奥田英朗の小説に初めて出会ったのは、忘れもしない02年11月の名古屋出張の時だった。その夜、宿泊先のホテルで夜の供にしようと、駅の書店で文庫本を物色していた。日中、営業で散々しゃべってくたくただったので、肩のこらないミステリーがよいと思ったが、帰りの新幹線に乗り込む前に読み終わってしまうことがないように、なるべく分厚いものを選びたかった。そのボリュームに目が行き、手に取ったのが『最悪』だった。ミステリー好きの私でも、当時は奥田英朗の名を寡聞にして存じ上げなかったが、奥付を見ると「岐阜県出身」とある。翌日は岐阜の取引先に足をのばすことを思い出し、ふと興味が湧いた。巻末の解説にもざっと目を通すと、池上冬樹が「日本の犯罪小説のエポックメイキングとなる傑作」とやけに大げさに誉めている。文庫本の惹句や解説は割引いて考える必要があるのだが、とりあえず買って読んでみようとレジに向かった。
翌日の東海道線は眠くてしかたなかった。『最悪』を夜を徹して読み切ってしまったのからである。池上冬樹の解説に嘘はなかった!大傑作だったのである。
余程のことがない限り文庫化を待つ私だが、それからの奥田英朗は、新刊が書店に並ぶと無条件で即購入する四人の作家(あとの三人は桐野夏生、貫井徳郎、佐野眞一)のうちの一人になった。
『空中ブランコ』で直木賞を受賞し、昨年から今年にかけても、『サウスバウンド』 『ララピポ』 『ガール』に『邪魔』『マドンナ』の文庫化と怒濤のリリースが続く奥田英朗。音楽でも文学でも、自分の好きなアーチストが売れるのは良いことである。多くの人に認められ、商業的な成功をおさめていれば、発表環境が確保されるので、ファンとしては、常に新作(新曲)の期待が持てるからである。その意味で、この作家には末永く活躍して欲しいと、心の底から思ってしまう。
彼の小説の魅力はなんだろう。当代きってのストーリーテラーにして、文章・構成は巧み、類い希なるユーモアセンスと圧倒的なリーダビリティ。人間の内面というよりも、もっと深い心の襞を取り出して、多くの読者が「どうしてこの人は、こんなにも私のことがわかるのか?」と驚嘆させられるほどのイマジネーションと洞察力。長く広告の世界で飯を食ってきたキャリアからか、本の装幀がどれも素晴らしい!本当に洒落ていて、思わず手にとってみたくなる。また、さすがに元コピーライターらしく、長短編いずれも、タイトルの付け方がまた上手である。
少し旧くなるが、「WEB本の雑誌」の作家の読書道のインタビューは、彼の志向や小説作法を知る上でとても興味深い。曰く「小説も広告も根っこは同じプレゼンテーション」であり、人の心をどう動かすか、どう楽しませるかが大切であり、「説明的な小説。説教している小説、自分のことを書いている小説が嫌い」とも語っている。コピーライター出身の作家ですぐ思い浮かぶのは林真理子だが、広告業界といえば、電通出身の藤原伊織もいる。クライアントと大衆の両方の心を動かさなければならないという、極めて難易度の高いビジネスに身を置いていた彼らの、読者へのサービス精神には共通するものがある。
前掲のインタビューでも、彼が若き日に一連の著作を読み、「しゃれてるなあ、こういうの書いてみたいなあと思った」と述懐する清水義範は、名古屋出身の一回り年上の先輩作家にあたる。正確には奥田英朗の出身地は岐阜だが、広義の名古屋圏であり、言葉やメンタリティーはほぼ共通である。この作家も「蕎麦ときしめん」など初期の著作で、名古屋を徹底的に揶揄していながらも、故郷に限りないシンパシーを寄せている。奥田英朗の『東京物語』を読んで、これと同じ感覚を持った。
そして、このインタビューでは、彼のプロット嫌いで、徹底的なディテール重視志向が表れている。
「ある人が、テーマを書くなディテールを書けというような意味のことを言っていました。ディテールを書くことができればテーマは浮き彫りになるのだと。僕もそれをやりたいと思っています。日常会話やエピソードを積み重ねていきたい。そういう意味では山田太一さんのドラマや小説の影響は受けていますね。とにかく日常会話がうまい。唯一影響を受けているのが山田太一さんだといってもいいかもしれない。」
