ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

暴落はトレンド、トレンドはフレンド 2

2020-03-28 12:00:00 | トレンド・フォロー



なお、私がタートル・システムを最高位に評価するというは、「システム」としてであって、いわゆる「手法」の事を言っている訳ではない。

タートルズの手法自体はドンチャン・ブレイクアウトといって1960年代からある古典的なもので、勿論、手法としてもタートルズの成績が示すように素晴らしいアイデアであるが、私がここでシステムと言うのは、これを三つの要素に分解して三つのMマインド、メソッド、マネーのマネージメントなどと言われることがあるが、それらを明晰かつ簡潔なルールに落とし込んだシステム・ルールとしての完成度が、類を見ない程高い次元にあるという事である。普通、こういったシステム・ルールでは、どうしてもある程度の裁量部分を含まざるを得ず、裁量という要素から逃れ得ないものだが、その裁量部分をタートル・システムではほとんどと言って良い程締め出すことに成功している。言うまでもないことだが、それがこのプロジェクトに成功を齎した一番の要因であろう。

これは、見えない検閲制度によって、日本の株式投資では殆ど注目されることのない原理原則に係ることなので少し脱線するが、よく相場では聖杯なる言葉が使われるが、聖杯とは初心で考えるのとは少しく異なった位相に置いて存在しているのであって、それは言うなれば総合力に存在していると言わなければならない。先の例で言えば、マインド、メソッド、マネーの三位一体の総合的なマネージメント能力にあるのであって、例えば「バリュー投資」とか「グロース投資」というような手法にあるわけではない。手法とはここでいうメソッドの単に一部を成すものでしかなく、重要度もそれ程高くない。むしろ重要なのは次にいうようなマインド・モニタリング相場認識(FXでは奇異な環境認識という用語が定着している)や資金管理技術の方である。私は言い過ぎだと思うが、「ぶっちゃけ手法なぞ何でもよい」とまで言う億トレーダーもいるほどである。従って、前に挙げたような「バリュー投資の優位性」を言い募るような言説は、初心にありがちな手法至上主義的なバイアスにもとづいた偏向した考え方の一症例だと言わざるを得ない。

ここでマインド、メソッド、マネーの三位一体のマネージメントというのは、この三つは相互に密接な関係にあるということであって、例えばいくら優れたメソッドであっても、マインドに適合しなければ実行に支障をきたすので、この意味でマインド・マネージメントとは、初心者にありがちなマインドを鍛えるといった事を指す訳ではない。今回のような暴落時が良い例で、そういう人が多いと思うが、バイアンドホールドでストロングホールドに徹して、握力を鍛える必要があるなどといった一種の精神論がその典型で、私に言わせれば、マインドが堪えられないようなら、メソッドやマネーに対するマネージメント・ルールを見直すべきである。そもそも心が動揺して眠れないとか仕事が手につかないとか、何らかの私生活上の支障をきたすという時点で、マイルールとしては問題があると考えるべきである。それは淡々と実行できないようなマイルールでは、マインドの動揺によってミスやルール破りに陥り易く、その結果一貫性によるシステム・エッジの放棄或は崩壊という悲劇に終わる可能性が高いからである。

結局、こうしたことは一般論では解決の出来ない事であって、マインドー考え方や感じ方というのは一人ひとり異なるのだから、自分に合った優位性のあるシステム=聖杯というのは自分自身で作り上げるしかないと言わなければならない。というと身も蓋もない話のようだが、基本的に投資アイデアというものは出尽くしているので、その中から自分自身に合ったものをピックアップして、自分に合うように徹底的にアレンジを加えて、わが物とすればよい訳である。そのためには、基本的な投資アイデアというものは満遍なく網羅しておく必要があるので、トレンドフォローもその中の代表的且つ重要な項目であることは言うまでもない。この意味では悪いニュアンスで使われることの多い聖杯探し手法ジプシーといった過程は、誰でも一度は通らなければならない一種の通過儀礼であって、いたずらに経験年数を重ねるだけでそこから抜け出せない人が多いのは上に述べ様なポイントを外していることになかなか気付かないからである。


というようなことで、この点で、この duke 氏の本は、これまでの手法一辺倒の日本の株式投資本の中にあって、マインド・マネージメントについての言及は見られないが、メソッドやマネーに対するマネジメントについて踏み込んで書かれているという点で、ようやくこのレベルの本が日本でも出るようになったかという読後感を私は持った。

以下、目に付いた部分について述べる。

<一般的に、株式投資は「安値で買って、高値で売る」と言われていますが、私の投資術は、「新高値をつけた銘柄を買って、さらに高値で売る」という、米国の著名投資家ウィリアム・オニールの投資法を基にしたものです。・・・私の投資術が一般的でないことは判っています。>

