マヨの備忘録・・・マヨのぼやきから

いろいろあったな・・・真実を知りたい!この一心で始めたブログだったが、知れば知るほど世の中の闇は深くなるばかり・・・。

扶余の四加の謎

2007-11-12 09:28:24 | 古代史

ほとんどの人は興味がないのだろうが、私は扶余の部族、馬加、牛加、猪加、狗加がずいぶん気になっている。高句麗は同じようなものに五部がある。涓奴部、絶奴部、順奴部、灌奴部、桂婁部だ。高句麗は扶余の別れと言われている、が、一つ増えている。どうして?

これが新羅になってもやはり部族の考え方が残っている。

この「加」そして、「部」は、トーテムと言われ、その部族の生い立ちを示している。このことが日本の過去を説明できる大きな手がかりだと思う。なのに、ほとんどの歴史学者はこのことに触れない。それはきっと日本の本質に触れる事になるからだろう。

この五属、あるいは六蓄などが解明できれば、恐らく日本の誕生神話が解けるのではないか。詳しくは研究室の議題なのでここでは詳しく述べないが、今ようやくこの研究に一筋の光が見えてきた。

川崎真治氏の「混血の神々」と言う本が手に入り、これによれば部族の生い立ち、日本への到来がかなり解読できそうだ。

まったく、興味のない人にはくだらない話だろうが、まったく手探りで研究していた私にとっては本当に「宝物」が手に入った。翻訳の作業がひと段落したので、ようやく本来の私の研究課題に打ち込める。

ここでひとつだけ言うと、高句麗の桂婁部以外はすべて奴の字を使っている。つまり、高句麗の支配者は桂婁部であり、あとはそれに支配された「やっこ」になったと言う事だ。さらに言うなら扶余の支配者は「馬加」であり、これは馬韓であり、靺鞨であり、渤海(まか)になっている。この馬加が高句麗では涓奴部になり没落貴族になった。

つまり、渤海の使者が日本の聖武天皇の時に使者をよこし、「お互いに親戚なのだから仲良くしましょう。」と言ったのは、そのときの天皇とは扶余時代の馬加仲間だったと言っているのだ。高句麗とは敵対したのにはこのような訳があったのだろう。このブログにはこれ以上マニアックにすると読む人がいなくなるのでこれくらいにしよう。

全部が解けているわけではないが、少し、薄日が差してきたと言う事。

興味のない人今日はごめんなさい。