少なくないのではないか。

 昨年5月まで駐米大使を務めたプロ野球の加藤良三コミッショナーは言っている。「日本にはオプチミズム(楽観主義)が足りない。決断、決意をもってすれば、事態は打開されるというエネルギーが日本にはあっていい」(9日付毎日新聞)

 頼りになるのは「さもしい」ではなく「たのもしい」だ。(運動部)





毎日新聞 2009年1月17日 東京朝刊

ブラックベリー=福本容子

2009-01-18 | Weblog

 もうすぐ大統領、のオバマさんは、どうやら強力な味方と、しばらくお別れみたいだ。

 その名はブラックベリー。カナダのRIM社が開発した電子メールやインターネットが便利な携帯電話である。次期大統領は中毒と呼ばれるほどの愛用者で、侍の刀のようにいつもベルトの腰に着け、選挙戦中も親指で小さなキーボードに文字を打ち込む姿がキャッチされた。

 懸命の訴えもかなわなかったか。利用不可の理由は主に二つだ。まず暗号化されたメールが何者かに解読される情報漏れの恐れ。そして情報公開法によりメールの開示を求められ、思わぬ面倒に巻き込まれる心配で、側近や弁護士が譲らなかった。

 なぜおもちゃのような小さな機械にそれほど執着する? 先週、米CNBCテレビで本人が話していた。「ホワイトハウスの外とのコミュニケーションを保ちたいのです。(側近が)用意する管理された情報とか、いつもいい話しかしない人、私が部屋に入るとき起立して迎える人からの情報ではだめだから」。外界から遮断され、守られたカプセルの中に住みたくない、との抵抗である。

 人気の高い権力者の周囲にはイエスマンが集まる。企業の世界もそう。斬新さが魅力だったトップも成功するにつれ、批判が耳に届かなくなり、判断を誤ってしまうことは珍しくない。

 肝心なのは自分が間違えているかもしれないと疑う心を自信と同じくらい大事にし続けることなのでは。新大統領はブラックベリーを使えなくなっても、目立つ所に置いておけばいい。画面の文字の奥にある批判の声さえ必死に分かろうとしていた自分を忘れなければ大丈夫。(経済部)





毎日新聞 2009年1月16日 東京朝刊

国民運動!=与良正男

2009-01-18 | Weblog

 首相だけでなく、官房長官や与党幹事長らには新聞やテレビ、通信社十数人の記者が担当として張り付き、年中、追いかけ回す取材が続く。番記者というヤツだ。ところが、ポストを外れると様相は一変する。

 かつて、あるベテラン議員が要職を離れた途端に誰も取材に来なくなったのに驚いて「君たちも冷たいものだ」とぼやいたのを思い出す。取材する、しないはニュースになるかどうかが大きな判断基準。確かにマスコミは現金である。

 だから渡辺喜美元行政改革担当相はこれからが大変だ。耳目を集め続けた離党話にけりがつき、しかも、当面、同調者は少なさそうだとなれば、マスコミの関心は薄れていくだろう。

 それでも私が少し注目したいのは、渡辺氏が「これから永田町の外から国民運動を起こす」と言っている点だ。

 どう運動するのかは不明。絵空事と片づけるのも可能。だが、それは今の自民党へのアンチテーゼというだけでなく、とかく「何人造反すれば衆院で再可決できなくなる」などと政治家以上に政局目線でとらえがちな私たち政治記者への挑戦状でもあるように思えるのだ。

 永田町だけでは政治は変わらない。変えるのは国民だ。そんな当然の話をばかにしていては希望もなくなるではないか。

 小選挙区制になって新党結成は難しくなった。資金も要る。それを承知で注文すれば、この際、新党を作るなら、現職に頼らず、1人でも2人でも新人候補を発掘したらどうだろう。大半が新人ながら一定の勢力を得た旧日本新党の例もある。その程度はしないと国民運動にはならないと言ってもいい。(論説室)





