本日で3回目です。
今回の注目ポイントは、
①信長妹(お市)と浅井長政の縁組に奔走した
のは佐々木六角義賢の家臣和田伊賀守惟政。
その弟和田定利は尾張国黒田城主。純野の
連続読物では、近江国佐々木六角氏→和田
惟政→舎弟和田定利→尾張国織田信長、
というホットラインの機能に焦点を当てて
います。
②信長は足利義昭を担いだ上洛戦の時、織田
家祖先と近江国佐々木六角氏の親しい関係
を十分考慮して、何と佐々木左京大夫承禎を
説得するため一週間も滞在しています!
「古来からの因縁を大切にする」という点では、
織田信長は非常に慎重で奥ゆかしい人物と
言えます。
③足利義輝は三好長慶から京の都をゆずって
もらったのも忘れて、排除しようとして弑逆
されてしまった。足利義昭も織田信長に
担いでもらって京の都に入れた恩を忘れて
敗走し、没落しました。なぜ同じことを繰り
返すんでしょう?
永禄元年(1558)11月27日 佐々木六角義賢の斡旋
により、足利義輝と三好長慶の
講和なる。
↓
長慶、義輝に京都を明け渡す
永禄3年(1560)8月 浅井長政、野良田で佐々木六角
義賢を破る
永禄6年(1563) 佐々木六角義賢、一家内紛が起こり
弱体化する。子息義治が重臣後藤
氏を謀殺した為。
永禄8年(1565)12月 佐々木六角義賢の命を受けた
和田伊賀守惟政が、信長妹(お市)・
浅井長政の縁組に奔走するも、
長政の同意が得られず一旦中止。
永禄9年(1566)8月29日 足利義秋、佐々木左京大夫
を頼るも不承知の為、近江矢島を
脱出。
↓
能登の畠山義綱に出兵を促す。
↓
後妹婿の若狭守護武田義統を頼る。
↓
敦賀に滞在し上杉輝虎と連絡。
永禄10年(1567) 佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼の
とりなしで、1563年以来続いていた
家臣団の紛争から和解し、「六角
式目」を制定。遵守することを約束。
↓
ただし、重臣の後藤氏・三上氏・
布施氏・横山氏らの信頼は回復できず。
永禄11年(1568)8月7日 信長は、「すぐに義昭殿の
入洛あるべし」と考え、近江佐和山
城に佐々木左京大夫承禎を訪ね、
「路次の人質の供出・馳走のふるまい
を出すように」「義昭殿の本意が
遂げられれば、所司代に任ぜられる」
など、説得にあたる。一週間逗留して
交渉。
永禄11年(1568)9月12日 箕作山攻陥
*佐久間右衛門尉信盛・木下藤吉郎・
丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八政澄
*美濃三人衆、先手に用いられない
ことを不思議がる。
↓
佐々木左京大夫承禎・右衛門督父子、
箕作山陥落を見て観音寺城から退散
→石部へ逃亡
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今回の注目ポイントは、
①信長妹(お市)と浅井長政の縁組に奔走した
のは佐々木六角義賢の家臣和田伊賀守惟政。
その弟和田定利は尾張国黒田城主。純野の
連続読物では、近江国佐々木六角氏→和田
惟政→舎弟和田定利→尾張国織田信長、
というホットラインの機能に焦点を当てて
います。
②信長は足利義昭を担いだ上洛戦の時、織田
家祖先と近江国佐々木六角氏の親しい関係
を十分考慮して、何と佐々木左京大夫承禎を
説得するため一週間も滞在しています!
「古来からの因縁を大切にする」という点では、
織田信長は非常に慎重で奥ゆかしい人物と
言えます。
③足利義輝は三好長慶から京の都をゆずって
もらったのも忘れて、排除しようとして弑逆
されてしまった。足利義昭も織田信長に
担いでもらって京の都に入れた恩を忘れて
敗走し、没落しました。なぜ同じことを繰り
返すんでしょう?
永禄元年(1558)11月27日 佐々木六角義賢の斡旋
により、足利義輝と三好長慶の
講和なる。
↓
長慶、義輝に京都を明け渡す
永禄3年(1560)8月 浅井長政、野良田で佐々木六角
義賢を破る
永禄6年(1563) 佐々木六角義賢、一家内紛が起こり
弱体化する。子息義治が重臣後藤
氏を謀殺した為。
永禄8年(1565)12月 佐々木六角義賢の命を受けた
和田伊賀守惟政が、信長妹(お市)・
浅井長政の縁組に奔走するも、
長政の同意が得られず一旦中止。
永禄9年(1566)8月29日 足利義秋、佐々木左京大夫
を頼るも不承知の為、近江矢島を
脱出。
↓
能登の畠山義綱に出兵を促す。
↓
後妹婿の若狭守護武田義統を頼る。
↓
敦賀に滞在し上杉輝虎と連絡。
永禄10年(1567) 佐々木六角氏、旧臣蒲生定頼の
とりなしで、1563年以来続いていた
家臣団の紛争から和解し、「六角
式目」を制定。遵守することを約束。
↓
ただし、重臣の後藤氏・三上氏・
布施氏・横山氏らの信頼は回復できず。
永禄11年(1568)8月7日 信長は、「すぐに義昭殿の
入洛あるべし」と考え、近江佐和山
城に佐々木左京大夫承禎を訪ね、
「路次の人質の供出・馳走のふるまい
を出すように」「義昭殿の本意が
遂げられれば、所司代に任ぜられる」
など、説得にあたる。一週間逗留して
交渉。
永禄11年(1568)9月12日 箕作山攻陥
*佐久間右衛門尉信盛・木下藤吉郎・
丹羽五郎左衛門長秀・浅井新八政澄
*美濃三人衆、先手に用いられない
ことを不思議がる。
↓
佐々木左京大夫承禎・右衛門督父子、
箕作山陥落を見て観音寺城から退散
→石部へ逃亡
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