<株は安く買って、高く売るという固定観念があったので、新高値で買って、さらに高い価格で売るというオニールの考え方には衝撃を受けました。>

正直な感想を述べた文章だと思うが、この文章は前に述べたように典型的な日本人の発想に基づいた文章であって、ここでは一般的な「安値で買って、高値で売る」投資法と一般的でない「新高値をつけた銘柄を買って、さらに高値で売る」投資法が対置されているが、これも述べたように前者の高安には明確な定義がないので、何のことは無い、「新高値」を「安値」と考えれば同じことを別の言い回しで表現しただけで、実は両者は同じ投資法だと考えることも出来る。ただ、後者には明確な基準が存在するという点が前者とは決定的に異なるのである。その意味では「衝撃」的だということが出来るのかも知れない。これは想像するしかないのだが、私流の言い方で述べると、ここで述べられていることは、duke 氏の内面においては恐らく「安値・高値」という観念についてのコペルニクス的転回があったのではないかと思われる。なお、今の若い人は知らないかも知れないが、日本の投資格言の一つに「年初来高値は買い」というのがある。


<私の投資術は、成長株を主体にしたテクノファンダメンタル投資、・・・・新高値というテクニカルをまず見た後、会社のファンダメンタルを見て投資する。>

duke氏は当初はファンダメンタルによって投資を行っていたようだが、テクニカル重視に切り替えたようだ。テクノファンダメンタルとは聞きなれない用語で、ここにもduke氏にはテクニカルとファンダメンタルの観念についての何らかの「転回」があったと思われるが、そのことについては何も書かれてはいない。

というと、まあ、ごちゃごちゃ言わないで、テクニカルでもファンダメンタルでも使えれば何でもいいじゃないかと言う声が聞こえてきそうだが、ここにも原理原則を踏まえていないとテクニカルジプシー、つまり手法ジプシーという罠が待ち構えているので、じゃあ、それらが使えなくなったらどうするのかと言う問題がある。普通はテクニカルか、ファンダメンタルか、という二択で考えられているので、これに対しduke氏はテクノファンダメンタルという第三の新しい考えを打ち出すためにこのような用語を使ったものと推測される。

ここで少しテクニカルとファンダメンタルについての私見を述べておこうと思う。私の見るところ日本においては、テクニカル派はファンダメンタル分析についてはその必要を感じないと言ったスタンスで、あえて否定するという態度は取らないようだが、ファンダメンタル派はテクニカル分析を否定ないし軽視する傾向が強いように思われる。その結果、大枠では、テクニカルか、ファンダメンタルか、という二者択一が結構重要視されているようで、ネットでも自称投資家のプロフィールにもそれらの記載がなされているのをよく見かけるが、私に言わせるとこういった二者択一の考え方はテクニカルとファンダメンタルというものについて根本から考えていないからである。

要は、テクニカルとファンダメンタルというのは表裏一体の関係にあるもので、ファンダメンタルが相場現象として現れる時の振る舞いが、単にテクニカル的な形式を取るのに過ぎないと、私は簡明に考えている。この点は外国でも同様だが、テクニカル否定派の誤解の基にあるのは、そもそもテクニカルの”法則”や”原理”を物理学におけるそれらと同一視している点にあると思われる。この点はテクニカルの用語選定にも責任があって、テクニカルには「法則」と名のつくものが幾つかあるが、それらは物理学における「法則」とは原理的に異なるものであるという認識が欠けているように思うのだ。まあ、ファンダメンタルにも「バフェットの法則」なんてのがあるから、言葉の乱用には気を付けなければならない。

私が思うに、これは世界観に関わっている問題であって、そこには一元論と二元論の相克がある。ここで二元論というのは、世界は基本的に物理法則に支配されている訳だが、その中には物理法則に支配されないで、むしろそれらに抗っているように見える現象群が存在するということである。それは他ならぬ生命現象で、例えば万有引力に逆らって木々は空に向かって伸び、鳥は空を舞い、我々人間は直立歩行をする。これは、考えてみれば実に不思議な事ではないだろうか。それはともかく、従って、この世界は物質と生命という二つの異なった原理に基づいた現象群に二元的に分割される訳で、相場というのは我々人間の生命活動であることは言うまでもない。そこには物質世界の法則とは原理的に異なった「法則」、と言うよりも独自の規則性や傾向が存在し、勿論、物質現象の影響も免れ得ない訳だが、その影響もまたこれらの生命現象独自の規則性や傾向に則って現れることになると考えるのが妥当であろうと私は考えるのだが、どう思われるであろうか。

ところがややこしいというか面白いのは、後で述べる有名なエリオット波動の提唱者であるラルフ・ネルソン・エリオット自身が、 晩年にはエリオット波動で宇宙の法則をも説明できると主張するに至ったというエピソードがあって、これなぞは否定派の恰好の餌食となっている。また、エリオット波動理論はフィボナッチ数列に基いているが、このフィボナッチ数列もテクニカル分析によく使われていて私も使うが、その有効性の理由づけの説明は私にはこじ付けとしか思えない。結局、それらは世界の二元性に思い至らない、異なる領域への論理の勝手な延長による誤った適用であって、一元論的な考え方がそれだけ一般的だとも言えるのだろう。

というようなことで、結局のところ、あえてファンダメンタルだとか、テクニカルだとか、はたまたテクノファンダメンタル?とかいった主張を特にする意味はないように私には思われる。言い換えると「どちらでも使えればいい」ということではなく、「どちらも使いこなす必要がある」という事である。

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