毎日新聞 2009年1月15日 東京朝刊

パート切り=磯崎由美

2009-01-18 | Weblog

 3学期が始まった。娘たちを学校へ送り出し、ゆみこさん(45)は車で40分のハローワークへ急ぐ。整理券をもらって順番を待ち、ようやくパソコンに向かっても、子育てと両立できる求人は見つからない。

 兵庫県に住むゆみこさんは昨年秋、建設関連会社のパート事務の職を失った。7年前に夫をがんで亡くしてからここで働き、母と子2人を養ってきた。会社は当初「子どものことを優先して」と理解してくれたが、建設不況で人減らしが始まる。昨年夏、娘の病気で数日休むと「もういいから」と言われた。

 月10万円の手取りがなくなり、支給された失業保険は月8万円余り。それも会社が自己退職扱いにしたため、3カ月しか受給できなくなった。役所に相談に行った。「どうやって生活したらいいんですか」。詰め寄っても返事はなかった。

 派遣労働者より低賃金のパート労働者にも契約切りが広がる。パートの7割は女性だ。人件費を減らしたい企業はパートへの依存度を高めてきたが、ここにきて求人は減少。加えて契約社員を安いパートに切り替える動きもある。年末に緊急相談を実施した連合岩手には今も相談が絶えず、三浦清副事務局長は「雇用危機が地場の中小企業にも及んでいる。余裕がないからパートに出るのに、働けなくなったら家族の暮らしはどうなるのか」と危機感を募らせる。

 政治の注目を集めた派遣村の失業者207人に生活保護の支給が決まった。ゆみこさんの失業保険は2月で切れる。「経理や簿記の資格を取ったのに、何の役にも立たない。子どもがいる女性の雇用創出にも取り組んでもらえないものでしょうか」(生活報道センター)





毎日新聞 2009年1月14日 東京朝刊

そしてオバマ演説は=玉木研二

2009-01-18 | Weblog

 歴代米大統領の就任演説で最も有名なのは1961年1月20日、ケネディが行ったものだろう。「国が何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国に何ができるか自問してほしい」のくだりは今もしばしば引用される。43歳。雪景色のワシントンに響く力強い演説は、彼が使った言葉そのままに「松明(たいまつ)は新世代に引き渡された」ことを実感させた、と伝えられる。

 側近で演説執筆者(スピーチライター)だったソレンセン元大統領特別顧問の著「ケネディの道」(大前正臣訳、弘文堂)によると、彼は事前にケネディの依頼で過去の就任演説を全部読んだ。ほとんど見分けがつかないしろもので、史上最低の大統領たちが最高に雄弁であることを発見した。ケネディは「人民の人民による人民のための……」で有名なリンカーンのゲティズバーグ演説の「秘密」を探れと言った。分析すると、リンカーンは用語が簡潔で1語で間に合えば絶対に2語、3語と余計な言葉を使うことがなかった。さすがだ。これはケネディ演説に応用された。

 ケネディは「口ばかりと思われたくない」と20世紀最短の演説にしたがり、「『私』を全部『我々』にしよう」と手を入れた。慌ただしく改稿を重ね、仕上がりは式前日だった。

 この年産声を上げたのがオバマ次期大統領だ。47歳。彼にケネディ再来の夢を重ねた米国民は少なくない。ケネディがそうだったように次期大統領もまたリンカーンを意識し、20日(日本時間21日)の就任式の宣誓ではリンカーンの聖書を使う。そして演説にはどんな刻苦の跡が浮き出てくるか。その時、80歳のソレンセン氏がじっと耳を傾けているはずである。(論説室)





毎日新聞 2009年1月13日 東京朝刊

「オバマ待ち」の危険=福島良典

2009-01-18 | Weblog

 国際ニュースの読み方の一つは、報じられた出来事の深層を流れる地下水脈を探ることだ。推理小説の展開を想像するような醍醐味(だいごみ)がある。

 チェコが旧ワルシャワ条約機構陣営初の欧州連合(EU)議長国に就任した1日。10歳の誕生日を迎えたユーロに旧東欧のスロバキアが加わった。同じ日、ロシアがウクライナ向け天然ガスの供給を停止し、7日までに欧州十数カ国でロシア産ガスが届かなくなった。

