『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

河尻秀隆(かはじりひでたか)[3/3]

2016-09-05 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
河尻秀隆(かはじりひでたか)[3/3]

〔現代かなづかい〕かわじりひでたか

 ※下線部は信長公記以外の記事によります。


1582年3月小笠原長嶺・森長可・団忠直・

    河尻秀隆・毛利秀頼が川を渡り高遠の

    大手口につめると、保科正直は「織田方

    に忠節を尽くし城に火をかける」と申上

    しようとしたがその時間はない。織田

    信忠も高遠の搦め手から攻め付け大乱戦

    となる。

1582年3月信長の知行割で、河尻秀隆は穴山

    信君の本知を除く甲斐国を下される。

    また穴山本知分の代替地として諏訪一郡

    が下される。

1582年6月の本能寺の変後、一揆に殺された。


 ※舎弟勘十郎信行を殺害する所から

  信長の側近中の側近として忠節を尽くし、

  本能寺の変で主が討たれた直後に軍場の

  灰塵と帰す。“諸行無常”でございます。


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