また、「文芸春秋」2月号のヤクルト古田敦也監督との対談でも、こう語っている。
「小説はストーリーよりも登場人物のリアリティ。こういう人物が実際にいるかもしれないと思わせることができたら、あとは何を書いても大丈夫。多少嘘を散りばめても信じてくれます。だから僕は取材はしません。適当な文献を参考にして、それらしいことを書く。それらしいことを書く才能はあるんです。一所懸命取材して書く作家もいますけど、事実とリアリティとは全く違います。最終的には想像力ですよ。」
これを読んで、『ノルウエイの森』が社会現象になって、作中の登場人物が誰をモデルにしているのかを、やたらと騒がれていた時の村上春樹が、その状況に辟易しながら、エッセイで「あるモデルをそのまま描写するのでなく、色々な人物を粘土のようにこねてミックスしたうえで、造形していくのがリアリティなのだ」というようなことを力説していたのを思い出す。たぶん、リアリティはあくまでも作者の想像力の産物なのだということが言いたかったのではないだろうか。
佐野眞一『東電OL殺人事件』は、氏のねちっこく綿密な取材の成果が評価されたノンフィクションだが、その後に出た桐野夏生の傑作『グロテスク』の方がフィクションの体裁であるにもかかわらず、より本質に迫っていたように思う。前者は被害者の学校時代の友人に会ったり、遠くネパールまで飛んだ佐野氏の労作だが、リアリティという点において、『グロテスク』に軍配を上げたいのだ。
いくらインタビューや周辺取材をしても、人間はそう簡単に心の闇を明かすものではない。「どうだったのか」を想像して想像して、突き詰めて突き詰めて考え抜かなければ、リアリティを提示することはできない。
私も日常生活でも、人の表層部分にはあまり興味がなく、「何故?」という畳みかけをせずにはいられず、行動の動機を知りたくてたまらない厄介な性分であるから、とにかく犯罪が起こって、その先どうなるんだという、現象と筋立てのみが気になる短絡的なミステリー読者の一部から「前半が長すぎる」という指摘を受けた『最悪』も、大満足だった。奥田英朗のリアリティ追求、ディテール重視の作風は私の性にぴったりと合っているのである。
奥田英朗はとにかく売れている。大衆の心も掴み、名うての書き手や読み巧者からも高い評価を受けているようだ。デビュー作『ウランバーナの森』は浅田次郎推薦の帯をつけて上梓された。ファンタジックな世界が、いかにもけれん味たっぷりの浅田次郎のお気に召したのであろう。その後も、彼を賞賛するのは文庫の解説をしている関川夏央、豊崎由美、酒井順子(「マドンナ」を評しているが、颯爽とした負け犬たちの群像ともいえる「ガール」文庫化の暁にもお声がかかりそうだ)という面々。さらに先週の週刊文春の書評で、私が小中学生時代、家にあった松本清張全集を読み耽っていた頃の水先案内人としてお世話になった、ミステリー評論の大御所、郷原宏翁も『ガール』『ララピポ』を大変な傑作だと激賞している。
なんだ私の愛読する書き手ばかりではないか。これは好きになったのも必然だ。
思うに、奥田英朗は時代が求めている作家なのだ。「女性」を書ける、少年や引きこもりも描ける。世はビジネス誌で「うつ」特集が、大いに売れるという強度のストレス社会である。大ヒットのトンデモ精神科医伊良部一郎シリーズに限らず、彼の作品には「正気」から「狂気」になる市井の人物がよく登場する。傍目で見れば滑稽で可笑しいが、「マドンナ」の43歳課長も、『ガール』収録の「マンション」も「ひと回り」も主人公の願望や妄想が沸点までエスカレートして、ある事件をきっかけに、「憑き物が落ちたように」正気に戻るという展開が共通している。ちょっと精神の平衡を失った人に、伊良部という類い希なるインターフェイスを絡ませることによって、現代の病理をより鮮やかに描き出すことに成功した『空中ブランコ』と『イン・ザ・プール』が最もポピュラリティーを得ているのはよく理解できる。「セラピー小説」とも称されるが、奥田英朗は現代最高の「メンヘル小説」(私の造語:メンタルヘルスの意)の書き手ではないだろうか。重松清が「少年文学」「同世代文学」という新しいジャンルを確立したのと同様に、奥田ワールドには、もちろん普遍性もあるが、同時に強く時代性というものを感じずにはいられない。
