『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:佐々木氏[2/2]佐々木京極氏

2016-09-19 00:00:00 | 戦国名家の系譜
※佐々木氏は佐々木六角氏と佐々木京極氏に

 分かれていきますので、2回に分けての

 投稿です。二回目は佐々木京極氏から。


【佐々木氏の歴史】

*近江源氏佐々木氏の末裔。氏綱の子の時に

 分派。次男高信の系統は、後義綱の時に

 朽木氏となる。四男泰綱は京都六角東洞院

 に住み、佐々木六角氏の祖。五男氏信は

 京極高辻に住み佐々木京極家の祖となる。


≪佐々木京極氏≫

*惣領は六角氏のものであったが、高氏

 (導誉)の時、高氏は南北朝期足利尊氏

 から絶大の信頼を得て、幕府の政所執事・

 評定衆・引付頭人といった要職を歴任。

 若狭・近江・出雲・上総・飛騨の各国

 守護を任ぜられるなど、惣領家の六角氏

 を凌ぐようになった。

*孫の高詮は侍所所司に任ぜられる四職の

 一つに列し、飛騨・出雲・隠岐の守護職

 の世襲化と、本拠北近江三郡の実質支配

 (分郡守護)を確立。後に御相伴衆と

 して幕政に参加する家格を有した。しかし、

 応仁の乱で家督争いや長期戦の為領国支配

 が動揺、家臣の浅井氏(亮政)に北近江を、

 守護代尼子氏に出雲・隠岐を奪われ、家は

 没落する。1523年京極高清・高吉父子は

 家臣の浅井亮政に尾張に追われるが、亮政

 は小谷城を作り再び高清父子を迎え入れる。
 
*高清の子高吉は浅井久政討伐を計るも失敗。

 高吉・高次父子は国外に追放され、坂田郡

 清滝村に逼塞する。

*1568年信長の入洛途上、近江入りの際いち

 早く臣従を誓う。高次は信長の人質となる。

*本能寺の変の時、高次は近江奥島五千石。

 しかし明智方について秀吉の城を攻めた為、

 追われる身となる。高次の妹が秀吉の側室

 (松の丸)となるのを機に罪を許され、

 大津城主六万石となる。異名に「ホタル大名」

 とよばれた。

*関が原では東軍に属し、大坂方の兵一万五千

 を十日間大津城にひきつける。その功により

 若狭小浜城主九万石に封ぜられる。


 ※江戸時代には京極家は四国讃岐国の丸亀

  城主となり、いまでも市内「京極通り」

  などに名を残しています。追手門には

  “平四ツ目結い”の家紋の幕が風に

  翻っております。


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戦国名家の系譜:佐々木氏[1/2]佐々木六角氏

2016-09-18 00:00:00 | 戦国名家の系譜
※佐々木氏は佐々木六角氏と佐々木京極氏に

 分かれていきますので、2回に分けての

 投稿です。まずは佐々木六角氏から。


【佐々木氏の歴史】

*近江源氏佐々木氏の末裔。氏綱の子の時に

 分派。次男高信の系統は、後義綱の時に

 朽木氏となる。四男泰綱は京都六角東洞院

 に住み、佐々木六角氏の祖。五男氏信は

 京極高辻に住み佐々木京極家の祖となる。

≪佐々木六角氏≫

*鎌倉期より佐々木氏惣領として近江守護を

 世襲してきたが、南北朝京極高氏の頃京極氏

 に押される。その後半国守護化し、北近江

 守護は京極氏・南近江守護は六角氏となる。

 応仁の乱に入り、1468年から京極氏と六角氏

 の抗争が激化。高頼の時それまでの寺社領

 収奪を幕府から咎められ、足利義尚軍に攻め

 られ甲賀に逃げる。1492年には足利義稙・

 幕府軍に攻められ伊勢に逃げる。

*その子定頼の時佐々木六角氏の全盛期を

 迎える。京極氏の臣浅井氏(亮政)に連勝。

 1527年将軍義晴・細川高国が義維・細川

 晴元との抗争に破れ近江に落ち延びてくる

 とこれを保護。本願寺を山城から追い出し

 本願寺は大坂へと移る。また美濃国内紛

 にも関与し、土岐頼武・頼芸の抗争の時は、

