一色藤長(いっしきふじなが)
〔現代かなづかい〕いっしきふじなが
※下線部は信長公記以外の記事によります。
式部少輔。室町幕府の御供衆。将軍義昭の側近。
藤長の甥が「黒衣宰相」といわれた、南禅寺の
金地院崇伝以心。
1565年5月将軍足利義輝が三好修理大夫義継・
松永久秀らに暗殺されたとき、義輝の
弟興福寺一乗院門跡覚慶(のちの義昭)
も幽閉されたが、藤長は細川藤孝ととも
に覚慶を脱出させることに成功した。
その後還俗した義秋に従い、近江・若狭・越前を
流浪し、1568年征夷将軍につけることに成功した。
1568年8~10月信長入洛戦後の能で、三献の
御酌担当。
1573年義昭が織田信長に追放されたのちも、その
復帰を策して奔走したが、1596年4月死去。
※かたや織田信長に付き添ってサバイバルを
する者もいれば、足利義昭を担いで生き残り
を図るものもいる。諸行無常。
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式部少輔。室町幕府の御供衆。将軍義昭の側近。
藤長の甥が「黒衣宰相」といわれた、南禅寺の
金地院崇伝以心。
1565年5月将軍足利義輝が三好修理大夫義継・
松永久秀らに暗殺されたとき、義輝の
弟興福寺一乗院門跡覚慶(のちの義昭)
も幽閉されたが、藤長は細川藤孝ととも
に覚慶を脱出させることに成功した。
その後還俗した義秋に従い、近江・若狭・越前を
流浪し、1568年征夷将軍につけることに成功した。
1568年8~10月信長入洛戦後の能で、三献の
御酌担当。
1573年義昭が織田信長に追放されたのちも、その
復帰を策して奔走したが、1596年4月死去。
※かたや織田信長に付き添ってサバイバルを
する者もいれば、足利義昭を担いで生き残り
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