『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国データ篇VOL.3【軍(いくさ)と寺社、及び戦闘員とは?】

2007-07-03 00:14:52 | 戦国データ篇
戦国時代の軍(いくさ)の進行について

6)戦闘時の神社仏閣の役割

 軍をするにあたって敵が神社仏閣に籠もった場合どう

するか?現代から見ると、「神社仏閣を攻撃したり燃や

したりした場合のたたりが怖い」と見る向きもあるが、

古来そうでもない例が多い。

1180年 平重衡→東大寺焼き討ち
1467年 畠山政長と細川勝元→上御霊社炎上
1489年 宇治衆と山田衆→伊勢神宮内宮炎上
1490年 室町幕府と山城土一揆→山城北野社炎上
1499年 細川政元と延暦寺・足利義稙→延暦寺炎上
 などなど。

 当時の武将は、あまりこだわりなく籠もった敵方を攻撃

しており、「籠もったほうに非があるので、たたりも籠もった

ほうが受けるべき」などと、たたりのなすりあいをしていた

のだろうか?ただ現実の歴史を見ると、たてまえでは

「神社仏閣を攻撃炎上させるのは非道の行い」とし、本音

では「武装して立て籠もっているからには、要害と同じと

みなす」としていたようだ。これは平安後期、興福寺の僧兵

が春日神社の神木をたてて強訴したり、延暦寺の僧兵が

日吉神社の神輿をたてて強訴したりして、結局武士階級

進長のきっかけとなった頃からの問題であった。ちなみに、

興福寺は藤原氏の氏寺、春日神社は藤原氏の氏神で

ある。

 社会的な側面から見ると、古来神社仏閣は治外法権の

場所であり、経済的にも納税義務は無かった。そのかわり

と言っては語弊があるが、軍の陣取りなどのとき、全面的

に宿・食糧を供給する役目を受け持っていた

7)武士とはなにか?

 まず戦国時代の初期の頃までは、戦闘員のみ討ち取り

非戦闘員には手を出さないという美しい原則が生きて

いた。が、次第に日本各地で一揆を起こす者が、すき・

くわなどの非武器の使用から弓矢・鉄砲の使用に切り

替え、相応の戦果をあげるようになると、戦闘員・非戦闘

員の境界がはっきりしなくなってきた。これが、一揆を起こ

す者たち単独の財力で武器購入していたならまだしも、

宗教法人がバックアップしていることが明らかになると、

「武士とは?非戦闘員とは?」という原則が崩壊して

しまった。すなわち、武士についての本来の定義は、

「弓矢を取るもの。しかも一定の文化・経済・政治を遂行

しうる者が武士(=戦闘員)である」ということであったが、

先述のとおり戦国中期からこの定義が崩れ、「とにかく

武器を持って言うことを聞かない者は、武士(=戦闘員)

とみなし、武士の作法にのっとって成敗する」という見方

に切り替わっていったのである。戦国時代後期にはその

観点がさらに拡大解釈され、「武器を持って刃向かうもの

は武士とみなし、そのものたちを経済的に支援する者も

武家の作法にのっとって成敗する」という方向へ切り替

わっていったのである

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