音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

ノルウェイの森

2011-01-03 06:28:12 | 映画・ドラマ・音楽
年末に観ていましたが、感想を一言で云えば「なんじゃこりゃ?」かな。スポーツニュースに流れるハイライト映像の如く、原作のキャッチーな場面を単につなぎ合わせた紙芝居としか思えなかった。こんなことになるのだったら、フランス系ベトナム人監督のトラン・アン・ユン監督は、一から十まで自分の好きなように撮った方が良かったんじゃないでしょうか。所詮小説と映画は別物なんだし、原作に忠実であるよりもむしろ、世界で読まれる「春樹ワールド」を外国人の映像作家がどう解釈しているかに興味がありました。

同郷出身のよしみで『風の歌を聴け』を大森一樹監督に任せて出来が気に入らなかったせいなのか、以来、村上春樹は自作の映画化を頑なに拒んできました。それがどういう風の吹き回しなのか、今回のオファーにはOKしたと。小川プロデューサーのインタビューなどを読むと、脚本を持って何度かお伺いを立てたらしいのですが、とすれば原作者もある程度映画にコミットしています。そもそも監督は翻訳された『ノルウェイの森』しか読んでいませんから、当初の脚本はもっと別の形だったようです。ただ、原作に惚れ込んだ主演の松山ケンイチが、作中の台詞を出来るだけ活かしたいと強く希望したため、形の上では小説の会話が再現されています。まあ色んな事情や思惑が錯綜したため、ワケワカンナイものになってしまったのかもしれません。

村上春樹は演劇学科出身であり、若い頃は年間200本以上の映画を観ていたフリークですから、もちろん一家言持っているはずです。その頑固でこだわりの塊みたいな人が、本作に肯定的な評価をしているらしいのが解せませんが、もしかしたら自らの青春の一コマを、美しい映像で定評のある世界的な監督に撮ってもらったのが嬉しいのかもしれない。原作でも「草原の風景が映画の中の象徴的なシーンみたいに浮かんでくる」という一節があったし、喩えとして適切かどうか微妙ですが、水木先生は朝ドラ『ゲゲゲの女房』が、自分とはかけ離れた爽やかイケメン俳優が演じるのが面映ゆくも、大変ご満悦だったようなので。

私は高校時代以来『ノルウェイの森』を多分4回は通しで読んでいますが、本作を「自伝的青春小説」と捉えています。空前の大ベストセラーで社会現象になったため、マスコミが作中人物のモデル探しに躍起となっていた当時、作者は懸命にそれを否定していました。「実在の人物をそのまま描写するのではなく、色んなものを粘土のようにミックスした後に造形していくことで本物のリアリティーが生まれる」とかなんとか云って。それでも、主人公の思想やビヘイビアは作者のそれをかなり色濃く反映しているし、寮で同室だった「突撃隊」は、その後どこかの地方の社会科の先生になっていて「村上は汚くて、酒ばかり飲んでいた」と取材に答えています。そして、それまでの作品でも執拗に登場させていたことからも、「直子」的な女性との交流や「似たようなこと」が現実であった可能性は高い。

『ユリイカ』1月臨時増刊号の総特集で、峰なゆかさんという女性ライターが寄稿した「村上春樹へのラブレター」が大変秀逸で面白く、映画『ノルウェイの森』のレビューの中で、最も共感できるものでした。

只のめんどくさいメンヘラ女に成り下がった直子、男好きする場面だけ抜き出され変にバージョンアップされた緑、なぜか一発お願いしたいような美熟女になっているレイコさん・・・。主に本作の性愛シーンに着目した、峰さんの抱腹絶倒な論考はユリイカ臨増を読んでもらうとして、私は村上春樹の作品の中でも特徴的である、『ノルウェイの森』の女性陣について思うところを記してみます。