つい何度も読み返したくなるのは、奥田英朗が、ある種「突き抜けた」キャラクターを造形することに長けているからでもある。
伊良部一郎はもちろんのこと、『サウスバウンド』主人公二郎の父である上原一郎。「ガール」の主人公由紀子の先輩でお光こと光山晴美・・・。こういう破天荒で憎めない人物の言動は、凡庸な人間にとってはカタルシスになる。普通の人は誰しも、周囲のリアクションを気にして窮屈に生きている。団塊の世代から上の方が長嶋茂雄にあれほど熱狂したのは、自分が3度生まれ変わってもできないことを、長嶋が代わりにやって見せてくれることで得られる爽快感を求めたのだと思う。魅力的な人物を世に出すことは、それだけで人々の癒しになるのだ。
それから、伊良部シリーズが今後、奥田英朗の洞察力故に、結果的に鋭い社会時評になりうるという可能性を指摘しておきたい。
昨年の『オール読物』4月号に掲載された「アンポンマン」。あらすじは、ラジオ局を買収しようとしてTV局と対立する「ライブファースト」の若き総帥でIT業界の風雲児であるアンポンマンこと安保貴明が、PCばかり使いすぎたからか、突然平仮名が書けなくなってしまい、伊良部医院の門を叩く・・・・というストーリー。最後の場面で、セクシー看護婦マユミちゃんが、アンポンマンに向かって、「一人で勝っていると遊び相手がいなくなるよ」と忠告する。奥田英朗は、この短編のモデルとなった人物と面識はないはずなのに、この「患者」の孤独と影の部分を鮮やかに照射しているように思えた。
次回の伊良部シリーズは、あの黒木瞳を題材にしたという。。。楽しみだ。
このエントリータイトルからすると、羊頭狗肉の感があるが、少し長くなりすぎたので、この辺で終了。次はちゃんと「奥田英朗を読み解」いていきたいと思う。
〈敬称略〉
翌日の東海道線は眠くてしかたなかった。『最悪』を夜を徹して読み切ってしまったのからである。池上冬樹の解説に嘘はなかった!大傑作だったのである。
余程のことがない限り文庫化を待つ私だが、それからの奥田英朗は、新刊が書店に並ぶと無条件で即購入する四人の作家(あとの三人は桐野夏生、貫井徳郎、佐野眞一)のうちの一人になった。
『空中ブランコ』で直木賞を受賞し、昨年から今年にかけても、『サウスバウンド』 『ララピポ』 『ガール』に『邪魔』『マドンナ』の文庫化と怒濤のリリースが続く奥田英朗。音楽でも文学でも、自分の好きなアーチストが売れるのは良いことである。多くの人に認められ、商業的な成功をおさめていれば、発表環境が確保されるので、ファンとしては、常に新作(新曲)の期待が持てるからである。その意味で、この作家には末永く活躍して欲しいと、心の底から思ってしまう。
彼の小説の魅力はなんだろう。当代きってのストーリーテラーにして、文章・構成は巧み、類い希なるユーモアセンスと圧倒的なリーダビリティ。人間の内面というよりも、もっと深い心の襞を取り出して、多くの読者が「どうしてこの人は、こんなにも私のことがわかるのか?」と驚嘆させられるほどのイマジネーションと洞察力。長く広告の世界で飯を食ってきたキャリアからか、本の装幀がどれも素晴らしい!本当に洒落ていて、思わず手にとってみたくなる。また、さすがに元コピーライターらしく、長短編いずれも、タイトルの付け方がまた上手である。
少し旧くなるが、「WEB本の雑誌」の作家の読書道のインタビューは、彼の志向や小説作法を知る上でとても興味深い。曰く「小説も広告も根っこは同じプレゼンテーション」であり、人の心をどう動かすか、どう楽しませるかが大切であり、「説明的な小説。説教している小説、自分のことを書いている小説が嫌い」とも語っている。コピーライター出身の作家ですぐ思い浮かぶのは林真理子だが、広告業界といえば、電通出身の藤原伊織もいる。クライアントと大衆の両方の心を動かさなければならないという、極めて難易度の高いビジネスに身を置いていた彼らの、読者へのサービス精神には共通するものがある。