 朝倉孝景と組んで兄頼武を支援した。

 1546年には足利義輝の元服式で管領代と

 なり、御相伴衆に列せられる。

※その子義賢(承禎)の時、近江に逃亡して

 きた細川晴元と足利義晴・義輝父子を保護。

 三好・松永党と戦う。また湖北で浅井長政

 と戦い敗北。1557年には本願寺顕如を婿に

 迎え和解。その後1563年子息の義治が重臣

 後藤氏を謀殺したことから一家の内紛となり、

 統率力が弱体化してゆく。和田伊賀守惟政

 に命じ、信長の妹(お市)と浅井長政の縁組

 を計るも、長政の同意が得られず一旦中止。

 足利義輝弑逆事件の後流れてきた足利義秋を、

 一家内紛の為保護できず。やっと1567年旧臣

 蒲生定頼のとりなしにより家臣団との和解が

 なり、「六角式目」制定の上遵守することを

 約束したが、重臣の後藤氏・三上氏・布施氏・

 横山氏らの信頼は回復できず。1568年信長の

 義昭上洛のための戦いの時抵抗したが、箕造山

 を攻陥され観音寺城から退城し石部へ逃亡。

 その後浅井氏・本願寺と組んで再挙を図るも、

 宇治田原で病死。


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戦国名家の系譜:吉良氏

2016-09-11 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【吉良氏の歴史】

*清和源氏で足利氏の支流。三河国吉良荘

 よりおこる。足利一門の中でも家格が高く、

 嫡流は応仁の乱まで「御一家」と称され、

 室町幕府に出仕した。「御所が絶えれば

 吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」

 といわれたが、奥州探題を務めた以外は

 幕府の要職に就任することがなかった。

*室町期に三流あり、東条吉良氏・奥州吉良氏

 (世田谷吉良氏)が嫡流家から分立したと

 される。嫡流家は、東条吉良氏との争いが

 原因で衰退し、吉良荘内の西条城主に過ぎ

 なくなる。

*西条吉良氏は三河一向一揆の将となるが、

 家康に敗れ、のち摂津で滅亡した。

*東条吉良氏は義安の時今川義元に破れるが、

 家康から東条・西条の併有を認められ、

 徳川氏の家臣となった。江戸期には高家

 として存続した。

*一方世田谷吉良氏は、鎌倉公方一家として

 鎌倉府に出仕し、のち北条氏に従った。

 江戸期は旗本となり「蒔田(まいた)」と

 称した。


 ※戦国の騒乱を生き抜き、江戸期に高家と

  しての処遇を受け、「忠臣蔵」では吉良

  上野介義央が敵役として有名ですが、

  浅野内匠頭も清和源氏で家格の高い

  吉良氏の前では多少は我慢しないと・・


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戦国名家の系譜:上杉氏

2016-09-04 00:00:00 | 戦国名家の系譜
【上杉氏の歴史】

*藤原氏勧修寺流の藤原重房が、足利氏領

 丹波国八田郡上杉村を名字の地としたこと

 による。

*南北朝期を経過し、足利尊氏は関八州

 (相模・武蔵・安房・上総・下総・上野・下野)

 に伊豆・甲斐を含めた「関東十カ国」を特別

 行政区とし、政庁を鎌倉に置き鎌倉府とした。

*鎌倉府の長官は、尊氏の子二代将軍足利

 義詮の弟基氏を祖とし、鎌倉公方と呼ばれる。

 代々基氏の子孫が世襲した。その職務内容は、

 関東十カ国の武士に対する軍事命令・領地

 保証・神官住持の任免などであった。関東

 管領の職務は鎌倉公方の補佐役とされた。

 ただし、関東管領と関東十カ国守護代の任免は

 室町幕府の将軍が行なうこととした。

 (なお、関八州〔相模・武蔵・安房・上総・

 下総・常陸・上野・下野〕は親王の任国であり、

 守護の親王が「守」を称し、守護代は「介」

 を称する。)

