『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

富田長繁(とみたながしげ)

2018-06-11 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
富田長繁(とみたながしげ)

〔現代仮名遣い〕とみたながしげ

※下線部は信長公記以外の記事によります。


弥六。越前の豪族で、朝倉氏の一族。

1572年8月信長浅井攻めの最中、信長の元に参上。

1572年11月信長が浅井攻めから退却した後、浅井

    七郎が足軽大将として信長の築いた築地を

    壊そうと出陣したとき、羽柴藤吉郎の手勢

    として追い崩す。

1575年8月信長越前攻撃の先陣をつとめる。

新人物往来社戦国人名事典では以下の通り。

1572年織田信長に内通。

1573年主家が滅びた後信長に仕える。

同年信長の伊勢長島成敗に従軍し抜群の活躍

をするが、居所府中城を没収され越前守護代

を桂田長俊に命ぜられるなど冷遇されたため

一向一揆を結ぶ。

1574年桂田長俊・魚住景固を滅ぼすが、翌年

3月加賀の一向一揆の七里頼周に滅ぼされる。



 ※美濃三人衆を筆頭として、信長公は

  正規ルートで忠誠を誓ってきた敵将

  は基本的に厚遇しますが、本件はど

  うしたのでしょうか?何かいさかい

  が生じたのでしょうか?


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ
にほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 遠山内膳(とほやまないぜん) | トップ | 富小路秀直(とみのこうじひ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事