ねむの木学園の宮城まり子さんから、生徒たちの絵の鮮やかなカレンダーが届いた。お礼の電話をしたら「きのう、学園にみえたの」と、シーファー米大使の話をしてくれた。
大使は今月15日、日本を離れ、テキサスに帰った。静岡県にある学園を訪れたのはその3日前だ。07年5月、展覧会で生徒の絵を知り、宮城さんと親しくなった。「私のオムレツを食べ、生徒の歌を聞いて。別れる段になると、涙をポロポロ流して。奥様と2人で泣いて、子供たちが『涙がまっすぐ落ちてくる!』とびっくりしてました」
少し意外だった。シーファー大使といえば、首相を威圧しかねない、こわもての印象だったからだ。それにアングロサクソン系の男は人前ではあまり泣かないといわれる。
宮城さんと生徒たちが醸し出す森の雰囲気に心を洗われたのだろうか。「ねむの木が大好きです。こんな国はないから、ここで働く人は本当に幸せです。皆さん、それを誇りに思ってください」。学園でそう話した大使だが、日本を好きになったかどうかはわからない。大使はこれに先立つ記者団との懇談でこう語っている。「大使公邸にふんぞり返っている時代は終わった。大使は外へ足を運び、国民とつきあうべきだ」。宮城さんらとのつきあいが、彼には特別な事だったのだろう。
61歳。退任は表舞台から去ることを意味する。4年近くの任期中、首相が4人も入れ替わる日本では、思った仕事もできなかっただろう。「心残りな様子でした」と宮城さんは言う。一線を退く間際、万感の思い、さびしさが、職業人を襲ったのかもしれない。(ローマ支局)
毎日新聞 2009年1月18日 東京朝刊
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます