ものぐさ屁理屈研究室

誰も私に問わなければ、
私はそれを知っている。
誰か問う者に説明しようとすれば、
私はそれを知ってはいない。

「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」

2016-03-20 00:00:00 | 小林秀雄

 先日のことだが、「埴谷雄高の小林秀雄評」という以前のエントリーを読み返していて、改めて永松昌泰氏のブログの文章をこれまた読み返していたのだが、以前は気付いていなかった興味深いある事実に気付いた。いやはや、我ながら鈍感にもほどがあると今さらながらに呆れた次第であるが、それは「小林秀雄、杉本春生、埴谷雄高さんのこと(2)」という文章で述べられている対談が、外でもない「コメディ・リテレール-小林秀雄を囲んで」のことであるのに、今になってやっと気づいたからである。

 ここで述べられているのは、「近代文学」同人側(荒正人・小田切秀雄・佐々木基一・埴谷雄高・平野謙・本多秋五の五人)からの言わば楽屋話であるが、この楽屋話は私にこの対談をどうしてもある種の深読みに使嗾するのを禁じえないのである。



「対談を申し入れて、小林秀雄から承諾の返事をもらうと、
五人は小林秀雄を徹底的に論破しようと、
連日夜を徹して議論を重ねました。

そして、その日を迎えました。


結果は・・・・・
惨敗・・・・・


五人は小林秀雄に徹底的に、
完膚無きまでに論破されたのです。
その夜、五人はヤケ酒を飲みました。
あんなに予行演習を重ねたのに、
まったく役に立ちませんでした。
しかし、余りにも完全に打ちのめされたので、
妙にさっぱりしたヤケ酒だったそうです。」



 対談相手の「近代文学」の五人が、事後にこのような感想を抱いていたという事実も、興味深いと言えば興味深いが、それよりも私が瞠目したのは、これに続く部分である。



「しかし、それで話は終わりではありませんでした。
その対談の速記録が、小林秀雄に回されて、
手を入れられて返ってきたのです。

速記録は、あらゆる発言に手を入れられて、
大幅に書き換えられていました。
小林秀雄自身の発言だけではなく、
五人全ての発言にも徹底的に手を入れられていました。


最初は「何だこれは!」という反応でした。
「自分の発言を直すのは良いけれど、
他の人間の発言に手を入れるとは、なんたること!
どういうことだ!」
という感じでした。


しかし、手を入れられた自分の発言を読んでみると、
唖然、呆然、愕然としました。

五人の発言はすべて、
「そうだ! 本当は俺はこう言いたかったんだよ。
正に言いたかったことは、これなんだ!」
と思わずうなってしまうように、見事に書き換えられていたのです。

発言した時には必ずしも明らかではない真意が
素晴らしい形で美しく表現をされていました。

そしてその上で、
小林秀雄は完膚無きまでに、
五人を徹底的に論破していたのです。


それを読んだ五人は、正に放心状態。
完全にノックアウトされてしまいました。

しばらくの間はため息ばかり、
全く仕事にならなかったそうです。」



 実際の速記原稿が残っているとは到底思えないが、特に有名な「僕は政治的には無智な一国民として事変に処した。黙って処した。それについては今は何の後悔もしていない。・・・僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」という発言の前後の文章が、一体どういう風に小林によって「徹底的に手を入れ」られ、「見事に書き換えられていた」のか、残っているならぜひ読んでみたいものである、そう思うのは私だけであろうか。

 というのは、この有名な小林の発言から受ける第一印象は、一種苦し紛れの啖呵的放言とも取れるからだ。だがむしろ事実は逆で、発言に手が入れられて「発言した時には必ずしも明らかではない真意が、素晴らしい形で美しく表現」され直されているということは、小林は書き直すことであえて自ら窮地に陥って見せ、それを逆手に取ることでもって自らのこの戦争に対する見方を積極的な形で打ち出そうとしたのではあるまいか。もってこの対談を、自らの歴史観を明確に述べる好機としたのではあるまいか。もう何度も読み返しているが、この一節を読む度に私はそういった深読みへと誘われて仕方がないのであるが、どう思われるであろうか。

 つまり、私はここに、誤解を招く言い方で言うなら、小林特有の、時局に非常に鋭敏なジャーナリスティックな感性に裏打ちされた、比類のない見事な思想表現の果敢な表出行為を見るのである。そう言ったらこれもまた余りに贔屓の引き倒しに過ぎる発言だと言われるであろうか。恐らく、この比類のなさが、戦後70年以上も経った現在に置いても、この発言が事あるごとに引用され、今だに賛否両論を巻き起こし続けている、言わば火薬庫たる理由であろう。