『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:浅井氏

2016-08-14 06:30:00 | 戦国名家の系譜
【浅井氏の歴史】

*浅井氏は近江国浅井郡丁野郡付近を本拠に

 した土豪。浅井亮政はもともと守護京極氏

 の臣であった。1523年浅井亮政は守護京極

 高清父子を尾張へ追放するも、小谷城を築く

 と再び京極父子を迎え入れる。しかし京極

 高清の子高吉(注1)は亮政の嫡男久政討伐

 を計るも失敗。国外に追放され、高吉・高次

 父子は坂田郡清滝村に逼塞する。

*浅井亮政は南近江の佐々木六角定頼と交戦を

 繰り返すも、再三敗北。亮政の六角攻めに、

 朝倉氏は浅井方を支援。その子久政は文弱で、

 六角氏の意を迎えるに努める。1530年来の

 美濃の騒乱では、佐々木六角定頼・朝倉孝景

 の連合軍が、斎藤道三方を攻める為北近江を

 通るのを許している。ところが、1547年久政

 が斎藤道三と組んで織田信秀の大垣城を攻めて

 から佐々木六角氏との関係にひびが入る。

*1548年には斎藤道三の子息義竜と久政の女

 近江の方の婚儀なる。その子長政は1560年

 佐々木六角義賢(承禎)を破り名をあげた。

 その後1565年将軍義輝弑逆事件が起こると、

 美濃平定に成功しつつあった尾張の織田信長

 に危機感をもった六角義賢は、和田伊賀守

 惟政を使いとして長政に信長家との婚礼を

 進めるも、一旦断る。がしかし、1567年信長

 が美濃平定に成功すると、今度は浅井長政から、

 急ぎ美濃福東城主市橋長利を介して、信長に

 同盟を求め、翌1568年長政と信長妹のお市

 との婚儀なる。

*その年の信長上洛戦の路次で、浅井家が追放

 した元北近江守護京極氏を信長が手勢に加えた

 ことから、六角氏・浅井氏に不信感が発生。

 そのためか1570年将軍義昭と信長の上洛命令

 を無視した朝倉氏に対し信長が軍事行動を

 おこしたときには、浅井長政は佐々木六角承禎

 と組んで信長に対して叛乱をおこし、朝倉氏

 擁護に廻る。結果的に朝倉義景と連合して信長

 に対抗するも、天正元年(1573)8月滅ぼされて

 しまう。


 ※戦国人名事典では、京極高清からの代々は

  高清→高峰→高秀→高吉→高次とありますが、

  WIKIでは「高吉は高清の子」となっています。

 ※以前は「あさい」と読む場合もありましたが、

  現在では「あざい」と読むことになっている

  ようです。


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