『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国データ篇VOL.5 近江・美濃・尾張の深い関係[3/3]

2015-12-14 20:09:17 | 戦国データ篇
本日で3回目です。

今回の注目ポイントは、

①信長妹(お市)と浅井長政の縁組に奔走した

 のは佐々木六角義賢の家臣和田伊賀守惟政。

 その弟和田定利は尾張国黒田城主。純野の

 連続読物では、近江国佐々木六角氏→和田

 惟政→舎弟和田定利→尾張国織田信長、

 というホットラインの機能に焦点を当てて

 います。

②信長は足利義昭を担いだ上洛戦の時、織田

 家祖先と近江国佐々木六角氏の親しい関係

 を十分考慮して、何と佐々木左京大夫承禎を

 説得するため一週間も滞在しています!

 「古来からの因縁を大切にする」という点では、

 織田信長は非常に慎重で奥ゆかしい人物と

 言えます。

③足利義輝は三好長慶から京の都をゆずって

 もらったのも忘れて、排除しようとして弑逆

 されてしまった。足利義昭も織田信長に

 担いでもらって京の都に入れた恩を忘れて

 敗走し、没落しました。なぜ同じことを繰り

 返すんでしょう?




永禄元年(1558)11月27日 佐々木六角義賢の斡旋

        により、足利義輝と三好長慶の

        講和なる。
          ↓
        長慶、義輝に京都を明け渡す

永禄3年(1560)8月 浅井長政、野良田で佐々木六角

        義賢を破る

永禄6年(1563)  佐々木六角義賢、一家内紛が起こり

        弱体化する。子息義治が重臣後藤

        氏を謀殺した為。

永禄8年(1565)12月 佐々木六角義賢の命を受けた

        和田伊賀守惟政が、信長妹(お市)・

        浅井長政の縁組に奔走するも、

        長政の同意が得られず一旦中止。

永禄9年(1566)8月29日 足利義秋、佐々木左京大夫

        を頼るも不承知の為、近江矢島を

        脱出。
          ↓
        能登の畠山義綱に出兵を促す。
          ↓
        後妹婿の若狭守護武田義統を頼る。
          ↓
        敦賀に滞在し上杉輝虎と連絡。

永禄10年(1567)  佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼の

        とりなしで、1563年以来続いていた

        家臣団の紛争から和解し、「六角

        式目」を制定。遵守することを約束。
          ↓
        ただし、重臣の後藤氏・三上氏・

        布施氏・横山氏らの信頼は回復できず。

永禄11年(1568)8月7日 信長は、「すぐに義昭殿の

        入洛あるべし」と考え、近江佐和山

        城に佐々木左京大夫承禎を訪ね、

        「路次の人質の供出・馳走のふるまい

        を出すように」「義昭殿の本意が

        遂げられれば、所司代に任ぜられる」

        など、説得にあたる。一週間逗留して

        交渉。

永禄11年(1568)9月12日 箕作山攻陥

        *佐久間右衛門尉信盛・木下藤吉郎・

         丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八政澄

        *美濃三人衆、先手に用いられない

         ことを不思議がる。
          ↓
        佐々木左京大夫承禎・右衛門督父子、

        箕作山陥落を見て観音寺城から退散

        →石部へ逃亡


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 戦国データ篇VOL.5 近江・美... | トップ | 伊勢貞景(いせさだかげ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

戦国データ篇」カテゴリの最新記事