 浮かび上がってくるのは、版図拡大を続けるEU・北大西洋条約機構(NATO)の欧米連合の影におびえるロシアが揺さぶりをかけている構図だ。

 競争は中東・アフリカにも飛び火した。ロシアは海賊対策でEUの一足先にソマリア沖に艦船を急派。ガザ情勢では欧州の機先を制して中東諸国に特使を送り、仲介を申し出た。

 欧露に共通するのは、オバマ大統領就任前の「米国の不在」の間に、国際情勢をできるだけ自陣営に有利な形にしておこうという、したたかな計算だ。

 国益追求型の外交が荒々しい顔をむき出しにする時、利害衝突の火花が散る。だが、やけどを恐れて、火中のクリを拾いに行かなければ、国益の実現も、紛争の解決もおぼつかない。

 「まず、オバマ大統領の外交姿勢を見極めてから」という日本政府関係者の発言をよく耳にする。残念ながら、そこに、自分たちの力で世界を動かす気迫は感じられない。

 多極化した今の国際社会は、群雄がしのぎを削る戦国時代だ。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」(日本国憲法)するのであれば、「オバマ待ち」している時間はない。(ブリュッセル支局)





毎日新聞 2009年1月12日 東京朝刊

怒りのスクラム=渡辺悟

2009-01-18 | Weblog

 1969(昭和44)年1月の毎日新聞を広げた。東大紛争で連日1面、社会面大展開だ。


 「ついに機動隊再出動」「百余人が重軽傷」(10日)
 「事態収拾へ10項目」「駒場で両派激突」(11日)
 「入試なお流動的」「4学部スト解除」(12日)


 紛争の経緯は別として、時代全般、怒りの沸点が低く、若者たちは何事につけ、衆を頼んでたて突き、声を張り上げた。

 40年後の大学に「内定取り消し」の逆風が吹きつけている。厚生労働省は内定を取り消した企業名を公表する基準を「2年連続」「10人以上」などと決めた(8日)が、かつての学生たちならどう反応したろう。

 切る側にも事情がある。が、切られる側にはもっと切実な事情がある。それにしてはキャンパスは静か過ぎないか。個人個人が切り離され過ぎてはいないか。「年越し派遣村」の入村者が国会にデモ行進し、生活保護を集団申請した記事に拍手を送ったのは私だけだろうか。

 厳しい雇用情勢を打開するため、年明けから「ワークシェアリング」(仕事の分かち合い)という言葉が出始めた。ワークシェアリングといえば7年前に政労使が推進で合意したはずだが、その後進んだ形跡はない。当時注目された「オランダの成功」も忘れ去られたようだ。

 今回もうやむやに終わらせないために何より必要なのは、切られる側の怒りだ。その怒りをつなげなければ、切る側の事情がそのまままかり通る。

 鋭いホイッスルを合図に左右の見知らぬ若者と腕を組むと、変に温かかった。この生身の連帯をネット世代に知ってもらいたいと思う。(編集局)





毎日新聞 2009年1月11日 大阪朝刊

他者の痛み=萩尾信也

2009-01-18 | Weblog

 「あなたに私の痛みが分かりますか?」。NPO「東京自殺防止センター」のボランティアたちが、電話で相談してくる人(コーラー)たちから突きつけられてきた問いである。

 痛みは極めて主観的なものだ。コーラーの苦悩に重なる体験があったとしても、他者の痛みを安易に理解できるものでないことを、ボランティアたちは体験の中で学んできた。加えて、体と心の痛みは複雑に絡み合い、そのありようは時代状況や社会環境などに左右される。事実、不治の病を告知された人々や、失業して路頭に迷う人々の苦しみは実に多様だ。