*1340年上杉四代目憲顕と高帥冬を「執事」

 として鎌倉府の補佐をさせる。憲顕は越後国

 守護にも補任される。なお越後は鎌倉幕府

 成立の頃から「関東御分国」の一つであった。

 1363年憲顕が初めての関東管領職に就任。

 1379年憲顕の子憲方が家督を相続し、関東

 管領職に就任し山内上杉氏を名乗り、これ

 以降山内上杉氏が関東管領を世襲する。

 上杉氏の中では山内上杉氏が宗家とされ、

 庶流として京都上杉氏/扇谷・宅間・犬懸・

 庁鼻和(こばなわ)家・越後守護家が分立

 した。

*犬懸上杉氏は、1416年氏憲(禅秀)が、

 鎌倉公方足利持氏と関東管領山内上杉憲基を

 討とうと叛乱をおこしたが、最初禅秀を支持

 していた室町幕府が持氏支持を表明すると

 形勢逆転。上杉禅秀は討ち死にし、犬懸上杉氏

 は滅亡した。その持氏も1439年永享の乱で

 幕府軍と戦い、敗北し自刃。

*京都上杉氏は、上杉氏三代目憲房の弟頼成

 が初代。三代目の顕定が鎌倉に下向して、

 扇谷氏が創設された。のち、関東豪族との

 抗争・鎌倉公方との抗争・上杉氏同士の抗争・

 家臣長尾氏の叛乱に北条氏・越後長尾氏・

 武田氏の進攻が絡み合い、次第に勢力を弱めて

 いく中、1546年河越城の戦いで朝定が討死し

 扇谷上杉氏滅亡。

*宗家山内上杉氏も、扇谷上杉氏と同様の推移

 をたどり弱体化し、1552年憲政は北条氏政に

 破れると長尾景虎を頼り越後へ下向。1561年

 鶴ヶ丘八幡宮の社前で山内上杉憲政が長尾景虎

 に上杉家の名跡と関東管領職を譲る約束をして、

 事実上長尾氏に吸収消滅した。

*なお1538年には上総真里谷武田氏が古河公方

 高基の弟義明を小弓公方としたため嫡流高基が

 怒り、北条氏康と結ぶという事件が発生し、

 同年氏綱・氏康は小弓公方を滅ぼし、その功に

 より、古河公方から関東管領を与えられていた。

 上杉(謙信)、北条(氏綱・氏康)の両者は

 最後まで自分が正統であると主張した。


 ※藤原氏勧修寺流と言う素晴らしい来歴を持ち、

  鎌倉府の「執事」を務めるという華々しい

  一族だったのに、「誰と手を組むべきか」

  を決めるのにもたもたしているうちに軍場の

  旋風に吹き飛ばされてしまう・・

  “諸行無常”でございます。



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戦国名家の系譜:今川氏・北条氏の歴史[2/2]

