【浅井氏の歴史】
*浅井氏は近江国浅井郡丁野郡付近を本拠に
した土豪。浅井亮政はもともと守護京極氏
の臣であった。1523年浅井亮政は守護京極
高清父子を尾張へ追放するも、小谷城を築く
と再び京極父子を迎え入れる。しかし京極
高清の子高吉(注1)は亮政の嫡男久政討伐
を計るも失敗。国外に追放され、高吉・高次
父子は坂田郡清滝村に逼塞する。
*浅井亮政は南近江の佐々木六角定頼と交戦を
繰り返すも、再三敗北。亮政の六角攻めに、
朝倉氏は浅井方を支援。その子久政は文弱で、
六角氏の意を迎えるに努める。1530年来の
美濃の騒乱では、佐々木六角定頼・朝倉孝景
の連合軍が、斎藤道三方を攻める為北近江を
通るのを許している。ところが、1547年久政
が斎藤道三と組んで織田信秀の大垣城を攻めて
から佐々木六角氏との関係にひびが入る。
*1548年には斎藤道三の子息義竜と久政の女
近江の方の婚儀なる。その子長政は1560年
佐々木六角義賢(承禎)を破り名をあげた。
その後1565年将軍義輝弑逆事件が起こると、
美濃平定に成功しつつあった尾張の織田信長
に危機感をもった六角義賢は、和田伊賀守
惟政を使いとして長政に信長家との婚礼を
進めるも、一旦断る。がしかし、1567年信長
が美濃平定に成功すると、今度は浅井長政から、
急ぎ美濃福東城主市橋長利を介して、信長に
同盟を求め、翌1568年長政と信長妹のお市
との婚儀なる。
*その年の信長上洛戦の路次で、浅井家が追放
した元北近江守護京極氏を信長が手勢に加えた
ことから、六角氏・浅井氏に不信感が発生。
そのためか1570年将軍義昭と信長の上洛命令
を無視した朝倉氏に対し信長が軍事行動を
おこしたときには、浅井長政は佐々木六角承禎
と組んで信長に対して叛乱をおこし、朝倉氏
擁護に廻る。結果的に朝倉義景と連合して信長
に対抗するも、天正元年(1573)8月滅ぼされて
しまう。
※戦国人名事典では、京極高清からの代々は
高清→高峰→高秀→高吉→高次とありますが、
WIKIでは「高吉は高清の子」となっています。
※以前は「あさい」と読む場合もありましたが、
現在では「あざい」と読むことになっている
ようです。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村
*浅井氏は近江国浅井郡丁野郡付近を本拠に
した土豪。浅井亮政はもともと守護京極氏
の臣であった。1523年浅井亮政は守護京極
高清父子を尾張へ追放するも、小谷城を築く
と再び京極父子を迎え入れる。しかし京極
高清の子高吉(注1)は亮政の嫡男久政討伐
を計るも失敗。国外に追放され、高吉・高次
父子は坂田郡清滝村に逼塞する。
*浅井亮政は南近江の佐々木六角定頼と交戦を
繰り返すも、再三敗北。亮政の六角攻めに、
朝倉氏は浅井方を支援。その子久政は文弱で、
六角氏の意を迎えるに努める。1530年来の
美濃の騒乱では、佐々木六角定頼・朝倉孝景
の連合軍が、斎藤道三方を攻める為北近江を
通るのを許している。ところが、1547年久政
が斎藤道三と組んで織田信秀の大垣城を攻めて
から佐々木六角氏との関係にひびが入る。
*1548年には斎藤道三の子息義竜と久政の女
近江の方の婚儀なる。その子長政は1560年
佐々木六角義賢(承禎)を破り名をあげた。
その後1565年将軍義輝弑逆事件が起こると、
美濃平定に成功しつつあった尾張の織田信長
に危機感をもった六角義賢は、和田伊賀守
惟政を使いとして長政に信長家との婚礼を
進めるも、一旦断る。がしかし、1567年信長
が美濃平定に成功すると、今度は浅井長政から、
急ぎ美濃福東城主市橋長利を介して、信長に
同盟を求め、翌1568年長政と信長妹のお市
との婚儀なる。
*その年の信長上洛戦の路次で、浅井家が追放
した元北近江守護京極氏を信長が手勢に加えた
ことから、六角氏・浅井氏に不信感が発生。
そのためか1570年将軍義昭と信長の上洛命令
を無視した朝倉氏に対し信長が軍事行動を
おこしたときには、浅井長政は佐々木六角承禎
と組んで信長に対して叛乱をおこし、朝倉氏
擁護に廻る。結果的に朝倉義景と連合して信長
に対抗するも、天正元年(1573)8月滅ぼされて
しまう。
※戦国人名事典では、京極高清からの代々は
高清→高峰→高秀→高吉→高次とありますが、
WIKIでは「高吉は高清の子」となっています。
※以前は「あさい」と読む場合もありましたが、
現在では「あざい」と読むことになっている
ようです。
↓ランキングに参加中。クリック応援よろしくお願いします!
にほんブログ村