 「体の痛みは医学の進歩で過去10年間でかつてなく改善されたが、薬では解決できない心の痛みがある。それは患者と向き合い、受け止めようと努める中でしか活路を見いだすことはできない」。これは、横浜でペインクリニックを開業する医師の言葉だ。片や、年末年始に東京・日比谷公園の「年越し派遣村」にはせ参じたボランティアは言う。「ワークシェアリングというものは、国民全体で痛みをシェアするという意識が生まれない限り実現は難しい」

 なのに、派遣村に関して坂本哲志総務政務官は「本当にまじめに働こうとしている人たちが集まってきているのか」と発言した。自ら当事者たちと向き合うこともせずに発した貧困な物言いである。

 自殺防止の電話に私が一人のボランティアとして、年越しの電話番に入るようになって5年。殺到する電話に接して、フランスの批評家、モーリス・ブランショの言葉を思い出す。

 <痛みとともに(人は)考えることを学ぶ>(社会部)





毎日新聞 2009年1月11日 東京朝刊

ドアの向こうに安全がある=西木正

2009-01-18 | Weblog

 通勤のホームで、電車が入ってくる瞬間、いま体がふらついたり、人に押されたら、とヒヤリとすることがある。お酒が入っているときはなおさらだ。

 先月初め、大阪市の阪急三国駅ホームで、落語家で視覚障害のある笑福亭伯鶴(はっかく)さんが、発車した電車と接触し、意識不明になる大けがをした。この年末年始の宴会シーズンに、ホームの乗客が線路に転落したり、車両と接触して死傷した例は、報道された限りでも一、二にとどまらない。

 安全を守る効果的な方法は、ホームドアの設置だ。関西ではなじみが薄いが、線路とホームを分離し、乗降時だけドア部分が開く仕切りをいう。

 いろんな形があるが、大阪モノレールなどで使っている大人の胸までの柵型で十分だろう。誤転落ばかりでなく、線路への飛び込みや、JR岡山駅で起きた無差別突き落としのような事件を防ぐ効果もある。

 もちろんコストはかかるし、利用者増に直接つながるものではない。乗降に時間がかかり、ダイヤが乱れることを懸念する鉄道事業者もある。だが、目に見える形で乗客の安心と信頼を獲得できる、必要不可欠の投資ではないか。

 「関西では」と書いたのは、関東では既に、超通勤幹線である東京メトロ丸の内線全線を代表例に、ホームドアが普及してきたからだ。JR山手線も2010年度から着手し、17年度には全線完成する。こんなところまで「首都圏一極集中」であっていいはずがない。

 コストとダイヤ最優先の姿勢は、より大きな犠牲と損失を招く。福知山線脱線事故で思い知らされた教訓である。(論説室)





毎日新聞 2009年1月10日 大阪朝刊

始まりは牛=元村有希子

2009-01-10 | Weblog

 えとにちなんで牛の話。

 神高福、寿恵福、安福。これらのめでたい名前はすべて、日本人が大好きな黒毛和種の種牛である。

 「飛騨牛の父」と呼ばれ、4万頭もの子をなした種牛・安福(やすふく)が、死後16年を経て復活した。近畿大などのチームが、マイナス80度で凍結保存されていた安福の精巣から細胞を取り出し、それを使ってクローン牛を作ったのだ。安福が死んだ93年当時、哺乳(ほにゅう)類のクローンはまだ夢の技術だった。世界初の哺乳類クローンである羊のドリーが英国で生まれたのは、3年後の96年である。

 クローンとはつまりコピーである。いい肉質や、乳を多く出す牛のコピーを作れば高品質だし効率もいい。しかし現段階では成功率が低いうえ、これらの肉や乳を食べることには議論がある。日本では557頭の体細胞クローン牛が生まれたが、流通していない。米国では昨年、政府のお墨付きが出た。日本でも安全性を検討中だ。

 考えてみれば、人工授精や体外受精、顕微授精など、人の不妊治療に使われている技術の多くは畜産から生まれた。家畜の繁殖を研究する前多敬一郎・名古屋大教授によると、生殖を管理しながらいい形質を育てることで、乳牛1頭あたりの乳量はこの50年間で2倍になったという。こうした技術改良の営みの最先端にクローンがある。