【直子】
菊地凜子は明らかにミスキャストでしょう。親友キズキの恋人だった直子は、東京で偶然の再会をしてからは、ある面でワタナベ君を頼り必要な存在としていました。ただし成り行きで1度関係を持ったものの、彼女の心の中に終始彼はいなかった。愛されていないことを半ば自覚しながら、彼はせっせと手紙を書き、京都駅からバスと徒歩で2時間近くもかかる山奥の療養所まで通います。レイコさんへ宛てた手紙でも「責任」という言葉を用いていますが、彼が行きがかり上、放っておけないと考えたのはわかります。それでも、あれほど陰々滅々としてややこしい直子に執着するのは、同情や保護というだけでは若い男子の動機として弱い。ズバリ、直子が顔よしスタイル(裸身)よしと、めちゃめちゃ可愛い女子じゃないといけないんです。

でも映画は、容姿の順位をつければ、

レイコ(霧島れいか)>緑(水原希子)>>>直子(菊地凜子)になってしまっていて、直子が抜きん出て美しいという物語の大前提が崩れているから、おかしなことになっているのです。それに直子というのは、キズキだけでなく優秀だった姉も自殺(現場を目撃!)で喪うという昏い家庭的背景を持ち、性的にも早熟だったわけです。ある意味大人びた女性のはずなのに、菊地凜子(アラサーなんだが。。)の声と舌足らずな喋り方は、イメージと大きな隔たりがありました。


【緑】
小説は主人公と緑の掛け合いが白眉だと思っていて、小気味いい毒舌や、いささかコミカルな性的妄想を速射砲のように繰り出す緑は生き生きとして魅力的です。どの編集者よりも作家・春樹を育てたといっていい鋭いファーストリーダーにして、敏腕マネージャーでもあるパートナー陽子夫人は、文京区千石の布団屋さんの娘で、四谷雙葉を出て早大文学部同期です。大学の教室で隣に座って「帝国主義ってなに?」と訊いてきたことが、春樹との出会いだったみたいです。殆どメディアには出てきませんが、才気煥発な人のようで、昔どこかに載っていた座談会の発言を読むと、その物言いや発想に「緑」を彷彿とさせるものがありました。よって緑には陽子夫人の要素が相当に入っているのは間違いありません。

緑の小説での初登場シーンは4~5センチの短髪でした。本人のいう「坊主頭」は大袈裟としても、「イオナ私は美しい」くらいの極端なショートだったのです。慣れずにスースーして落ち着かないから濃いサングラスをかけてるわけで、映画の緑ではモデル然とした小娘が気取っているようにしか見えない。いわゆる「女のコ」を求める周囲のマッチョな男の子からは、強制収容所だの小学生みたいだのと散々けなされ不評だった短髪ですが、

「まるで春を迎えて世界にとびだしたばかりの小動物のように瑞々しい生命感をからだじゅうからほとばしらせていた」

と、ワタナベ君は極めてポジティブに捉え、自然に「似合ってるよ」と褒めたからこそ、緑はそこで「おっ」と思ったのです。ちなみに原作では、緑のヘアスタイルがその後の展開でも意味を持ちます。新人の水原希子は透き通るような白い肌で独特の透明感があり悪くないので、むしろ直子役にした方がマシだったかも知れない。緑は強いていえば上野樹里あたりかな。


【レイコさん】
監督は当初、主人公が最後にレイコさんと寝るシーンをカットしていたようですが、周囲のスタッフが「これは重要な場面だから」と説得して挿入したようです。だから取ってつけたようになっているのでしょう。

原作の容姿についての描写からすると、レイコさんは「元気が出るテレビ」の兵藤ゆきみたいな顔をした女性を想像していました。小説ではキーパーソンであり、あの気難しいワタナベ君が初対面から好感を持った味のある女性です。レイコさんも彼に胸襟を開き、それまでの壮絶な半生(ピアニストになる夢の挫折、悪魔的なレズビアン少女譚)を語って聞かせるのですが、このあたりのサイドストーリーが尺の問題でカットされるのは仕方がないとして、レイコさんとワタナベ君の精神的紐帯というか、直子をサポートする者同士の連帯感を描いていないから、最後の濡れ場が唐突感にあふれてしまっています。

