ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

シン・ネタバレ・エヴァンゲリオン𝄂

2021-05-20 16:00:00 | エヴァンゲリオン
完結編「シン・エヴァンゲリオン劇場版𝄇」は概ね好評をもって迎え入れらているようだ。今時の言い方でいえば、エヴァンゲリオンという作品は、その都度視聴者の期待や評価の斜め上を行く、現代では稀有な作品シリーズであると言っても良いだろう。しかし、私としては、新劇場版が完結した現在というまさにこの時点においてこそ、テレビシリーズ・旧劇場版について深く考えてみるべきだと思う次第である。何と言っても、エヴァを巡る基本的な問題は、テレビシリーズ・旧劇場版においてすでに出揃っているからだ。それが未消化のままでは、新劇場版についてとやかく言ってみても始まらないだろう。

例えば、今回もいくつかの著名評論家のレビューを覗いてみたが、賛否好嫌はあるにせよ、揃いも揃って申し合わせたように「私小説」という見方をしている始末で、どうやら「エヴァンゲリオン=庵野秀明の私小説」というのは、ほとんど公定の見解になりつつあるようだ。

エヴァ人気要因の一端を見る思いだが、ここに相も変わらずの日本人の「私小説好き」を指摘することも出来るのかも知れない。私なぞは、そもそも「私小説」というのなら、それに対してどうのこうの言うこと自体、非生産的で不毛な営みにしか思えないのであるが、この「私小説」説については、誤解もここに極まれりとまでは言わないにしても、ここで少しばかり異議を唱えさせて貰いたいと思う。

もっとも「私小説」説と言っても、マリが安野モヨコで、ヴィレが株式会社カラーであるといった実在のモデル判定から、テレビ版・旧劇場版から今度の新劇場版への主人公の”成長”をそのまま作者である庵野秀明の”成長”になぞらえるといったものまで、様々なバリュエーションがあるようだけれども、結局私がこれらの「私小説」説に違和感を覚えるのは、その作品に対峙する態度が不純だからである。作品に対して、作品の外から色々な接線を引いてきて解釈をすることは、その完結性や純粋性に対する冒涜ではないかと思うからである。まあ、別に冒涜であっても構わないが、これでは扱いが有名人のゴシップニュースと本質的に何ら変わらない訳で、ふーん、皆さん、それほどまでに庵野秀明という人物に興味津々なのね、といった皮肉を言いたくもなる。では、なぜそれほどまでに庵野秀明という人物に興味津々なのかと言えば、それはエヴァの作者だからこそであろう。この堂々巡りループに気付いている人が、果たして何人いるだろうかと私は訝るのである。

いや、というよりも、実情は単に理解不能の逃げ口上として「私小説」という言葉が乱用されているだけかもしれない。では、エヴァンゲリオンは「私小説」でなければ、どういった種類の作品なのかと言われれば、私が真っ先に思い浮かべるのはドストエフスキーの「未成年」である。

このエヴァンゲリオンもまた作者の色濃い個性に染められた作品ではあるが、「未成年」という主題を表現した作品であると見るべきである。何より主人公の設定が14歳であることがそのことを端的に表している。この点「シン・ゴジラ」と大いに趣を異にしているのであって、この作品は「未成年」というものが、どういう生態の生き物であるのか、その不安と混乱、希望と絶望がないまぜになった拗らせっぷりを、幾分誇張した形ではあるけれども、見事に定着することに成功した作品だと私なぞは思うのであるが、どう思われるであろうか。

また、もう色褪せてしまったが、かってこの作品を冠するに「セカイ系」なる判ったようでいて良く判らないタームも持て囃されたが(Wikiによれば、これは肯定的にも否定的にも、主人公を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、直ちに世界存続の大問題に直結する作品を指すということらしい)、これなぞも、同時期に一括りにされた他の作品はいざ知らず、後で述べるようなエヴァで密かに行われた庵野監督による革新的な方法論などとは無縁の、単なる表層的な分類ラベリングでしかないだろう。まあ、このような尤もらしいラベリングによって訳知り顔で現代日本の社会や文学、サブカルチャー等々を語るよりは、「エヴァはもともとそういうアニメ」とでも言っておいた方が、よっぽど精神衛生上は有益かもしれない。

そしてまた、一方では、ストーリー設定上の合理的整合性を極めようと、巷には膨大な数に上る、微に入り細を穿った考察が溢れているのも対照的な景色である。これも私に言わせれば、単に庵野監督の衒学的韜晦による目くらましに翻弄されているのに過ぎないのであって、それらはお釈迦様ならぬ庵野監督の掌の上で踊らされている孫悟空達に他ならない。最も監督本人に言わせれば、これもまた視聴者サービスの一環だと言うのかも知れないけれども・・・。考えてみれば、道理で作品の最後でサービス!サービス!を連呼する訳だ。まあ、知っていてあえて踊るのも一興だろうが、これもまた歪な作品鑑賞態度であることには、変わりはないであろう。

結局、総てのエヴァのレビューは、「私小説」説や「セカイ系」などの上っ面を撫でただけの皮相的表層的レビューと、謎解き特化型のオタク的些末主義的考察レビューという二極間の間のどこかの座標にプロットすることが出来ると言っても過言ではないだろう。だが、私に言わせれば、どちらにしても一番肝心なこの作品本来の”姿”を見失っていることには変わりがないのであって、結局、この作品もまた、名声とは誤解の異名であるという”残酷な天使のテーゼ”から逃れることが出来ないでいるように思われるのだ。

従って、これらに欠けていて”補完”しなければならないのは、この作品を取り巻いている外部環境からの色々な先入観や雑念等を排した言わば即自的な作品鑑賞態度であって、獲得されなければならないのは、作品の構造とそれと裏腹にある方法論に対する直観と論理による手堅い帰納法的分析に裏打ちされた全体像の提示であろう。

とまあ、このように文章にしてみると、ドヤ顔でわざわざ言上げするのもアホらしいほど凡庸且つ至極当たり前の話なのであるが、この至極当たり前の話が大口を叩くことになってしまうというのが、この作品の置かれた特異な状況なのであろう。

いや、持って回った回りくどい書き出しになってしまったが、以下、この大口叩きの所以について、当初に述べておいたようにテレビ版・旧劇場版をまな板に載せ、出来るだけ明晰に私見を述べてみたい。

* * *

このエヴァンゲリオンという作品を考える上で、私が重要だと考える庵野監督の三つの言葉を、次に引きたいと思う。

一つは、見た人も多いと思うが、NHKの『プロフェッショナル 仕事の流儀』庵野秀明スペシャルの中での発言である。

僕としては、もうちょっと理解されていると思っていた。それが全く理解されていないというのが分かったから、困ったなあと。理解されていないっていうのがね。




興味深いことに(株)カラーでは、スタッフ全員の意見を取り入れるシステムを構築しているようで、この事実から作品がどのように受け取られているかを非常に気に掛けている庵野監督の姿勢が伺われる。恐らく、スタッフの感想をパイロットランプとして公開後に視聴者にどう受け取られるのか、どの程度理解されるのかを探っているものと思われる。この発言は、最終Dパート部分についての会議上における、そのスタッフの感想に対するもので、結局この後Dパートの脚本は大幅に書き換えられることになったとのことである。ということは、「シン・エヴァ」完成バージョンの最終Dパートは、この「無理解」に対する監督の何らかの対応策が盛り込まれた内容になっているものと推定される。これは押さえておかなければならない重要な視点であろう。だが、論を急ぐまい。ただ、私がここで言いたいのは、この「無理解」は何も今回の「シン・エヴァ」、さらには新劇場版に始まった話ではなく、そもそもテレビ版・旧劇場版自体が「全く理解されていない」のではないかということである。

そして、後の二つは、それぞれTVシリーズおよび新劇場版四部作を制作するにあたって発表された、同じ「我々は何を作ろうとしているのか?」と題された二つの声明文の中にある言葉である。

まずは、1995年に発表された一つ目の「我々は何を作ろうとしているのか?」の結尾の言葉である。

それすらも模造である」というリスクを背負ってでも、今はこの方法論で作るしかないのです。私たちの「オリジナル」は、その場所にしかないのですから……

そして、次には2006年の「我々は何を作ろうとしているのか?」の中の言葉。

10年以上昔のタイトルをなぜ今更、とも思います。エヴァはもう古い、 とも感じます。しかし、この12年間エヴァより新しいアニメはありませんでした。

私が思うに、ここで言われている「新しさ」とは、例えば第3次アニメ革命を起こしたこと等の商業的な意味での「新しさ」のことではないだろう。むしろ、それを齎した作品自体の「新しさ」のことを言っているはずだ。従って、これは新四部作が完成した現在でも、全く同様の指摘をすることが出来るものと思われる。<この26年間エヴァより新しいアニメはありませんでした>、と。

では、エヴァの「新しさ」とは、一体何であろうか。オリジナリティーとは何であろうか。

なぜ、私がこの一見相反するように見えないでもない二つの文章を引いたのかというと、この二つの文章の交差する正にその地点にこそ、このエヴァンゲリオンという作品は屹立していると考えるからだ。

結局のところ、私はこのように考えている。

エヴァンゲリオンという作品は、模造であるということを逆手に取るという、これまでにない革新的・野心的な方法論によって、オリジナリティーを獲得することに成功した稀有な作品である。そして、この逆説的独創性とでも言うべき「新しさ」については、現在に至るまで全くと言っていいほど理解されてはいない、と。

* * *

さて、ここからは各論に入っていきたいと思うが、やはり、わがささやかな作品鑑賞の時間軸に沿って述べるのが判り易いだろう。

御多分に漏れず、私自身もエヴァンゲリオンについては後になってから知った口で、ネットで話題になっているのに接して、ふと大した期待もなくテレビシリーズを見出したところ、なかなかと面白く、結局、旧劇場版まで一気に通して見る羽目に陥った。そして、これもまた御多分に漏れず、観終わったのは良いが、どうもよくわからないので、もう一度改めて見直すことと相成った次第である。

そして、あれは忘れもしないが、再び、テレビシリーズの第26話にまでたどり着き、アスカに「やっと判ったの、バカシンジ!」と言われた主人公がハッと我に返るシーンを見た瞬間、一気に霧が晴れるように、この作品全体の明確鮮明なビジョンを得たのである。瞬時に、まるでドミノ倒しの20倍速映像を見ているように、多くの疑問点や不可解な点が瞬時に連結され脈絡が付いて、庵野監督がどういう言い方をしているのか、何を言いたいのかが判った。ここで主人公のバカシンジと同じく私自身もまた、やっと判ったのである。やれやれ。




言うまでもなく、この作品には、ウルトラマンやデビルマンなどの多くの作品や、登場人物の名前が軍艦や海事用語から取られているなど膨大な数の「引用」が鏤められていることは良く知られている。勿論、ここで、そのすべてが分かったなどと言うつもりはない。この時私が気づいたのは、「引用」ではなく、その「引用」という行為自体の意味である。つまり、これらの「引用」は普通、それらの作品に対する監督のオマージュだとか監督自身の(オタク的)趣味嗜好を表しているといった理解をされているが、私がここで気づいたのは、これらの「引用」にはもう一つ奥があって、そういった表面上の意味だけでなく、作品の成り立ちの上での必然性があるということである。

では、これらの膨大な「引用」の作品成立上の必然性とは何か。

それは、何のことはない、そもそもこの作品はそういった膨大な「引用」が犇めき合って存在している世界自体を描いているということである。

では、そういった膨大な「引用」が犇めき合って存在している世界とは何か。

それは取りも直さず、主人公の心の中であろう。

つまり、この作品で描かれたロボットアニメの世界というのは、オタクである主人公の心の中をビジュアル化したものなのである。そのことに、このシーンに至って私は改めて気づいたという訳である。一般にテレビシリーズについては、25話26話で急に”精神世界の話”になってしまうといった受け取り方をされているようだが、実は、この作品はそもそも最初から”精神世界の話”だったのである。従って、「主人公を中心とした小さな関係性の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、直ちに世界存続の大問題に直結」してしまう様に見えるのも、当然と言えば至極当然の話なのである。

そして、ここからが重要なポイントなのだが、それと同時に、この作品にはそのことを直接間接に示すシーンやセリフが至る所に散りばめられ、仕掛けられているということにも気づいたのである。脈絡が付いたというのは、そういうことである。その事を最も端的象徴的に示すシーンは、先に挙げた26話での主人公が我に返るシーンであるが、ここで他にもいくつか挙げておこう。

例えば、旧劇場版の砂場のシーンである。このシーンに違和感や疑問点を抱いた人も多いだろう。この砂場のシーンでは、奇妙なことに舞台装置や照明装置がシーンの中に出てくるのを覚えている人もいるだろう。さらに、あろうことか次のシーンに出てくる母親役が、椅子に座って出待ちしている様子までもが描かれているが、なぜこんな模写をする必要があるのであろうか。それはここで描かれたシーンが、一種の仮構された”作り物”であるということを、制作者が殊更に強調していると取るのが普通であろう。そのことを強調するためであろう、この部分はよくあるようなメイキング映像に特有な、劣化した一種ざらついた映像にもなっている。このシーンで私は、主人公が壊す砂山の形状に目が行ったのだが、この砂山のピラミッドを壊すシーンから、テレビシリーズ19話で、怒ったシンジの乗った初号機がジオフロントの建物を破壊しようとするシーンを連想したのであるが、どう思われるだろうか。ともあれ、この砂場のシーンで暗示されているのは、エヴァという物語全体がこの砂場のシーンと同じく、仮構された”作り物”であるということであろう。









比較のための良い画像がなかったので、「新劇破」から。




それから、例の物議を醸すことになった観客側を映し出した実写シーンの少し後には、シンジとレイ、カヲル3人の次のような会話が交わされるシーンがある。

シンジ「でも、僕の心の中にいる君たちは、何?

レイ 「希望なのよ。人はこの世に判りえるかも知れないということの。

カヲル「好きだという言葉と共にね。




この他にも、テレビシリーズ15話の墓参りのシーンでのゲンドウのセリフ「総ては心の中だ。今はそれでいい。」等々、探せばこの他にもいくつも見つかると思うが、このことからこの作品はロボットアニメでありながら、それを主人公の心の中の世界として相対化する、一種のメタロジックが構造的に組み込まれていると言うことが出来る。その表層上のロボットアニメの世界の下には、主人公の心の中の世界が透かし絵のように存在しているという一種の表裏一体的二重構造になっている、と言っても良いだろう。

私には、このような方法を取ることで、庵野監督は自らを含むオタクの精神世界というものを客体化し、誤解を恐れずに言えば普遍化しようとしたのではないかと思われる。ベルクソニアンたる私には、このように「意識に直接与えられたもの」から始める方法は実に理にかなった真っ当な方法論だと思われるが、それは兎も角、そのためには「未成年」という切り口が、誠に都合の良い切り口であったことは、この作品の成功が如実に物語っていると思うのだが、どう思われるであろうか。

さらに興味深いのは、この作品が、これまでのアニメの暗黙の前提であった、視聴者とのなれ合いによる一種の心地よい共犯関係を拒絶していることで、オタク性を極限まで追求し客体化しようとする制作行為の極限において、遂には批評性をも獲得するに至ったといった趣があることである。この点でもドストエフスキーを思い起こさせるが、これは作者の資質もあるにせよ、それを可能にする程までに、日本のオタク文化も成熟し、爛熟期に入ったと言うことが出来るのかも知れない。

だが、このエヴァの「新しさ」はまた「極北」でもある。なぜなら、言うまでもなくこの方法は、一回限りの有効性しか持ち得ないからだ。従って、このような作品を一旦作ってしまえば、後は断崖絶壁で、もうその先はないとも言える。それが再度新劇場版を作らざるを得なかった根本的な理由であろう。恐らく、庵野監督はもうアニメを作ることはないのではないか。

とまあいったことで、結局のところ、この作品を真に理解するためには、鑑賞者はロボットアニメの世界を、主人公の心の中の世界へと変換して理解するように、このビルトインされたメタロジックによって要請されていると言わなければならないだろう。


以下、その概要を示す。

物語は、基本的にネルフという組織を中心にして展開されるが、このNERV=神経というネーミングは象徴的である。私はこの言葉から「神経症」とか「神経異常」といった言葉を連想するが、このネルフから出動するエヴァンゲリオン初号機という人造人型決戦兵器は、窮地に陥ると突然キレて狂暴化する(暴走)という行動パターンを特徴とする。そして、このネルフの最高司令官は碇ゲンドウという人物であるが、このネーミングも「怒り・言動」を連想させる。つまり、このネルフという組織は、主人公の心の中に湧き上がってくる「怒りによる神経(症)的な言動」を象徴的に意味しているように思われるのだ。

そして、このネルフの上位組織としてはゼーレ(SEELE=魂)があって、名目上は同じ人類補完計画を目指しながらも、実は碇ゲンドウ=ネルフは少しく異なった目的を持っているとされるが、これは同じ人類補完計画を目指しながらも、微妙に異なった様々な観念や感情が心の中で鬩ぎあっているという心の中の葛藤を表しているということであろう。大枠としては、そういった葛藤がありながらも、主人公の心の基本的な指向性としては、人類補完計画を目指しているということである。

この人類補完計画については色々と述べられているが、25話でゲンドウが「総ては始まりに戻すに過ぎない。この世界に失われた母へと帰るだけだ。すべての心が一つとなり永遠の安らぎを得る。ただそれだけのことに過ぎない」と述べているように、これは要するに母体回帰による一種の引きこもり願望のことであろう。そして、エヴァンゲリオンがアンビリカルケーブル(もともとUmbilical cableという用語は、Umbilical cord=へその緒という語から作られた)に繋がっていることや、そのパイロットがLCLという液体に漬かっていることも胎児を連想させるが、それと共に、シンジの直属の上司が二人とも”女性”である事もまた、この人類補完計画=母体回帰による引きこもり願望を考えるに当たっては象徴的である。

そして、ネルフ=エヴァンゲリオンはシトと戦うのであるが、このシトについてはテレビシリーズ5話では「構成素材に違いはあっても、シトの信号の配置と座標は、人間の遺伝子と酷似しているわ。99.89%ね」というリツコのセリフや、旧劇場版Air25話での「私たち人類もね、アダムと同じくリリスと呼ばれた生命体の源から生まれた18番目のシトなのよ。他のシト達は別の可能性だったの。人の形を捨てた人類の。ただ、お互いを拒絶するしかなかった悲しい存在だったけどね。同じ人間同士の」というミサトのセリフがあるが、これらの衒学的婉曲的表現の衣をはぎ取ってしまえば、その意味するところは要するにシトとは人間ということであろう(言わずもがなの説明をすれば、人間と遺伝子が99.89%ー誤差の範囲内で酷似ということは結局は人間であって、人類もシトだったということは、逆に言えばシトもまた人類だったということであって、しかもそのあとに続けて念を押すように「同じ人間同士」と明言している)。また、テレビシリーズ11話でも、「所詮、人間の敵は人間だよ」というゲンドウのセリフが出て来る。つまり、心の中の「他人への恐怖」が産み出したのがこのシトという存在だと言っていいだろう。従って、敵味方、パターン青かどうかというのはこの「恐怖」の存在如何によって容易に反転することになるので、テレビシリーズではトウジ、新劇場版ではアスカの乗った参号機がシトと見做されることにもなった訳である。ところで、なぜこの識別パターンが「青」なのかと言えば、「恐怖」によって主人公が「青」ざめるからではないかと言ったら、こじ付けに過ぎるだろうか。

それから、ATフィールドというのは「誰もが持っている心の壁」(テレビシリーズ24話でのカヲルのセリフ)を現していることも、いろいろなところで説明されているので、特に付け加える必要もないであろう。

そして、特別なキャラクターだと思われるので、ここでレイとカヲルについて述べておくと、「君は僕と同じだね」というカヲルのレイに対してのセリフや旧劇場版で巨大化したレイがカヲルに変わるシーン等の示すように、同じ性格の存在であることが伺われるが、先に引いた旧劇場版での3人での会話からすれば、心の中に存在する「希望」を象徴するキャラクターということになる。その所属から考えれば、カヲルはゼーレ=魂における「希望」、レイはネルフ=神経における「希望」の有様を体現しているということになる。



カヲルはシトと見做され殺されるが、これについては後述する。レイはアルミサエル戦で自爆し、ゲンドウによって三人目のクローンが作られるが、最後にはゲンドウを拒否するに至るという展開は、主人公の心の中にある「怒り」においてしか生まれ得なかった「希望」は二度失われ、三度目に生まれた「希望」もその出自である「怒り」という感情からは離れていくことでその本来の指向性=皆との絆(テレビシリーズ6話で、エヴァになぜ乗るのかとシンジに聞かれたレイは「絆だから、皆との。私には他に何もないもの」と答えている。)を探っていこうとする主人公の心の動きを示していると思われる。

なお、ここでもあえてこじ付け解釈をすれば、「渚」は「サナギ」のアナグラムであり、「カヲル」はすでに指摘されているように、2001年宇宙の旅のHALのネーミングに則って「オワリ」を意味すると解すれば、カヲルは主人公の「サナギ期を終わらせる」役目を、「綾波」には「ナヤミ」が含まれており、「レイ」=ゼロとすれば、レイは主人公の「ナヤミをゼロにする」役割を担わされた「希望」ということになる(サービス!サービス!)。

そして、先に引いた25話でのゲンドウの人類補完計画についてセリフに被せるようにリツコとミサトの殺されたシーンがフラッシュで示されるのも見逃せない。このことは、ロボットアニメの世界ではこの2人は死ななければならないということを示していて、それは、旧劇場版で描かることになった訳だが、カヲルが死に、ネルフという組織自体も壊滅し、人類補完計画が発動するとともに、初号機に乗った主人公によってサードインパクトが引き起こされることになる。





このサードインパクトというのは、詰まるところ心の世界の崩壊=主人公の絶望であって、なぜサードなのかと言えば、主人公には過去において二度そういった経験があったということを示唆していると考えられる。このカヲルの死を経て人類補完計画の発動からサードインパクトに至る過程の模写は、リリン、リリス、アダムやロンギヌスの槍、ガフの部屋の扉等々難解な衒学的用語のオンパレードによる怒涛の展開で、何ともややこしいという他ないが、このややこしさの演出上の意図を考えると、絶望に至る主人公の精神状態を表していると取るべきであろう。

つまり、ここで次々と繰り出される衒学的用語による難解な概念説明のややこしさというものは、主人公の精神状態の明晰さや正気度を示すものではなく、むしろ、それらとは真逆の混乱や錯乱を示すものではないかと思うのである。ここで私は「気が違った人間とは理性を失った人間のことではない。むしろ、理性以外のあらゆる物を失った人間のことである。」というG.K.チェスタトンの言葉を思い出したのだが、どう思われるであろうか。

例えば、24話で「君が何を言っているのか判らないよ、カヲル君」というシンジの印象的なセリフが出てくるが、これなぞはカヲル=「希望」の意味さえもが分からなくなってしまった主人公の、精神崩壊一歩手前の錯乱した精神状態を象徴的に表しているセリフだと思うのである。言い換えれば、ここではゼーレ=魂とネルフ=神経との間の精神的な葛藤や相克がそれ程までに高まっていると言うことである。カヲルがシトと見做され、続いてセントラルドグマに侵入したレイも強力なATフィールドからシトか?と疑われることなども同様であって、このセントラルドグマへのシト侵入という危機的状況シーンのバックミュージックとしてベートーヴェンの「歓喜の歌」が使われていることも、この支離滅裂さを効果的に表すのに一役買っているのは言うまでもないだろう。

そして、この間のややこしい経過を極々単純化して整理すれば、希望が失われると共に怒りも消失し、絶望するに至って、主人公の心の中では以前から潜在的に存在していた母体回帰願望である引きこもり願望が顕在化するに至った、と言うことが出来よう。

そして最終的には、この願望の顕在化=人類補完計画の発動による、すべての心が一つとなった他者のいない世界、かって自分が望んだ母体回帰の引きこもりの世界を、結局、主人公は拒否し、母親へ別れを告げることで、再度心の壁が傷つけ合う他者のいる世界へ戻ることを望む。

旧劇場版では、さらにワン・モア・ファイナルがあって、この最後の「首絞めシーン」の意味については、すでに語りつくされているので、特に付け加える事もないだろう。テレビシリーズの結末と共に、明暗両面を描くことで、主人公の置かれた「ヤマアラシのジレンマ」の二面性を強調した作りになっている訳である。

以上、だいぶ端折った(それでも大分長くなってしまった)が、基本的な構図としては、大体このようになろうかと思う。


さて、これでテレビ版・旧劇場版についての私見を終えたいと思うが、あえて新劇場版についてはなるべく触れないようにして来た。まあ、応用問題を解くお楽しみを奪うような無粋な振る舞いは控えておくのが賢明と考えたからで、ここまで読んでこられた奇特な方には、このチャレンジングな応用問題に、ぜひトライしてみて頂きたいと思う次第である。


それからワン・モア・ファイナル、最後に庵野監督と新劇場版の主題歌を歌っている宇多田ヒカルとの精神的同族性について述べ、この文章を終えることにしたい。

庵野監督は主題歌のオファーをするに当たっては、内容については特に注文は付けなかったとのことであるが、それは恐らく彼女とのこの精神的同族性についての明確な認識があったためではないかと私には思われる。つまり、どのような曲が出来上がってこようとも、それはそのままただちにエヴァの世界観にジャスト・フィットしてしまう、「シンクロ率100%」になってしまうという事実に対する確信があったからではないかと思うのだ。言い換えれば、エヴァという作品、そのクリエーターである庵野秀明、主題歌のクリエーターである宇多田ヒカル、この三者の三位一体性の基底には二人の精神的同族性が存在しているということである。

この点は、次の両者のそれぞれに対応する3つの文章を並べてみれば一目瞭然であろう。

「エヴァ」はくり返しの物語です。
主人公が何度も同じ目に遭いながら、ひたすら立ち上がっていく話です。
わずかでも前に進もうとする、意思の話です。
曖昧な孤独に耐え他者に触れるのが怖くても一緒にいたいと思う、覚悟の話です。>庵野秀明 2006 09/28


2012年12月。エヴァ:Qの公開後、僕は壊れました。
所謂、鬱状態となりました。
6年間、自分の魂を削って再びエヴァを作っていた事への、当然の報いでした。
明けた2013年。その一年間は精神的な負の波が何度も揺れ戻してくる年でした。自分が代表を務め、自分が作品を背負っているスタジオにただの1度も近づく事が出来ませんでした。
他者や世間との関係性がおかしくなり、まるで回復しない疲労困憊も手伝って、ズブズブと精神的な不安定感に取り込まれていきました。
・・・・
2014年初頭。ようやくスタジオに戻る事が出来ました。それから、1年以上かけた心のリハビリにより徐々にアニメの仕事に戻っています。>庵野秀明 2015.04.01



「諦め」という屍を苗床に、「願い」と「祈り」という雑草が、どんどん私の心を覆い尽くしていった。絶望が深くなればなるほど、この雑草もたくましさを増すようで、摘んでも摘んでもまた生えてくる、やっかいなものだった。
でも「願うこと」「祈ること」は、「求めること」と決定的に違う。それは「希望」と「期待」の違い。(前者は、してもいいことなんだ・・・っつうかどうしようもなくね?)と気付いた。それに、願いと祈りをなくしたら私になにが残るだろう。人ではいられないだろう。
ならば雑草よ、好き放題に生えるがいいっ!> 宇多田ヒカル『線―sen―』



従って、この二人の作品の背後には、共に夥しい血が流れているのであって、このような二人のクリエーターを持ち得たことは、現代日本の栄光を示すのか、或いは悲惨を示すのか知らないが、そのことが判らずに両者の作品を愛玩するものは、誹りを免れ得ないであろう。

気持ち悪い!」と。



Sakura Nagashi Music Video