 安福クローンの目的は食肉として流通させることではなく、おいしさの遺伝的背景を研究することだそうだ。もちろん条件の悪い細胞からクローンが作れたことは画期的な技術革新である。こればかりは、人への応用は歓迎しないけれど。(科学環境部)





毎日新聞 2009年1月10日 東京朝刊

狼なんか怖くない=福本容子

2009-01-10 | Weblog

 ウォルト・ディズニーが短編アニメ「3匹の子ぶた」を発表したのは1933年、31歳の時だった。大ヒットし、アカデミー賞も取った。

 歌がよかった。子ぶたたちが劇中で歌う「狼(おおかみ)なんか怖くない」である。当時、アメリカの家はどこも恐慌という狼に襲われかけていた。でも、レンガで丈夫な家を造った1匹のように、懸命に働き知恵を使えば、狼にも勝てる。というわけで、大恐慌と闘う国民歌になった。

 時代が時代だから、ディズニーと、兄で共同創業者のロイは、お金で相当苦労した。ある時、ミッキーマウスのキャラクター使用権を、子供用メモ帳向けに300ドルで売る。味をしめ、ディズニー・グッズ販売という一大ビジネスを築いた。3年かけて史上初の長編アニメ「白雪姫」にも挑み、大成功させた。ディズニー兄弟はまさに狼を撃退した賢い子ぶただったのだ。

 経済が厳しい時に芽生えた企業が大きく育つ例は少なくない。あのマイクロソフトが誕生したのも第1次石油危機後の不況下だった。大企業が才能を囲い込めない時だから、自由な発想がチャンスをつかむ。若い人たちは、この際自分でビジネスを始めてみては。企業に雇われなければおしまい、ではない。

 社会全体の応援が大切だ。英サッチャー政権は80年代、不況で失業した人が事業を起こせるよう、資金やノウハウで積極支援した。結果、絶頂期には年4万5000の事業が生まれた。

 成功する者はほんの一握りだろう。けれど、起業精神をよしとする風土は一度根付くと簡単には消えない。背中をちょっと押してあげれば狼に勝てる子ぶた予備軍がそこにいる。(経済部)





毎日新聞 2009年1月9日 東京朝刊

異端児の処遇=与良正男

2009-01-10 | Weblog

 政治とカネにまつわるスキャンダルなどが発覚し、自民党が追いつめられるたびにテレビに出演しては、野党顔負けの自民党執行部批判をぶつ。かつて政権に就く前の小泉純一郎元首相はそんな役回りだった。

 メディアは内輪もめの方を面白がるから野党の影は薄くなる。一方、国民の側も「やはり自民党は自由に物が言えて考え方も幅広い党だ」と妙な安心感を持った人が多かったはずだ。

 結果的には小泉氏は自民党の延命に多大な貢献をしているのだと当時も思ったものだ。そして自民党は「党をぶっ壊す」と叫ぶ小泉氏を首相に選び、究極の延命策を講じた。

 当初、私は渡辺喜美元行政改革担当相も同じような存在だと見ていた。早期の衆院解散・総選挙にせよ、定額給付金の撤回にせよ、渡辺氏の主張の多くはごく当たり前の話だ。共鳴した人は多かっただろう。

 しかも、渡辺氏が政権批判している間はメディアの世界では野党の出番はほとんどなし。確かに私たちメディアも安直だけれど、党執行部は渡辺氏に感謝していいとさえ思ったほどだ。

 だが、そんな雰囲気にはならなかった。それは、異端児(実は世間では常識派であったりするのだが)を許容できない今の自民党の余裕のなさを如実に映し出しているように思える。

 どうやら渡辺氏の離党は確実のよう。渡辺氏も覚悟があるのだろう。再三書いているように、新党結成にせよ何にせよ、行動を起こすなら衆院選前だ。そして選挙で有権者の判断を仰ぐことだ。私は「衆院選後に政界再編を」という勝手な離合集散話には決してくみしないが、選挙前に動くのなら納得する。(論説室)





