【上杉氏の歴史】
*藤原氏勧修寺流の藤原重房が、足利氏領
丹波国八田郡上杉村を名字の地としたこと
による。
*南北朝期を経過し、足利尊氏は関八州
(相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野)
に伊豆・甲斐を含めた「関東十カ国」を特別
行政区とし、政庁を鎌倉に置き鎌倉府とした。
*鎌倉府の長官は、尊氏の子二代将軍足利
義詮の弟基氏を祖とし、鎌倉公方と呼ばれる。
代々基氏の子孫が世襲した。その職務内容は、
関東十カ国の武士に対する軍事命令・領地
保証・神官住持の任免などであった。関東
管領の職務は鎌倉公方の補佐役とされた。
ただし、関東管領と関東十カ国守護代の任免は
室町幕府の将軍が行なうこととした。
(なお、関八州〔相模・武蔵・安房・上総・
下総・常陸・上野・下野〕は親王の任国であり、
守護の親王が「守」を称し、守護代は「介」
を称する。)
*1340年上杉四代目憲顕と高帥冬を「執事」
として鎌倉府の補佐をさせる。憲顕は越後国
守護にも補任される。なお越後は鎌倉幕府
成立の頃から「関東御分国」の一つであった。
1363年憲顕が初めての関東管領職に就任。
1379年憲顕の子憲方が家督を相続し、関東
管領職に就任し山内上杉氏を名乗り、これ
以降山内上杉氏が関東管領を世襲する。
上杉氏の中では山内上杉氏が宗家とされ、
庶流として京都上杉氏/扇谷・宅間・犬懸・
庁鼻和(こばなわ)家・越後守護家が分立
した。
*犬懸上杉氏は、1416年氏憲(禅秀)が、
鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲基を
討とうと叛乱をおこしたが、最初禅秀を支持
していた室町幕府が持氏支持を表明すると
形勢逆転。上杉禅秀は討ち死にし、犬懸上杉氏
は滅亡した。その持氏も1439年永享の乱で
幕府軍と戦い、敗北し自刃。
*京都上杉氏は、上杉氏三代目憲房の弟頼成
が初代。三代目の顕定が鎌倉に下向して、
扇谷氏が創設された。のち、関東豪族との
抗争・鎌倉公方との抗争・上杉氏同士の抗争・
家臣長尾氏の叛乱に北条氏・越後長尾氏・
武田氏の進攻が絡み合い、次第に勢力を弱めて
いく中、1546年河越城の戦いで朝定が討死し
扇谷上杉氏滅亡。
*宗家山内上杉氏も、扇谷上杉氏と同様の推移
をたどり弱体化し、1552年憲政は北条氏政に
破れると長尾景虎を頼り越後へ下向。1561年
鶴ヶ丘八幡宮の社前で山内上杉憲政が長尾景虎
に上杉家の名跡と関東管領職を譲る約束をして、
事実上長尾氏に吸収消滅した。
*なお1538年には上総真里谷武田氏が古河公方
高基の弟義明を小弓公方としたため嫡流高基が
怒り、北条氏康と結ぶという事件が発生し、
同年氏綱・氏康は小弓公方を滅ぼし、その功に
より、古河公方から関東管領を与えられていた。
上杉(謙信)、北条(氏綱・氏康)の両者は
最後まで自分が正統であると主張した。
※藤原氏勧修寺流と言う素晴らしい来歴を持ち、
鎌倉府の「執事」を務めるという華々しい
一族だったのに、「誰と手を組むべきか」
を決めるのにもたもたしているうちに軍場の
旋風に吹き飛ばされてしまう・・
“諸行無常”でございます。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
![にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ](http://history.blogmura.com/his_nihon/img/his_nihon88_31_gold.gif)
にほんブログ村
*藤原氏勧修寺流の藤原重房が、足利氏領
丹波国八田郡上杉村を名字の地としたこと
による。
*南北朝期を経過し、足利尊氏は関八州
(相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野)
に伊豆・甲斐を含めた「関東十カ国」を特別
行政区とし、政庁を鎌倉に置き鎌倉府とした。
*鎌倉府の長官は、尊氏の子二代将軍足利
義詮の弟基氏を祖とし、鎌倉公方と呼ばれる。
代々基氏の子孫が世襲した。その職務内容は、
関東十カ国の武士に対する軍事命令・領地
保証・神官住持の任免などであった。関東
管領の職務は鎌倉公方の補佐役とされた。
ただし、関東管領と関東十カ国守護代の任免は
室町幕府の将軍が行なうこととした。
(なお、関八州〔相模・武蔵・安房・上総・
下総・常陸・上野・下野〕は親王の任国であり、
守護の親王が「守」を称し、守護代は「介」
を称する。)
*1340年上杉四代目憲顕と高帥冬を「執事」
として鎌倉府の補佐をさせる。憲顕は越後国
守護にも補任される。なお越後は鎌倉幕府
成立の頃から「関東御分国」の一つであった。
1363年憲顕が初めての関東管領職に就任。
1379年憲顕の子憲方が家督を相続し、関東
管領職に就任し山内上杉氏を名乗り、これ
以降山内上杉氏が関東管領を世襲する。
上杉氏の中では山内上杉氏が宗家とされ、
庶流として京都上杉氏/扇谷・宅間・犬懸・
庁鼻和(こばなわ)家・越後守護家が分立
した。
*犬懸上杉氏は、1416年氏憲(禅秀)が、
鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲基を
討とうと叛乱をおこしたが、最初禅秀を支持
していた室町幕府が持氏支持を表明すると
形勢逆転。上杉禅秀は討ち死にし、犬懸上杉氏
は滅亡した。その持氏も1439年永享の乱で
幕府軍と戦い、敗北し自刃。
*京都上杉氏は、上杉氏三代目憲房の弟頼成
が初代。三代目の顕定が鎌倉に下向して、
扇谷氏が創設された。のち、関東豪族との
抗争・鎌倉公方との抗争・上杉氏同士の抗争・
家臣長尾氏の叛乱に北条氏・越後長尾氏・
武田氏の進攻が絡み合い、次第に勢力を弱めて
いく中、1546年河越城の戦いで朝定が討死し
扇谷上杉氏滅亡。
*宗家山内上杉氏も、扇谷上杉氏と同様の推移
をたどり弱体化し、1552年憲政は北条氏政に
破れると長尾景虎を頼り越後へ下向。1561年
鶴ヶ丘八幡宮の社前で山内上杉憲政が長尾景虎
に上杉家の名跡と関東管領職を譲る約束をして、
事実上長尾氏に吸収消滅した。
*なお1538年には上総真里谷武田氏が古河公方
高基の弟義明を小弓公方としたため嫡流高基が
怒り、北条氏康と結ぶという事件が発生し、
同年氏綱・氏康は小弓公方を滅ぼし、その功に
より、古河公方から関東管領を与えられていた。
上杉(謙信)、北条(氏綱・氏康)の両者は
最後まで自分が正統であると主張した。
※藤原氏勧修寺流と言う素晴らしい来歴を持ち、
鎌倉府の「執事」を務めるという華々しい
一族だったのに、「誰と手を組むべきか」
を決めるのにもたもたしているうちに軍場の
旋風に吹き飛ばされてしまう・・
“諸行無常”でございます。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
![にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ](http://history.blogmura.com/his_nihon/img/his_nihon88_31_gold.gif)
にほんブログ村