『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:上杉氏

2016-09-04 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【上杉氏の歴史】

*藤原氏勧修寺流の藤原重房が、足利氏領

 丹波国八田郡上杉村を名字の地としたこと

 による。

*南北朝期を経過し、足利尊氏は関八州

 (相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野)

 に伊豆・甲斐を含めた「関東十カ国」を特別

 行政区とし、政庁を鎌倉に置き鎌倉府とした。

*鎌倉府の長官は、尊氏の子二代将軍足利

 義詮の弟基氏を祖とし、鎌倉公方と呼ばれる。

 代々基氏の子孫が世襲した。その職務内容は、

 関東十カ国の武士に対する軍事命令・領地

 保証・神官住持の任免などであった。関東

 管領の職務は鎌倉公方の補佐役とされた。

 ただし、関東管領と関東十カ国守護代の任免は

 室町幕府の将軍が行なうこととした。

 (なお、関八州〔相模・武蔵・安房・上総・

 下総・常陸・上野・下野〕は親王の任国であり、

 守護の親王が「守」を称し、守護代は「介」

 を称する。)

*1340年上杉四代目憲顕と高帥冬を「執事」

 として鎌倉府の補佐をさせる。憲顕は越後国

 守護にも補任される。なお越後は鎌倉幕府

 成立の頃から「関東御分国」の一つであった。

 1363年憲顕が初めての関東管領職に就任。

 1379年憲顕の子憲方が家督を相続し、関東

 管領職に就任し山内上杉氏を名乗り、これ

 以降山内上杉氏が関東管領を世襲する。

 上杉氏の中では山内上杉氏が宗家とされ、

 庶流として京都上杉氏/扇谷・宅間・犬懸・

 庁鼻和(こばなわ)家・越後守護家が分立

 した。

*犬懸上杉氏は、1416年氏憲(禅秀)が、

 鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲基を

 討とうと叛乱をおこしたが、最初禅秀を支持

 していた室町幕府が持氏支持を表明すると

 形勢逆転。上杉禅秀は討ち死にし、犬懸上杉氏

 は滅亡した。その持氏も1439年永享の乱で

 幕府軍と戦い、敗北し自刃。

*京都上杉氏は、上杉氏三代目憲房の弟頼成

 が初代。三代目の顕定が鎌倉に下向して、

 扇谷氏が創設された。のち、関東豪族との

 抗争・鎌倉公方との抗争・上杉氏同士の抗争・

 家臣長尾氏の叛乱に北条氏・越後長尾氏・

 武田氏の進攻が絡み合い、次第に勢力を弱めて

 いく中、1546年河越城の戦いで朝定が討死し

 扇谷上杉氏滅亡。

*宗家山内上杉氏も、扇谷上杉氏と同様の推移

 をたどり弱体化し、1552年憲政は北条氏政に

 破れると長尾景虎を頼り越後へ下向。1561年

 鶴ヶ丘八幡宮の社前で山内上杉憲政が長尾景虎

 に上杉家の名跡と関東管領職を譲る約束をして、

 事実上長尾氏に吸収消滅した。

*なお1538年には上総真里谷武田氏が古河公方

 高基の弟義明を小弓公方としたため嫡流高基が

 怒り、北条氏康と結ぶという事件が発生し、

 同年氏綱・氏康は小弓公方を滅ぼし、その功に

 より、古河公方から関東管領を与えられていた。

 上杉(謙信)、北条(氏綱・氏康)の両者は

 最後まで自分が正統であると主張した。


 ※藤原氏勧修寺流と言う素晴らしい来歴を持ち、

  鎌倉府の「執事」を務めるという華々しい

  一族だったのに、「誰と手を組むべきか」

  を決めるのにもたもたしているうちに軍場の

  旋風に吹き飛ばされてしまう・・

  “諸行無常”でございます。



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