毎日新聞 2009年1月8日 東京朝刊

派遣村の人々=磯崎由美

2009-01-10 | Weblog

 東京タワーを仰ぐ森に炊き出しの湯気が立つ。年末年始、霞が関・日比谷公園にできた「年越し派遣村」。派遣切りなどで職や住居を失った500人を支えたのは、延べ1700人に上るボランティアだった。

 開村中の6日間、全国から野菜やコメが届き、カンパは2300万円を超えた。労働、医療、生活相談に加え、散髪コーナーまでできた。「新年を少しでも明るく」と歌や踊りを披露するパフォーマーや、「台湾大地震での日本の支援に恩返しを」と台湾の慈善団体も参加。村の様子は海外メディアも報じた。

 ベニヤ板を広げた臨時の厨房(ちゅうぼう)で、私もボランティアの輪に加わった。報道で知り北関東から駆けつけた会社員、父親に付いてきた中学生、かっぽう着と包丁持参で来た主婦……。名も知らぬ者どうしの絶妙な連係プレーで調理が進む。大鍋をかき回し、若い男性が言った。「偽善だと言う人もいた。でも僕は人のためというより、自分がやりたくて来たんです」

 ちょうど14年前の阪神大震災。あの時全国から集まった大勢の若者も、テレビが映すがれきと炎の街を見て「体が動いた」と言っていた。今回の雇用危機は失政による人災だが、あらがえない力が個人の生活をなぎ倒す悲惨さは同じだ。

 なお強い寒波が雇用を襲う。政治の動きが鈍ければ、民がもっと背中を押すしかない。最後のセーフティーネットは、人の思いなのかもしれない。

 派遣村が撤収した5日。「ありがたい気持ちでいっぱい。もう少し頑張ってみます」。50代の男性失業者が力強い言葉を残し、公園から国会へと向かうデモの波に加わっていった。(生活報道センター)





毎日新聞 2009年1月7日 東京朝刊

素朴な思いこそ=玉木研二

2009-01-06 | Weblog

<あすのカモ猟やめる>


 1972年1月7日。毎日新聞夕刊最終版は5段見出しで記事を突っ込んだ。埼玉の宮内庁猟場で予定の皇室伝統行事「カモ猟」が中止という。「招待の閣僚たちが予算編成越年で出られない」が理由だが、表向き。実際は前年末に当時の環境庁長官・大石武一が「自然保護の立場と矛盾する」と欠席を表明し、政府の対応が注視されていた。そして以後は捕獲カモはすべて放し、招待者への料理にはしないよう習わしが改められた。

 急速に列島を覆う公害、自然破壊に環境庁が発足したのは71年夏。12省庁から500人余がかき集められた。木造の老朽庁舎はきしみ、連日の陳情に大石は床が抜けないかと心配した。後の自伝「尾瀬までの道」にいう。<こんな建物だったから、地方から訪ねてきた人たちも格式ばらず、気楽に思ったことを訴えることができたのかもしれない。住民の側に立って行政を考える環境庁の発祥の地としては、まことにふさわしい庁舎だったと今も私は考えている>

 開発計画地の薬局の主人、病院長、和尚が来て「大気汚染でまず薬局が繁盛し、次が病院、そして寺。その3人が真っ先に計画に反対してるんですよ」と笑う。そんな近しい空気もあったという。大石たちは精力的に現場を回り、対策に動いた。

 今空前の雇用崩壊に中央官庁はもたつき気味で、むしろ地方自治体が策を講ずる。途方にくれる人々に何か手を。そんな素朴な思いが肝心だ。権限や縄張りは関係ない。カモ猟発言について大石は国会で述べた。<個人的な感情でございます。理屈も何も、たいしたむずかしい、高い次元のものでも何でもない>(論説室)





毎日新聞 2009年1月6日 東京朝刊