『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

一色満信(いっしきみつのぶ)

2016-01-18 20:40:24 | 信長公記の蔵:人物篇
一色満信(いっしきみつのぶ)

〔現代かなづかい〕いっしきみつのぶ


 ※下線部は信長公記以外の記事によります。

 ※Wikipediaによれば、一色満信=一色義有=

 一色義定となっています。


左京権大夫・一色殿。丹後国与謝郡弓木城主。

義道の子。

1570年4月六条御所新築祝いの能に参列。

1575年8月信長越前攻撃の時、丹後を出発し

    海上から攻め込む。

1575年9月戦後丹後国の経営を任される。

1578年9月信長の九鬼大船見学に堺まで同行。

1581年2月京都での馬揃えに、公家衆として参加。

1581年織田信長にそそのかされ長岡藤孝・忠興

父子と兵を構えたが、惟住光秀の仲介によって

和解。

1582年9月藤孝の女との婚姻を条件としていた

ので、婿として宮津に赴いたところを藤孝父子

に殺害された。



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