『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

信長から細川藤孝への手紙:38織田信長黒印状 天正八年八月廿一日

2021-01-25 00:00:00 | 信長から細川藤孝への手紙(永青文庫所蔵)
【注意事項】

1)本記事は、吉川弘文館刊「永青文庫叢書

細川家文書中世編」を参照しています。

2)現代語訳は純野の“意訳”ですので、訳

し間違いがあるかもしれません。

3)カッコ内は、現代語に直した場合意味が

通じない可能性のある部分に純野が追記した

文言です。

4)現代の歴史書物と異なる表記がある場合

はなるべく原文のままとしました。

5)下線部がある場合は原文で"虫食い空欄”

となっている部分ですので完全に純野の推察

です。


38織田信長黒印状 天正八年八月廿一日

 折帋(お手紙)見させていただいた。その

(貴殿ら父子が入封した丹後の国の)方面に

ついて、変わったこともないとのことでもっ

とも珍重である。なお、居城について、“宮津”

を指定して拵えたい旨心得た。(貴殿が決め

たのであれば)きっとしかるべき場所なので

あろう。(居城の)普請を急ぎたいとのこと

であるが、同時に惟任(光秀)の方にも朱印

状を遣わしてあるので、よくよく相談の上(

普請の)申付けを行うことが肝要である。

 次に(当方のことであるが)去る(八月)

十五日に大坂へと罷り越した。畿内にある

(大坂本願寺方の)諸城は大略破却せしめた

ので、ようやく(大坂から戻り)上洛するこ

とになった。また後音(=のちの便り)をお

送りするつもりである。謹言。

天正八年八月廿一日 信長(黒印)

 長岡兵部太輔(藤孝)殿

   ※天正八年=1580年


**純野のつぶやき**

天正八年(1580年)の前回の書状(八月

十三日)の八日後の書状です。長岡藤孝父子

が丹後の国に入封され「特に異常ありません

が“宮津”に居城を構えたい」という書状への

返信のようです。

 この前後では、

・八月二日

 四月九日から大坂に篭城していた本願寺教

 如光寿が大坂から退出

 *勅使 近衛前久・勧修寺晴豊・庭田重保
  
  及び下使荒屋善左衛門

 *信長方使い 宮内卿法印・佐久間信盛

 *大坂城を受け取る検使 矢部家定
 ↓
 大坂方は信長の来訪を予想し、整然と片

 付けて置いたが、火事が発生し焼け落ちる。

・八月十二日

 信長、京都から宇治橋を通り大坂へ
 ↓
 ここで佐久間信盛・信栄父子に対して、十

 九条の折檻状を自筆でしたためる。

・八月十七日

 信長、大坂から京都へ
 ↓
 ここで、林秀貞・安藤(守就・尚就)父子・

 丹羽右近が国外退去を命じられる。

といった動きがありました。

 もしかしたら、長岡藤孝からこの手紙の前

に大坂本願寺が焼け落ちたことの責任に関す

る手紙が信長に送られ、信長公がそれに応じ

て佐久間への折檻状を書き起こしたとすれば、

この時点で長岡藤孝は、丹後の国にいながら

織田家中に多大な影響を及ぼしていたと見る

ことができます。

以上

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