原作でのレイコさんは至極まともで、速達郵便と電話でアポをとり、東京駅まで迎えに来てもらい、中央線と吉祥寺からのバスの道中でも色々話します。武蔵野の一軒家賃貸に着いても、如才なく隣の大家さんに手土産を持って挨拶に行き(叔母という設定にした)、鍋を借りたりするなど年の功を見せたレイコさんは、まずワタナベ君が最も知りたかった直子の自殺に至るまでの経緯を語ります。そしてすき焼きを囲んだ後、近くの銭湯まで歩いて行き、それからようやく二人だけのお葬式が始まるのです。弔いにギターで50曲の弾き語りをした後、直子の死を共有する二人は、お互いが現実世界に戻るための儀式として、ごく自然に結ばれ朝まで4回交わるわけです。

レイコ「ねえ、ワタナベ君、私とアレやろうよ」
ワタナベ「僕も同じこと考えてたんです」

一方で、映画でのレイコさんは、いつ帰ってくるかわからない一人旅のワタナベ君をアパートの玄関先で待つという非現実的な行動に出たうえに、話すことが一杯あるはずなのに、家出少女のようにあまり喋らないのが不気味です。それでいきなり

レイコ「私と寝て」
ワタナベ「本気ですか?」

AVの方がもっと演出で引っ張るんじゃないかというほど拙速です。


【ハツミさん】
唯一まともに描かれていました。でも惜しむらくは、永沢さんと三人での気まずい会食の後の展開を全部カットしちゃったことでしょうか。本当にワタナベ君がハツミさんと心通わせることが出来たのは、その後なんですね。タクシーで渋谷まで行ってビリヤードに興じ、意外にも腕の立つハツミさんの颯爽とした姿に見とれて、ついやり過ぎて手の怪我を悪化させたワタナベ君は、ハツミさんのアパートで手当てを受けるのです。そしてカジュアルな雰囲気の中で、本音を吐露し合うのです。映画では帰りのタクシーの車中に会話をすべて詰め込んじゃっていたのが残念かも。でもキャスティング(初音映莉子)は良かったんじゃないでしょうか。


原作は60年代末の出来事を描いて80年代後半に出版されたものですが、非常に今日的な部分もありますから、学生運動という小道具を除き、現代に置き換えてみても面白かったかもしれません。初読のときは、なぜこんなに周囲の人が次々に命を自ら断つのだろうと疑問に思ったし、心を病む人の存在や精神疾患の施設というものに実感が湧きませんでした。自分の青少年期、病気以外で学校に来なくなる人は、学年に一人いるかどうかというくらいレアだったし、メンタルヘルスなんていう言葉もなかった。でも現代は不登校、引きこもり、鬱による中高年の自殺などが社会問題になっていて、誰しも身近で一人以上は思い浮かぶ人が存在します。

それにしても、商業映画のコードは難しいとつくづく思います。上映時間や性描写、音楽著作権等々・・・。未読の人にもわかりやすくアレンジすることや、冗長さをそぎ落とすための構成はもちろん必要だし、時に原作にない登場人物の追加もアリだとは思う。でも底の浅い解釈で、意味深い場面や状況を省略してアイテムのみを提示されるのは辛いものがります。それに、美しくない人、醜悪なものを大スクリーンに映せないのであれば、今後は村上作品の映画化は難しいでしょう。翻訳者でさえも気分が悪くなる人間の皮剝ぎや猫殺しなど、強烈な場面も少なくないですから。あ、『1Q84』は劇画的だから、作者の気が向いたらアリかもしれませんね。




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1 コメント

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あけましておめでとうございます。 (えい)
2011-01-03 12:42:38
とても読みごたえのあるレビュー。
読んでいて、思わず引き込まれました。
ありがとうございます。
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