『いいかよく聞け、五郎左よ!』 -もう一つの信長公記-

『信長公記』と『源平盛衰記』の関連は?信長の忠臣“丹羽五郎左衛門長秀”と京童代表“細川藤孝”の働きは?

戦国名家の系譜:佐々木氏[2/2]佐々木京極氏

2016-09-19 00:00:00 | 戦国名家の系譜
※佐々木氏は佐々木六角氏と佐々木京極氏に

 分かれていきますので、2回に分けての

 投稿です。二回目は佐々木京極氏から。


【佐々木氏の歴史】

*近江源氏佐々木氏の末裔。氏綱の子の時に

 分派。次男高信の系統は、後義綱の時に

 朽木氏となる。四男泰綱は京都六角東洞院

 に住み、佐々木六角氏の祖。五男氏信は

 京極高辻に住み佐々木京極家の祖となる。


≪佐々木京極氏≫

*惣領は六角氏のものであったが、高氏

 (導誉)の時、高氏は南北朝期足利尊氏

 から絶大の信頼を得て、幕府の政所執事・

 評定衆・引付頭人といった要職を歴任。

 若狭・近江・出雲・上総・飛騨の各国

 守護を任ぜられるなど、惣領家の六角氏

 を凌ぐようになった。

*孫の高詮は侍所所司に任ぜられる四職の

 一つに列し、飛騨・出雲・隠岐の守護職

 の世襲化と、本拠北近江三郡の実質支配

 (分郡守護)を確立。後に御相伴衆と

 して幕政に参加する家格を有した。しかし、

 応仁の乱で家督争いや長期戦の為領国支配

 が動揺、家臣の浅井氏(亮政)に北近江を、

 守護代尼子氏に出雲・隠岐を奪われ、家は

 没落する。1523年京極高清・高吉父子は

 家臣の浅井亮政に尾張に追われるが、亮政

 は小谷城を作り再び高清父子を迎え入れる。
 
*高清の子高吉は浅井久政討伐を計るも失敗。

 高吉・高次父子は国外に追放され、坂田郡

 清滝村に逼塞する。

*1568年信長の入洛途上、近江入りの際いち

 早く臣従を誓う。高次は信長の人質となる。

*本能寺の変の時、高次は近江奥島五千石。

 しかし明智方について秀吉の城を攻めた為、

 追われる身となる。高次の妹が秀吉の側室

 (松の丸)となるのを機に罪を許され、

 大津城主六万石となる。異名に「ホタル大名」

 とよばれた。

*関が原では東軍に属し、大坂方の兵一万五千

 を十日間大津城にひきつける。その功により

 若狭小浜城主九万石に封ぜられる。


 ※江戸時代には京極家は四国讃岐国の丸亀

  城主となり、いまでも市内「京極通り」

  などに名を残しています。追手門には

  “平四ツ目結い”の家紋の幕が風に

  翻っております。


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