『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国データ篇VOL.5 近江・美濃・尾張の深い関係[2/3]

2015-12-13 07:42:45 | 戦国データ篇
近江・美濃・尾張の深い関係の2回目です。

今回記事のポイントは、

①足利将軍家は、やばくなったら近江の

 佐々木六角氏のところへ逃げる。

②“楽市・楽座”は織田信長が始めたわけ

 ではなく、天文18年(1549)近江の佐々木

 六角義賢が観音寺城下で試みている。

③北近江の浅井氏は「守護の佐々木京極氏

 を追い払って統治権を得た者」と周辺国

 から思われている。


ということです。応仁の乱前後から、近江・

美濃・尾張、および足利将軍家・朝倉氏・

本願寺が複雑に絡み合い、頭がクラクラ

してきそうです。



文亀2年(1502)10月 佐々木六角定頼(高頼?)、

        謀叛を起した伊庭貞方を攻め

        敗走させる。

大永2年(1522)7月 佐々木六角定頼(高頼の子)、

        日野城の蒲生秀紀を攻略。

大永3年(1523)3月 北近江の浅井亮政(久政の父)、

        守護の佐々木京極高清(政経の子)

        を攻撃。
          ↓
        高清、尾張に亡命
          ↓
        一時北近江に戻るも子の高吉が

        浅井久政の討伐をはかり失敗し

        追放され坂田郡清滝村に逼塞。

大永7年(1527)3月 戦いの末、細川高国方が敗れ、

        足利義晴を伴い近江に亡命し

        佐々木六角定頼を頼る。
          ↓
        その後朽木氏を頼る

天文元年(1532)8月 佐々木六角定頼、山城本願寺

        を襲い本願寺十世証如(実如の孫)

        を大坂に追う。
          ↓
        八世蓮如が建立した石山道場に

        移住する。(石山本願寺の始まり)

天文3年(1534)9月 足利義晴、近江朽木から京へ戻る。

天文5年(1536)9月 佐々木六角定頼・朝倉孝景、

        土岐頼武(大桑城)救援のため

        美濃へ出兵。

天文8年(1539)  尾張の織田信秀、佐々木六角定頼・

        朝倉孝景と介入し、美濃の齋藤道三・

        土岐頼芸と和睦。
          ↓
天文8年(1539)1月 土岐頼芸・斎藤道三方、大桑城

        の頼純と和議。

天文15年(1546)12月20日 足利義輝、13代将軍

        に就任。
          ↓
天文15年(1546)12月 佐々木六角定頼、義輝の

        元服式で管領代となり御相伴衆

        に列せられる。

天文18年(1549) 佐々木六角義賢、観音寺城下で

        楽市・楽座を試みる。

天文21年(1552)1月 足利義輝、六角義賢の調停で

        三好長慶と和睦し、長慶は御供衆

        となる。義輝は細川晴元の子昭元

        と共に近江より上洛。

弘治3年(1557)  本願寺、六角氏と同盟
          ↓
        本願寺顕如と六角氏女との婚姻なる。


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