『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

一色藤長(いっしきふじなが)

2016-01-17 19:47:39 | 信長公記の蔵:人物篇
一色藤長(いっしきふじなが)

〔現代かなづかい〕いっしきふじなが


 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


式部少輔。室町幕府の御供衆。将軍義昭の側近。

藤長の甥が「黒衣宰相」といわれた、南禅寺の

金地院崇伝以心。

1565年5月将軍足利義輝が三好修理大夫義継・

    松永久秀らに暗殺されたとき、義輝の

    弟興福寺一乗院門跡覚慶(のちの義昭)

    も幽閉されたが、藤長は細川藤孝ととも

    に覚慶を脱出させることに成功した。

その後還俗した義秋に従い、近江・若狭・越前を

流浪し、1568年征夷将軍につけることに成功した。


1568年8~10月信長入洛戦後の能で、三献の

    御酌担当。

1573年義昭が織田信長に追放されたのちも、その

    復帰を策して奔走したが、1596年4月死去。

 
 ※かたや織田信長に付き添ってサバイバルを

  する者もいれば、足利義昭を担いで生き残り

  を図るものもいる。諸行無常。


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