2016-08-29 00:00:00 | 戦国名家の系譜
本日は前回に続き、今川氏・北条氏の

歴史です。鎌倉時代の北条氏ではなく

戦国時代の通称「後北条氏」と呼ばれる

北条氏の歴史です。


【今川氏・北条氏の歴史】

≪北条氏≫

*伊勢家の支流である備中伊勢家は、盛定の

 とき伊勢宗家の貞親の妹を嫁に取り、京都

 情勢との関連を保つ。盛定の子盛時は、

 京都伊勢家での出仕を経て、伊勢宗家と

 今川家の取次ぎを行なう。盛時の姉北河殿

 が今川義忠に嫁いだ縁もあり駿河に下向して

 いるうちに、義忠の死後起きた家督争いで

 小鹿範満を滅ぼし義忠の子氏親を家督につけた。

*氏親を助けその家臣団の対立を処理している

 間に、国内ではもちろんのこと、軍事力・

 政治力が室町幕府・関東地区の認めるところ

 となる。のち興国寺城主となり、堀越公方

 足利茶々丸の討伐の前後から関東の政情にも

 介入せざるを得なくなり、1493年茶々丸を

 追放すると韮山城に移り住み、実質的に、

 室町幕府⇔京都の伊勢宗家⇔今川家の、関東

 戦略担当者という色合いを強めていく。

*その後、氏親の依頼で遠江へ進攻・扇谷上杉氏

 と山内上杉氏の抗争に介入・茶々丸討伐の

 ため甲斐国へ侵攻など活躍し、1495年小田原

 の大森頼春を滅ぼしここを根拠とし、伊豆国

 支配が開始された。1506年には三河の岩津

 松平宗家を滅亡に追い込む。その後1516年

 相模守護三浦義同を討ち、伊豆と共に相模を

 領有する。直後上総進攻し、上総真里谷武田氏

 と下総小弓原方三上氏(真名城)の抗争に介入。

 1518年には子息氏綱に家督を譲る。1519年

 韮山城で没するが、最後まで今川家の忠臣と

 しての立場を崩さず、今川氏に反抗すること

 はなかった。法名宗瑞。早雲庵に住したこと

 から「北条早雲」と称されるが、北条を名乗る

 のは子の氏綱から。

*1518年宗瑞と扇谷上杉朝興は小弓公方の一件

 で和していたが、北条氏綱は1524年武蔵

 江戸城の扇谷上杉朝興(朝良の養子)を攻略し、

 武蔵に進出。江戸城攻防戦を通じて関東一帯

 を次第に制圧していく。1536年「花蔵の乱」

 が起きる。早逝した今川氏輝の弟であった梅岳

 承芳は、12代将軍義晴から偏諱を受け「今川

 義元」と名乗り、北条氏綱の支援により兄玄広

 恵探を自刃に追い込み家督を継いだ。ところが

 1537年今川義元が武田信虎の女と婚姻を結んだ

 ため、氏綱は激怒。今川氏と北条氏の関係は

 急速に悪化する。1538年には上総真里谷武田氏

 が古河公方高基の弟義明を小弓公方としたため

 嫡流高基が怒り、北条氏康と結ぶ。同年氏綱・

 氏康は小弓公方を滅ぼし、その功により、古河

 公方から関東管領を与えられる。なお1561年

 鶴岡八幡宮社前で山内上杉憲政が長尾景虎に

 上杉氏の名跡と関東管領職を与えており、両者

 は最後まで自分が正統であると主張した。

*1541年氏綱が没すると、氏康が家督を継ぐ。

 1546年河越の戦いで山内上杉憲政・扇谷上杉

 朝定連合軍を打ち破ると、憲政は越後に逃亡、

 朝定は討ち死にし扇谷上杉氏は滅亡した。

 武田氏・今川氏との抗争が続いたが、1554年

 武田氏の仲介で今川氏と婚姻関係を結び三国

 軍事同盟(善徳寺の会盟)を結ぶ。1559年

 氏康は子息氏政に家督を譲る。1560年桶狭間

 の戦いで今川義元が織田信長の軍に討ち取ら

 れると、子の氏真は戦後処理を誤り、松平元康

 の独立と三河支配を許し、三国軍事同盟も破綻

 して迷走しているうちに、信玄・家康に攻め

 られ居城を転々とする中、伊豆に逃れ北条氏を

 頼った。

*関東では1561年に上杉氏の名跡を憲政から譲り

 受けた上杉政虎(謙信)との抗争を続け、武田氏

 との抗争も続き、信長の上洛戦以降の京都の趨勢

 から取り残されていく。

*1574年関宿城攻略後、古河公方領国も実質的に

 併合したが、1590年豊臣秀吉による小田原合戦

 で滅亡した。


 ※後北条氏も関東で覇を唱えるところまでは

  よかったのでしょうが、「今川義元を滅した

  織田信長が攻めてこないのは、間に徳川家康

  がいるからだ!」ということを強く認識し、

  織田・徳川両家から京都情報を入手できる

  だけの友好関係を保っていれば、秀吉に

  滅ぼされることもなかったのではないかと

  思います。


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戦国名家の系譜:今川氏・北条氏の歴史[1/2]