前掲のインタビューでも、彼が若き日に一連の著作を読み、「しゃれてるなあ、こういうの書いてみたいなあと思った」と述懐する清水義範は、名古屋出身の一回り年上の先輩作家にあたる。正確には奥田英朗の出身地は岐阜だが、広義の名古屋圏であり、言葉やメンタリティーはほぼ共通である。この作家も「蕎麦ときしめん」など初期の著作で、名古屋を徹底的に揶揄していながらも、故郷に限りないシンパシーを寄せている。奥田英朗の『東京物語』を読んで、これと同じ感覚を持った。
そして、このインタビューでは、彼のプロット嫌いで、徹底的なディテール重視志向が表れている。
「ある人が、テーマを書くなディテールを書けというような意味のことを言っていました。ディテールを書くことができればテーマは浮き彫りになるのだと。僕もそれをやりたいと思っています。日常会話やエピソードを積み重ねていきたい。そういう意味では山田太一さんのドラマや小説の影響は受けていますね。とにかく日常会話がうまい。唯一影響を受けているのが山田太一さんだといってもいいかもしれない。」
また、「文芸春秋」2月号のヤクルト古田敦也監督との対談でも、こう語っている。
「小説はストーリーよりも登場人物のリアリティ。こういう人物が実際にいるかもしれないと思わせることができたら、あとは何を書いても大丈夫。多少嘘を散りばめても信じてくれます。だから僕は取材はしません。適当な文献を参考にして、それらしいことを書く。それらしいことを書く才能はあるんです。一所懸命取材して書く作家もいますけど、事実とリアリティとは全く違います。最終的には想像力ですよ。」
これを読んで、『ノルウエイの森』が社会現象になって、作中の登場人物が誰をモデルにしているのかを、やたらと騒がれていた時の村上春樹が、その状況に辟易しながら、エッセイで「あるモデルをそのまま描写するのでなく、色々な人物を粘土のようにこねてミックスしたうえで、造形していくのがリアリティなのだ」というようなことを力説していたのを思い出す。たぶん、リアリティはあくまでも作者の想像力の産物なのだということが言いたかったのではないだろうか。
佐野眞一『東電OL殺人事件』は、氏のねちっこく綿密な取材の成果が評価されたノンフィクションだが、その後に出た桐野夏生の傑作『グロテスク』の方がフィクションの体裁であるにもかかわらず、より本質に迫っていたように思う。前者は被害者の学校時代の友人に会ったり、遠くネパールまで飛んだ佐野氏の労作だが、リアリティという点において、『グロテスク』に軍配を上げたいのだ。
いくらインタビューや周辺取材をしても、人間はそう簡単に心の闇を明かすものではない。「どうだったのか」を想像して想像して、突き詰めて突き詰めて考え抜かなければ、リアリティを提示することはできない。
私も日常生活でも、人の表層部分にはあまり興味がなく、「何故?」という畳みかけをせずにはいられず、行動の動機を知りたくてたまらない厄介な性分であるから、とにかく犯罪が起こって、その先どうなるんだという、現象と筋立てのみが気になる短絡的なミステリー読者の一部から「前半が長すぎる」という指摘を受けた『最悪』も、大満足だった。奥田英朗のリアリティ追求、ディテール重視の作風は私の性にぴったりと合っているのである。
奥田英朗はとにかく売れている。大衆の心も掴み、名うての書き手や読み巧者からも高い評価を受けているようだ。デビュー作『ウランバーナの森』は浅田次郎推薦の帯をつけて上梓された。ファンタジックな世界が、いかにもけれん味たっぷりの浅田次郎のお気に召したのであろう。その後も、彼を賞賛するのは文庫の解説をしている関川夏央、豊崎由美、酒井順子(「マドンナ」を評しているが、颯爽とした負け犬たちの群像ともいえる「ガール」文庫化の暁にもお声がかかりそうだ)という面々。さらに先週の週刊文春の書評で、私が小中学生時代、家にあった松本清張全集を読み耽っていた頃の水先案内人としてお世話になった、ミステリー評論の大御所、郷原宏翁も『ガール』『ララピポ』を大変な傑作だと激賞している。
