音次郎の夏炉冬扇

思ふこと考えること感じることを、徒然なるままに綴ります。

貫井徳郎『灰色の虹』

2010-12-05 03:20:00 | 本・雑誌
冤罪をテーマにした貫井徳郎氏の新作『灰色の虹』(新潮社)は1ヶ月前に読了していましたが、思うところがあったのでレビューします。

貫井作品は文庫化を待たずに無条件で新刊を買ってしまうのですが、私が氏の作品に惹かれるのは、『慟哭』で注目を集めた秀逸なトリックや優れた構成力よりも、会話文の巧さと社会性・時事性に富むところにあります。このブログでも過去にコレコレなど事件に絡めて取り上げています。

『創』11月号の連載で精神科医の香山リカ氏が「取調べの可視化でも虚偽自白は防げない」と題して面白いことを書いていました。冤罪や自白の誘導、検察の証拠改竄などを考えた時に、昨今問題になっている案件は何れも、取り調べ段階では供述証書に署名が行われ、公判または刑の確定後にそれが否定されているのですが、大学でも教えている香山氏がこのテーマで話をすると、学生から必ずといっていいほど出る意見は、

「やっていないなら、取り調べでどう言われても否認し続ければいいのに、一度“やりました”と言ってサインしてから、後になって“やっぱりやってません”というから、やっかいなことになるのではないか」

でも人間の記憶、意思、信念はそれほど強固なものではない、どころか相当に頼りないものであるのは、悪徳商法や結婚詐欺、怪しげな民間療法や新興宗教にはまる人の多さを見ても明らかとしたうえで、そのメカニズムを考察しています。

「本当にやった人」は自覚があるけど、冤罪や誤認逮捕の場合、「やってない人」は何の心の準備もないままに逮捕→取調べ→裁判に突入していくわけで、それは非日常の極みといっていい相当にハードな状況です。一方で取調べをするプロフェッショナルな警察官や検察官の方は、それが日常業務ですから、仕事が終われば家に帰って、家族や友人(またはペット)などと過ごすオフの時間が待っています。かように両者の心理の差は明らかで、外部との連絡が絶たれた密室で取調べを受けるうちに、命の行方まで取調官に差配されている気になるのは不思議ではないと。

香山氏によれば、『自白の心理学』などの著書がある心理学者の浜田寿美男氏は、事実とは違うことを「自白」してしまう「虚偽自白」にもいくつかの種類があるという論考を発表しているといいます。

【迎合型の虚偽自白】
やってない自覚がありながら厳しい取調べに屈して自白
逃避感情や自暴自棄、「刑が軽くなる」などという誘導に乗ってしまう
罪を犯していない人ほど死刑や無期懲役に対するリアリティーを持てず署名してしまう

【自己同化型の虚偽自白】
本人が「もしかして自分が犯人なのだろうか」という錯覚に陥る
「やった」記憶はないが、「やってない」記憶にも確信が持てなくなってくる
→記憶の空白が取調官のストーリーに上書きされる

後者の方がわかりにくいかもしれませんが、最近は健忘症気味の私は結構イメージすることができて背筋が寒くなってきます。足利事件の菅家さんの場合、今日では迎合型と自己同化型がミックスされた特異なパーソナリティーの持ち主だったことがわかっています。

香山氏は、今後も虚偽自白は増加するだろうと予想し、それは取調べ可視化だけでは防げないと論じています。なぜなら自己同化型の虚偽自白は、逮捕・拘留に伴う人間心理の必然的反応から生じているからです。そして氏は「スマートフォン1機だけは拘置所や留置場に持ち込み可」としたらどうかという斬新な改善策を披露しています。ツイッターやミクシーのコミュにアクセスすれば、孤立無援の心理状況や被疑者のパニックが少しマシになるだろうというのです。たしかにフォロワーに応援されれば、自分を冷静に見つめなおせるかもしれません。実現性はともかく、悪くないアイデアです。

以前、『空白の叫び』に絡めたエントリーで、作家のイマジネーションは現実を凌駕し、優れたフィクションが現実を照射するという意味のことを書きました。『灰色の虹』も、平和な日々を送っている一般の人には想像がしにくい冤罪の恐怖について、「ああ、こうなっていくんだな」と非常にわかりやすく描かれています。最も印象的だったのは、取調べにおける厳しい追い込みよりも、検事や警察官の作文能力です。彼らはプロの「フィクションライター」でもあるのです。冤罪に巻き込まれた主人公・江木雅史が、法廷における最終弁論で担当検事の熱弁を聞きながら、「自分の上にどんどんセメントを塗られ、まったく別の外見が作り出されていくようだ」と感じる場面があります。そこで、本作をこれから読まれる方のために、ストーリーには極力触れたくないので、別の喩え話をします。

お金持ちであるがゆえに苦労が絶えない人とか、お金が原因で手痛い失敗をした経験を持つ人など、ごくごく例外はあるかもしれませんが、「お金がほしいですか?」と一般論で問われたとき、口に出さないまでも「ノー」と否定する人は滅多にいないでしょう。そして、身に覚えはなくても、何故かあなたが他人の財布からお金を盗ったのを見た(ような気がする)という目撃者が出現したとします。そうなると、

①お前は日頃から金がほしかった

②お前が盗るのを見た人がいる

③だからお前がやったんだ

というフレームアップが容易に出来てしまうのですね、とても恐ろしいことですが。たとえ②がいい加減なものであっても、ほとんどの人は心の中にある①を完全否定できないから、①→③の理路を潰すことが意外と難しい。かなり強引であっても、プロがその気になれば、英語でいうsoという順接の接続詞を用いて動機を捏造することは可能なのです。

本書の参考文献には出ていませんでしたが、東浩紀氏の解説にも胸を衝かれる労作にして秀作ノンフィクション、小林篤著『足利事件』(講談社文庫)の併読もおススメです。



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