2016-08-28 06:30:00 | 戦国名家の系譜
駿河の今川氏と伊勢盛時(のち北条早雲と

呼ばれる人物)のころから今川氏と北条氏

(後北条氏)は強い関係があります。

記事量が多いので、二回に分けての投稿です。

今回は今川氏の歴史です。


【今川氏・北条氏の歴史】

≪今川氏≫

*足利氏の氏族で、三河国今川荘を本貫の地と

 する。南北朝範国の時、遠江国守護・駿河国

 守護及び引付頭人を任ずる。「御所が絶えれば

 吉良が継ぎ、吉良が絶えれば今川が継ぐ」と

 いわれた名家。範国の次男貞世(了俊)は、

 応安元年(1371)25年間九州探題となって

 いたが、その後駿河半国の守護となり、末裔は

 遠江に移り遠江今川氏と称した。

*嫡流家は、管領に就任した斯波氏に遠江守護

 を取られたが、駿河守護職を代々世襲する。

 範政の時代に関東で1416年上杉禅秀の乱が

 起きると、今川氏内部でも家督争いが起きた。

 この争いで範忠が後継者となり、今川の姓は

 惣領家のみが称することになった。その為

 庶流は、遠江今川氏→堀越氏、その他の一族→

 瀬名・小鹿等を称することとなる。

*応仁の乱の時は義政方(東軍)に属する。範忠

 の子義忠が没すると、義忠の子氏親と小鹿範満

 の家督争いが発生したが、駿河に下向していた

 義忠の嫁の弟伊勢盛時の介入もあり、範満を討ち

 取り氏親が家督を継ぐ。氏親は伊勢盛時の協力

 により勢力を伸ばし、1517年管領家斯波義達

 を破り遠江守護を奪取するなど戦国大名化して

 いく。また伊勢盛時は、堀越公方足利茶々丸の

 討伐の頃から関東の政情にも介入するようになり、

 1493年茶々丸を追放すると韮崎城に移り住み、

 実質的に、室町幕府⇔京都伊勢宗家⇔今川家の、

 関東戦略担当者という色合いを強めていく。

*氏親の死後、嫡男氏輝が幼少であったため、

 氏親室の寿桂尼が補佐し領国を治める。その後

 氏輝が早逝すると、1536年「花蔵の乱」が起きる。

 氏輝の弟であった梅岳承芳は、12代将軍義晴

 から偏諱を受け「今川義元」と名乗り、北条

 氏綱の支援により兄玄広恵探を自刃に追い込み

 家督を継いだ。

*義元は、北条氏との紛争・武田氏との争いを経て、

 三国軍事同盟(善徳寺の会盟)を結ぶと、東三河

 から尾張領に手をつけ戦国大名としての体制を

 整えた。ところが永禄三年(1560)桶狭間の

 戦いで織田信長の軍に討ち取られる。

*子の氏真は戦後処理を誤り、松平元康の独立と

 三河支配を許し、三国軍事同盟も破綻して迷走

 しているうちに、信玄・家康に攻められ居城を

 転々とする中、伊豆に逃れ北条氏を頼った為

 今川氏滅亡となった。のち1571年北条氏康の

 死後、氏政が上杉謙信と断交し武田信玄と講和

 すると、自動的に氏真は国外に追放され結局

 家康を頼ることとなった。1575年3月上洛した

 信長のもと(相国寺)へ参上。「百端帆」を

 進上した。

*江戸時代は家康のもとで高家の扱いを受けた。


 ※“ぼー”っとしているうちに領国をすべて

  失った愚君のように思われている今川氏真

  ですが、

  ・歯を食いしばり北条家を頼り、

  ・ほうほうの体で徳川家康を頼り、

  ・涙をぬぐって織田信長に貢ぎ物

  をした結果、江戸期に高家として生き残る

  ことができました。すさまじいサバイバル

  能力ですね。


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戦国名家の系譜:朝倉氏

2016-08-21 06:30:00 | 戦国名家の系譜
【朝倉氏の歴史】

*開化天皇の皇子丹波彦坐命(いますのみこと)

