『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

関可平次(せきかへいじ)

2017-10-10 00:00:00 | 信長公記の蔵:人物篇
関可平次(せきかへいじ)

〔現代仮名遣い〕せきかへいじ


不詳。

1582年3月滝川一益が武田勝頼の居所をつかみ、

    田子の平屋敷を襲撃。武田勝頼は女房・

    子供を刺し殺し、切って出て討ち死に。

    武田信勝は散々に切りまわってから討ち

    死に。勝頼・信勝の頸は滝川一益が織田

    信忠に進上。信忠は関可平次・桑原助六

    を使いとして信長へと進上した。


 ※信長公の残虐さを示すといわれる事件は、

  1574年河内長嶋成敗

  1578年荒木氏成敗

  1582年武田氏成敗

  などが有名ですが、実はすべて織田信忠

  が同行しているんですよね。(※1571

  年比叡山焼討ちは信忠元服前)「信忠の

  残虐な仕業を隠すために信長公が自分の

  名前を使って成敗したことにした」とし

  たら本能寺で光秀の軍に先に信長公が攻

  められて後で信忠が攻められた順序の謎

  (打ち破りたい敵の総大将には最後に攻

  めかかる軍の礼儀から言えば、光秀が真

  に倒したかった相手は織田信忠であると

  いうロジック)も説明しやすくなる感じ

  がします。うむ、このプロットは面白い

  かもしれない・・


↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へにほんブログ村
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 東京国立博物館で「フランス... | トップ | 関口石見(せきぐちいはみ) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

信長公記の蔵:人物篇」カテゴリの最新記事