『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国データ篇VOL.5 近江・美濃・尾張の深い関係[1/3]

2015-12-12 12:54:15 | 戦国データ篇
連続読物『いいかよく聞け五郎左よ!』でも、

足利義秋が興福寺から逃れて元服し、近江国

に入るところまで進んできました。テレビや

小説では、美濃国斉藤道三と尾張国織田信長

の関係は詳しく描かれていますが、意外と

近江・美濃・尾張の各国が深い関係にあること

は、あまり詳しく触れられていません。戦国

時代の行く末を左右するほどの重要なポイント

がありますので、暦年で記述してみます。


今回記事でのポイントは、

①当時から近江の佐々木六角氏は、足利幕府

 に張り合うだけの実力を持っていた。逆に

 言えば、足利将軍家は三好氏などに政治の

 実権を握られ頼りない存在だった。

②佐々木六角氏は伊勢国とは保護してもらう

 だけの関係を保っていた。


ということです。



文正元年(1466)9月 尾張守護代織田兵庫助敏広、

        反対勢力義敏方の浪人も国内に

        多く、自ら下津城を固め弟の織田

        与十郎広近などに軍兵を添えて

        上洛させ、斯波義廉に応じる。

応仁2年(1468) 近江で、佐々木六角氏(西軍)

        と佐々木京極氏(東軍)の戦い

        開始

文明3年(1471) 美濃国斎藤妙椿、近江に進攻し

        西軍の佐々木六角高頼を助け、

        東軍の佐々木京極氏の重臣多賀

        高忠を攻めて越前に追いやる。
          ↓
文明3年(1471) 美濃国斎藤妙椿、伊勢の西軍方

        の援軍のために出兵。

文明7年(1475)9月 佐々木京極政経(東軍)、

        佐々木六角頼方(西軍)を近江

        で破る。

長享元年(1487)5月 近江国の佐々木京極高清が、

        姉川で多賀宗直を敗死させる。

長享元年(1487)9月 佐々木六角高頼が寺社領の

        押領を続け、幕府の再三の命令

        を無視した為九代将軍義尚が

        佐々木六角氏の討伐を諸大名に

        指示。
          ↓
長享元年(1487)9月 義尚出陣。観音寺城を攻め、

        佐々木六角氏は甲賀に逃れる。
            ↓
          加賀の富樫政親、六角攻め

          に出陣する為過酷な兵糧米・      

          人夫役を徴発した為、主力

          軍が進発したすきに一揆が

          蜂起。

延徳元年(1489)3月26日 将軍義尚、佐々木六角

        討伐の陣中で死亡。

延徳3年(1491)8月 足利将軍義稙、佐々木六角氏

        の討伐の為近江三井寺出陣。

明応元年(1492)3月 織田信定・浦上則政ら、近江

        愛知川で佐々木六角高頼を破る。

明応元年(1492)9月 幕府、近江の佐々木六角氏を

        攻撃。六角氏は伊勢へ逃走。

明応5年(1496)12月 斎藤妙純・利光父子、佐々木

        六角高頼と戦う。
          ↓    
        斎藤方敗北→12月7日斎藤妙純死亡


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