 を祖神とする但馬国造家の支流で、本姓日下部氏。

 元弘三年(1333)足利氏の挙兵の際に斯波氏

 に属し、建武四年(1337)斯波氏にしたがって

 越前に入部し、新田方と戦う。南北朝期は北朝方

 として戦う。この間一族が越前各地に氏族を形成。

*文明四年(1471)5月、応仁の乱の中、敏景

 (孝景)が西軍から東軍に寝返り、将軍義政から

 越前守護に補任される。敏景は守護代の甲斐氏を

 追い払い、坂井郡黒丸城から一乗谷へ移る。

*その嫡孫貞景は、一族の叛乱を鎮圧。1488年

 加賀守護富樫政親を倒して意気あがる一向一揆が、

 甲斐氏の余党をたすけて侵入してきたのを撃退する。

 その後一揆の越前進攻を打ち破り、越前国の経営を

 確立する。

*その子孝景は将軍義稙をたすける為近江へ出兵。

 将軍義晴に召されて上洛した。加賀の大小一揆の

 抗争では小一揆を応援。佐々木六角氏と浅井氏の

 戦いには、浅井氏に援軍を送った。美濃土岐氏の

 内紛(兄頼武と弟頼芸)では、佐々木六角定頼と

 ともに頼武をたすけ、頼芸をかついだ斎藤道三と

 対抗する。最終的には弟頼芸が守護職に就いた。

 1538年には朝倉氏は御相伴衆に列せられる。

*その子義景は文化的な面では秀で、多くの公家が

 越前を来訪したが、戦略的には能力不足。1552年

 には将軍義輝から篇諱を受けて「延景」を「義景」

 とあらため、父子が幕府と関連深かったにも

 かかわらず頼ってきた足利義秋(義昭)の扱いを

 ぐずっているうちに信長が義昭の入洛・征夷将軍

 就位を成立させる。信長・義昭の発した上洛命令に

 返事もしなかったため越前攻撃の口実を与え、

 結局味方につけたはずの浅井氏とともに信長の軍に

 滅ぼされる。


 ※皇家の末裔であり幕府の御相伴衆という

  すばらしい立場であったにもかかわらず、

  一瞬の判断ミスで軍場の灰塵と帰す。

  “諸行無常”でございます。


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戦国名家の系譜:浅井氏

2016-08-14 06:30:00 | 戦国名家の系譜
【浅井氏の歴史】

*浅井氏は近江国浅井郡丁野郡付近を本拠に

 した土豪。浅井亮政はもともと守護京極氏

 の臣であった。1523年浅井亮政は守護京極

 高清父子を尾張へ追放するも、小谷城を築く

 と再び京極父子を迎え入れる。しかし京極

 高清の子高吉(注1)は亮政の嫡男久政討伐

 を計るも失敗。国外に追放され、高吉・高次

 父子は坂田郡清滝村に逼塞する。

*浅井亮政は南近江の佐々木六角定頼と交戦を

 繰り返すも、再三敗北。亮政の六角攻めに、

 朝倉氏は浅井方を支援。その子久政は文弱で、

 六角氏の意を迎えるに努める。1530年来の

 美濃の騒乱では、佐々木六角定頼・朝倉孝景

 の連合軍が、斎藤道三方を攻める為北近江を

 通るのを許している。ところが、1547年久政

 が斎藤道三と組んで織田信秀の大垣城を攻めて

 から佐々木六角氏との関係にひびが入る。

*1548年には斎藤道三の子息義竜と久政の女

 近江の方の婚儀なる。その子長政は1560年

 佐々木六角義賢(承禎)を破り名をあげた。

 その後1565年将軍義輝弑逆事件が起こると、

 美濃平定に成功しつつあった尾張の織田信長

 に危機感をもった六角義賢は、和田伊賀守

 惟政を使いとして長政に信長家との婚礼を