なんだ私の愛読する書き手ばかりではないか。これは好きになったのも必然だ。
思うに、奥田英朗は時代が求めている作家なのだ。「女性」を書ける、少年や引きこもりも描ける。世はビジネス誌で「うつ」特集が、大いに売れるという強度のストレス社会である。大ヒットのトンデモ精神科医伊良部一郎シリーズに限らず、彼の作品には「正気」から「狂気」になる市井の人物がよく登場する。傍目で見れば滑稽で可笑しいが、「マドンナ」の43歳課長も、『ガール』収録の「マンション」も「ひと回り」も主人公の願望や妄想が沸点までエスカレートして、ある事件をきっかけに、「憑き物が落ちたように」正気に戻るという展開が共通している。ちょっと精神の平衡を失った人に、伊良部という類い希なるインターフェイスを絡ませることによって、現代の病理をより鮮やかに描き出すことに成功した『空中ブランコ』と『イン・ザ・プール』が最もポピュラリティーを得ているのはよく理解できる。「セラピー小説」とも称されるが、奥田英朗は現代最高の「メンヘル小説」(私の造語:メンタルヘルスの意)の書き手ではないだろうか。重松清が「少年文学」「同世代文学」という新しいジャンルを確立したのと同様に、奥田ワールドには、もちろん普遍性もあるが、同時に強く時代性というものを感じずにはいられない。
つい何度も読み返したくなるのは、奥田英朗が、ある種「突き抜けた」キャラクターを造形することに長けているからでもある。
伊良部一郎はもちろんのこと、『サウスバウンド』主人公二郎の父である上原一郎。「ガール」の主人公由紀子の先輩でお光こと光山晴美・・・。こういう破天荒で憎めない人物の言動は、凡庸な人間にとってはカタルシスになる。普通の人は誰しも、周囲のリアクションを気にして窮屈に生きている。団塊の世代から上の方が長嶋茂雄にあれほど熱狂したのは、自分が3度生まれ変わってもできないことを、長嶋が代わりにやって見せてくれることで得られる爽快感を求めたのだと思う。魅力的な人物を世に出すことは、それだけで人々の癒しになるのだ。
それから、伊良部シリーズが今後、奥田英朗の洞察力故に、結果的に鋭い社会時評になりうるという可能性を指摘しておきたい。
昨年の『オール読物』4月号に掲載された「アンポンマン」。あらすじは、ラジオ局を買収しようとしてTV局と対立する「ライブファースト」の若き総帥でIT業界の風雲児であるアンポンマンこと安保貴明が、PCばかり使いすぎたからか、突然平仮名が書けなくなってしまい、伊良部医院の門を叩く・・・・というストーリー。最後の場面で、セクシー看護婦マユミちゃんが、アンポンマンに向かって、「一人で勝っていると遊び相手がいなくなるよ」と忠告する。奥田英朗は、この短編のモデルとなった人物と面識はないはずなのに、この「患者」の孤独と影の部分を鮮やかに照射しているように思えた。
次回の伊良部シリーズは、あの黒木瞳を題材にしたという。。。楽しみだ。
このエントリータイトルからすると、羊頭狗肉の感があるが、少し長くなりすぎたので、この辺で終了。次はちゃんと「奥田英朗を読み解」いていきたいと思う。
〈敬称略〉
でも、まだまとまらなくて。
どうして彼女がああいうしんどい生活を送っていたのか知りたい…。
『グロテスク』も読みたいけど、文庫になるの待ってます(^^;
女性の心の闇は、男性がいかに取材しようとわからない部分があります。レビューを楽しみにしています。ハイ。
自伝的小説では奥田さんの他の小説のようなおもしろさが発揮しきれないみたいで、ちょっと物足りなかったです。 TBさせていただきますね。
このブログは奥田さんが書いているのではないかしらと思ってしまうほど、表現や間が似ていますね。