 進めるも、一旦断る。がしかし、1567年信長

 が美濃平定に成功すると、今度は浅井長政から、

 急ぎ美濃福東城主市橋長利を介して、信長に

 同盟を求め、翌1568年長政と信長妹のお市

 との婚儀なる。

*その年の信長上洛戦の路次で、浅井家が追放

 した元北近江守護京極氏を信長が手勢に加えた

 ことから、六角氏・浅井氏に不信感が発生。

 そのためか1570年将軍義昭と信長の上洛命令

 を無視した朝倉氏に対し信長が軍事行動を

 おこしたときには、浅井長政は佐々木六角承禎

 と組んで信長に対して叛乱をおこし、朝倉氏

 擁護に廻る。結果的に朝倉義景と連合して信長

 に対抗するも、天正元年(1573)8月滅ぼされて

 しまう。


 ※戦国人名事典では、京極高清からの代々は

  高清→高峰→高秀→高吉→高次とありますが、

  WIKIでは「高吉は高清の子」となっています。

 ※以前は「あさい」と読む場合もありましたが、

  現在では「あざい」と読むことになっている

  ようです。


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戦国名家の系譜:赤松氏

2016-08-07 06:30:00 | 戦国名家の系譜
現在「信長公記の蔵:人物篇」の記事を

アップしておりますが、かなり単調なので、

土日だけは別の種類の投稿をしようかな・・

ということで、「戦国名家の系譜」という

カテゴリを作成して、これまでまとめた

資料を公開していこうかと思います。

大体あいうえお順での公開です。


第一回は赤松氏です。

【赤松氏の歴史】

*村上天皇の皇子具平親王を祖とする。鎌倉

 初期に播磨国佐用荘の地頭職を与えられ、

 赤松村を本領とする。

*建武の争乱時には、尊氏方として活躍し、

 戦功によって播磨国守護職に補任される。

 さらに不遇の義満を保護したことにより、

 備前・美作を加えた三カ国の守護となって

 幕府に重きをなし、御相伴衆に列せられた。

*しかし1441年嘉吉の変で六代将軍義教を

 弑逆して、幕府からの討伐を受けて以降は

 凋落。1458年赤松氏の遺臣小川弘光が、

 禁闕の変(1443)で奪われた神璽を奪還。

 その功績により、赤松満祐の弟義雅の孫次郎

 法師丸が幕府に出仕し、将軍義政の偏諱を

 受け政則との名乗りを受ける。1465年播磨国

 上日出身の蔭凉軒真蘂の仲介により赤松氏

 (政則)復権。1467年からの応仁の乱では

 畠山政長方(東軍)として活躍。1488年には

 細川政元らの策動もあり、山名氏から播磨・

 美作・備前の三カ国を奪取する。1491年赤松

 義村は備前国家臣の浦上政宗に叛かれ、

 1521年浦上に自刃に追い込まれる。

*豊臣政権下では阿波国内に一万石を与えられる

 が、嗣子なく断絶した。

*庶流には但馬竹田城主赤松氏・有田・進・有馬・

 石野の各氏がいる。このうち竹田城主赤松氏は、

 関が原の合戦に際して西軍に属し、因幡鳥取に

 おいて自害した。石野氏は織豊期を経て徳川家

 に仕え、子孫存続した。


**純野のつぶやき**

三管領:細川・斯波・畠山

五職:赤松・一色・京極・山名・土岐

の各氏も戦国時代を経て江戸期まで

どのように生き残っていったかを

考えると“諸行無常”でございます。


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